9.二人で過ごす時間
ファルヴの城塞にユウトの私室はきちんと用意されている。だが、私室というよりは寝室――でもなく、実態はほぼ仮眠室に等しい。ほとんど有名無実化していると言って良いだろう。
「そんな状況だったから、引っ越しは簡単だったよ」
「手間はかかっていないから、礼など不要だぞ」
不在にしたわずかな時間で、部屋を移動させたからと、ラーシアにエグザイルから言われ、ユウトはその場に崩れ落ちた。
だが、多少広い部屋に移動し、ベッドが増えた程度の変化でしかない。
そう。ベッドはふたつあった。別々だ。
もっとも、今はユウトのベッドの上に集まっているのだが。
「カイエ村の村長には、ちゃんと説明をして馬車鉄道と学校の件は賛成を取り付けてきたぞ」
夜、ベッドの上でヴァルトルーデが上目遣いでこちらを見ながら、きらきらとした表情で報告してくる。
ほめてほめてと言わんばかりに。
「ありがとう。助かったよ」
清々しいを通り越して、神々しいとすらいえる悟りきった微笑を浮かべながら、絹のように滑らかで黄金よりも美しい婚約者の髪を撫でる。
その大きく温かな手の感触に、ヘレノニアの聖女は気持ちよさそうに目を細めた。
「それからな、ハーデントゥルムの衛兵隊との話は、このまま進めるとこじれそうな気がしたので、先送りにしたぞ」
どちらの案件も、ユウトはアレーナ――やけに疲れた表情をしていたが――から報告を受けている。
結果として二人の話に相違はないのだが、ニュアンスには大きな隔たりがあった。
ヴァルトルーデが嬉しそうに語る内容を信じるならば大過なく橋を渡りきったことになるし、アレーナのそれを採用すると、その橋はとんでもなく不安定な吊り橋だったことになる。
今回の賢哲会議との交易で、ヴァイナマリネンへ返却するために、新品のデジタルビデオカメラを入手していたが、アレーナに渡して撮影しておいてもらえば良かった。
いや、余計な心配が増えるだけかも知れない。世の中には、知らなくて良いことも、知らないほうが良いこともたくさんある。
「ああ、助かったよ。ヴァルの判断で問題ない」
ただ、過程はどうあれ、ユウトの負担が軽減したのは確か。そこは、きちんと認めなければならない。
(その対価が、こんなことで良いのだろうか……)
そう思いつつ、ユウトは手を婚約者の髪から白磁のように美しく極上の手触りを誇る頬へと移動させ、愛犬にそうするように愛撫した。
彼女も嬉しそうに気持ちよさそうに身をよじるため、時折指先が耳に触れ、びくんと反応する様も面白い。
(いや、面白がってどうする)
我に返りつつ、屈託なく仕事の成果を話してくれたヴァルトルーデのことを考える。
正直なところ、彼女が内政に携わることに、諸手を挙げて賛成はしていなかった。適材適所の問題というのもあるし、どこか無理をしているのではないかと感じたから。
とはいえ、領主が領主の仕事をするというのに、反対するわけにもいかない。傀儡にする――などというつもりはないが、甘やかしていると思われるのも腹が立つ。
しかし、当初思っていたように、討魔神剣を失ったことによる逃避や、変な義務感から心ならずも内政に関わろうととしているというのは違う気がしてきていた。
では、どういう心境の変化なのかというのは、まだ判然としないのだが。
「ユウト、王都ではどうだったのだ?」
「ヴェルガ帝国の件とかを相談してきたよ」
その不吉な名を聞いて、ヴァルトルーデは身を固くした。
顔を撫でるユウトの手を包み込むように握り、続きを促す。
「だいたい、ヴェルガの思惑通りだな。帝都以外は、諸種族の王が相争い覇を競い合っている状態らしい」
「最も強き者を後継者に……か。それはつまり、私たちが参戦しても構わないということではないか?」
「鋭いな」
当然、ユウトも、その可能性は考えていた。
実際、彼らが諸種族の王を撃破することが、ヴェルガ帝国の版図に住む人々と周辺国家にとっては、平和への近道。
「でも、俺たちがそう考えることは、ヴェルガも分かっていたはずだ」
「……どういうことだ?」
「帝国の後継者にヴァルや俺がなって、そこに悪の半神が舞い戻る。ヴェルガの思い通りのような気がしないか?」
「悪辣な」
滅びたのなら、素直に滅びたままでいればいいのだ。
そうヴァルトルーデは口をとがらす。
「まあ、最低でも十年。普通に考えれば数十年は先のことだろうし、ヘレノニア神の再教育に期待しよう」
「教育でどうにかなるのか、あれが……」
ヘレノニア神の下僕として信じてはいるが、直接干戈を交えたこともあり、ヴェルガのこともよく理解している。
あれは、目的のためなら、被害を斟酌しない女だ。
「でも、放置もできない。体制を整えてからになるけど、人間の奴隷を救出するという名分で、軍を出すことになりそうだ。クロニカ神王国と合同でね」
「私たちも、参加するのだな?」
「放っておくわけにはいかないだろうね」
ユウトには、救出した人々の受け入れ先を作るという仕事もあるが、大魔術師という絶対的な戦力を残していくとも思えない。
むしろ、タイミングによってはヴァルトルーデが居残りになるかも知れなかった。
なにしろ、二人はこれから結婚するのだ。
今のところは、暗黙の了解で、ヴェルガとのデート前にあった以上の行為には及んでいない。照れもあるし羞恥もあるが、そんなことをせずとも育んできた愛情が徒になっているのかも知れなかった。
「あとは、俺たちの結婚式に貴族やらなんやらがたくさん参加したがってるらしい」
「来る者は拒まずでは駄目なのか?」
「ファルヴに入りきれないほど来られたら?」
「ああ……。それは困るな」
「困るどころじゃないんだよ」
いかに大魔術師といえども、物理を超えるのは困難が伴う。そもそも、好きこのんで、苦労を背負い込みたくなどない。
「とりあえず、分神体の降臨があるかも知れないという噂を流してもらうことにした。あの各神殿の粛正があったばっかりだし、後ろ暗いところのある人間は来られないんじゃないかな。来るな」
アルサス王の前では言えなかった言葉を、遠慮なくヘレノニアの聖女へ吐き出す。その本音を聞いて眉をひそめるが、すぐに誰にも言えない本音だと気付き相好を崩した。
ただ、気づいたのはそれだけではない。
「なあ、ユウト」
「ん?」
珍しく言いにくそうにしているヴァルトルーデ。自信なさげな彼女を後押しするかのように、
ユウトは手を握る力を強める。
「それは、貴族以外の普通の人がやってくるのではないか?」
「え? あ、あれ……?」
フリーズするなどとよく言われるが、本当に固まって思考が働かなくなることは少ない。たいていは、意味が理解できず、理解したくなくて、うかつさに悪態をつきたくなって……。
最後には、認めざるを得なくなるのだ。
「そんな、分神体とか会ってみたいもの? つまり、リトナさんだよ?」
「当たり前だろう?」
「なんか、うちにきて飲み食いしかしてないのに?」
「昆虫人どもを退けてくださったではないか。それに、ツバサ号も」
「そうだけど。そうなんだけど……」
そう。認めざるを得ない。
実態を知らなければ、とてもありがたいものに違いないという事実に。
「最悪来なかったとしても、評判のヴァルを一目見られればいい的な?」
ゴブリンなどの悪の相を持つ亜人種属や、街道沿いを縄張りにする山賊らが跳梁跋扈するこの世界の治安は決して良いとは言えない。
そのなかで、異常に治安が保たれている地域がある。
このイスタス侯爵領だ。
「いっそ、どっか別の場所でやるか? ああ、オズリック村とかいいかな。ゼインさんには頑張ってもらう方向で」
「やめてくれ。ジイさまが死んでしまう」
「むう……」
これは誤算だ。考えなければなるまい。
考えてどうにかなる問題かまでは、分からないが……。
「さっきレジーナさんから言われたことを、もうちょっと真剣に考えておくべきだったか」
「どうかしたのか?」
「ああ。なんか、俺たちの結婚式のことがどこからか漏れ伝わったらしくてさ。これを機会に自分たちもという人が増えてて、ヴェルミリオにも注文がいくつか来てるんだとか」
「むう。なんだか、気恥ずかしい話だな」
「注目されてるんだな、俺たち」
自覚していなかった――あるいは目を背けたかった――事実を突きつけられ、がっくりと肩を落とす。
「そういえば、そのときのレジーナさんはおかしかったし、ペトラからはなんか避けられたし、カグラさんにはにらまれたし、悪いことは重なるもんだな……」
「なにかしたのではないか? とはいえ、私にも心当たりはないな。アカネに聞いてみるのはどうだ?」
「そうだな。今度、確認してみるか」
そんな結論が出たところで、不意に会話が止まる。
無言で見つめ合い、さっきから握ったままだった手はしっかりとつながったまま。
思えば、こんな格好で業務報告をしていたのだ。
そのおかしさに、思わず笑ってしまう。ラーシアでなくとも、あきれられるところだ。いや、ラーシアだったらニヤニヤと笑っているところか。
「どうかしたか?」
「幸せだなと思ってただけだよ」
仕事の話をしているだけのに、こんなに楽しいのだ。これが幸せでなくてなんというのか。
そう、蜂蜜漬けのように甘い思考を垂れ流しそうになった瞬間――唐突に理解した。
「……そうだったのか」
ヴァルトルーデが、いきなり領地経営に参加しようとし、勉強を始めた理由。
討魔神剣を失ったショックでもない。逃避先として選んだわけでもない。
(俺を喜ばせたかっただけなのか……)
なんのことはない。ユウトが、ヴァルトルーデを手助けしようと思った動機とまったく同じではないか。
「さっきからおかしいぞ」
「ヴァル」
「な、なんだ」
「好きだよ」
ストレートに気持ちを伝えると、いまだに驚き慌てふためく。
「なっ、そっ、のだなっ」
そんな彼女への愛おしさが募り、唇を塞いでしまった。
最初は少しだけ抵抗したものの、数秒もしたら目をとろんとさせなすがままになる。
幸せだ。
他の人間のことまでは分からないが、それでも、世界で一番幸せだと断言できる。
ただ、その幸せはもっと深くすることができるはず。
ユウトは、ひとつの決意を胸に、いうまでもなく世界で一番可愛らしい婚約者の唇を貪った。




