7.イスタス侯爵の新しい日常(前)
結婚という人生の一大イベントを前にして、ヴァルトルーデは考えた。
いつまでも、ユウトに依存していいのだろうか、と。
夫婦とは支え合うものだというが、自らを振り返ってみてどうだ。領地経営は元より、その前段階の計画立案から頼りっぱなしだ。
自分は、簡単な決済や採用の面接、神殿での仕事しかしていない。
これでいいのか。
否、いいはずがない。
だから、ヴァルトルーデは剣を振る時間を減らし、勉強を始めた。少しでもユウトの負担を減らしたいと願って。
新しい武器を望まなかったのも、予備武器で事足りるため。確かに、討魔神剣を失ったのはショックだった。しかし、後悔はない。
そして、アダマンティン製の長剣は討魔神剣に見劣りするものの、ユウトの支援があれば充分戦える。
それならば、ヘレノニア神からの報酬は、他のことに使ったほうがいいのではないかと判断しただけだ。
自分の行動の変化に伴い、彼から心配そうな目で見られることも分かっていた。
今までの行いからすればもっともだ。理不尽でもなんでもない。
ただ、自分でそう説明することはできなかった。
察してほしいとわがままを言っているわけではないが、気恥ずかしい。
貴方のために、慣れない仕事を頑張っています。
言えるものか。
「しかし、それでは夫婦失格かも知れないな……」
「なにが失格でありますか?」
「い、いや。なんでもない。ないぞ」
不思議そうに顔をのぞき込んでくるアレーナ・ノースティンに、明らかになにかあるような態度で首と手を振って、素早く否定した。
しかし、やり過ごしたつもりになっているのは彼女だけで、対面に座るアレーナは首をひねっている。相手がラーシアだったら、あることないこと聞き出そうとしているところだ。
そんな彼女の様子には気づかず、ヴァルトルーデは再び手元の紙束に視線を落とす。
ケラの森へ移住してきたジンガたちが、ヴァイナマリネンと協力して作製した木材紙。その試作品で作られた文字の教科書だ。
ファルヴの初等教育院で使用されている物と同じだが、ヴァルトルーデのレベルにはちょうど良い。
その手引きに従い、文字を指でなぞり、簡単な単語の読み取りを続ける。
努力の甲斐あって、ほんの少しだけだが、読み書きもできるようになっていた。
これは彼女にとっては、非常に大きな前進だ。
ガタゴトと、車輪が轍を進む音が耳朶を打つ。
オズリック村での用件を終えたヴァルトルーデは、途中でアレーナと合流し、馬車で領内を移動していた。
目的地は、イスタス侯爵領に属するカイエ村。
ユウトと視察をしたこともある場所だが、今回は別行動。王都へ向かったユウトに代わって、ファルヴのヘレノニア神殿からアレーナたち数名の聖堂騎士が付き添っていた。
当然のように、「一人で充分」と主張するヴァルトルーデに対し、「侯爵閣下が単独行動などありえないであります」と正論をぶつけられて今に至る。
普通の馬車での移動は久々で、それ自体は新鮮だったが、他人と一緒なのはやや窮屈に感じられた。
本来であれば、同じ神を信仰する者同士。他人などと思ってはいけないのだろうが、それが偽らざる感情。
ユウトが一緒ならば、こんな気持ちにはならなかったはず。今まで自由な行動が許されていたのも、付き人として彼がいてくれたから。
このことひとつとっても、貴族の慣習から守られていたのだなと、ユウトの――もうすぐ夫になる男の――想いを感じてしまう。
「そろそろ、到着するであります」
「……そうか」
教科書から目を上げ、視線を正面に向ける。
それはアレーナを通り過ぎ、その先のカイエ村をも飛び越え、王都にいるユウトを見ていた。
実質的に、領主として初めての仕事になる。
彼に恥ずかしい報告をするような真似は、絶対にできなかった。
「よく、おいでくださいました」
「こちらこそ、わざわざ時間を取らせて済まない」
「滅相もありません」
村長のロシウスがあわてて手を振るが、これは彼のほうが正しい。領主の訪問があるとなれば――内心はどうあれ――最優先するのは当然だし、そもそも侯爵が村長に謝るほうがおかしい。
それは、後ろに控えるアレーナも微妙な表情で肯定していた。
そのアレーナだけを連れて、ヴァルトルーデが村長の家へと入っていく。同行してきた他の聖堂騎士たちは、外で警戒をするそうだ。
なにに対してかは分からないが、そういうものなのだろう。
(ユウトと相談して、無駄はどうにかしたいのだが……。下手に省略すると、私たちの子供が困るのか?)
ドラゴンが産むのはドラゴンだが、ヴァルトルーデもユウトも人間だ。つまり、二人の子とはいえ、ただの人間。教育はするつもりだが、どう育つか分からないし、過剰な期待をかけるつもりもない。
まだ見ぬ我が子のため、今は我慢をしよう。
そんなことを考えているとはつゆ知らず、ロシウス村長は、以前よりは豪華になった椅子を領主へと勧めた。
すぐに、元冒険者でもある息子の嫁がハーブティーが注がれたカップを人数分置き、頭を下げて隣室へと移動する。
(そういえば、彼女も子供を産んだのだったか)
あとで時間があれば話を聞いてみたい。
そう思いつつ、やはり、グレードの上がったティーカップに口をつけた。最上級とは言えないが、厚さも白さも申し分ない。
一年間の租税免除と、農作業に集中できる環境作りは、この村にもしっかりと恩恵を与えているようだった。生活に余裕があること。それも、幸せのひとつの形。
「今日は、ひとつ提案があって来た」
それに驕ることなく、ヴァルトルーデは用件を切り出した。いつもは、軽い雑談から本題へと移行するため、村長が戸惑いの表情を見せる。
しかし拒絶できるはずもなく、彼女自身、余裕がないのでその変化に気づかない。
「どのようなお話でしょうか」
「ファルヴは馬車鉄道でハーデントゥルムやメインツと結ばれているのだが……」
「存じておりますが」
「それなら、話は早い」
ヴァルトルーデが心からの微笑みを見せ、村長はそのあまりの美しさに忘我する。
けれど、今は交渉でそれに気づく余裕はない。子供の落書きのようなメモ書きを片手に、次の言葉を紡いでいく。
「このカイエ村だけでなく、周辺の村とファルヴを馬車鉄道で繋ぎ、村の子供たちを初等教育院へ通わせるために使用したい」
この領主様の言うことだ。賦役を求められているのではなく――求められたとしても、きちんと対価が支払われるだろうが――単純に同意を求めているだけだ。
それに気づく程度の経験値は蓄積している。
けれど、分からない点がひとつ。
「子供を運ぶためだけ、なのですか?」
「うむ。ユウト――家宰が言うには、定期便を出したら村から若者がいなくなると」
送迎以外に馬車鉄道を運行すれば、行商人が訪れやすくなるなどのメリットはある。
しかし、交通網が発達するということは、双方のアクセスが良くなるということも意味していた。つまり、水が高きから低きへ流れるように、田舎から都会へと人口は流出してしまう。
誰だって、住むなら都会のほうがいい。
今のファルヴであればなんらかの職にはつけるだろうし、なにかあれば簡単に帰れるということで心理的なハードルも低くなる。
人を土地に縛り付けたいわけではないが、準備や対策もない人口移動は避けたいところ。
というのがユウトの考えなのだが、残念ながら――アレーナも含め――そこまでは理解が及ばない。それでも、無理に定期便が欲しいわけではないので、馬車鉄道の敷設自体に反対は出なかった。
「しかし、子供たちを学校にですか……」
「ああ、それだな」
ロシウス村長の懸念は別にある。
だが、それも想定内。ちゃんと、クロード老人に聞いて確認してあった。
メモをめくり、目を細めて該当個所を読み上げる。
「コドモたちといえども、リッパなロウドーリョクであることは分かっている」
「は、はぁ……」
「そこで、ショトウキョーイクインにシュッセキしたコドモには、ニットウを出す? ことになっているのだ。安心して良いぞ」
「やはり、その噂は本当なのですか……」
学芸会よりもひどい棒読みにも驚いたが、内容も非常識だ。教育を施したうえに、給金まで与える領主がどこにいるというのだ。
「うむ。別に金銭であがなっているわけではないぞ。金の使いかたを憶え、日常生活のなかで計算を身につけさせる……そうだ」
それは建前で、理術呪文を普及させたいという野望もあるのだが、さすがにそこまでは言わない。というより、ヴァルトルーデも完全には把握していない。
ヴァルトルーデの背後に立つアレーナは、今のやりとりを聞いて頭痛をこらえるような表情をしていたが、とりあえず流れに任せることにしたようだ。
「どうだろうか?」
「そうですな……」
ロシウス村長が考え込むように瞑目するが、答えは決まっていた。
「一存では決められませぬが、村の同胞たちの賛同を得られるようにいたします」
「そうか。よろしく頼む」
協力を得られると聞いて、ヴァルトルーデがほっと息を吐く。
断られるはずのない提案だし、拒絶されてもやりようはある。
だが、それは客観的に見ればの話。彼女からすると、なんとかやりとげたと一息つきたくなるような交渉だった。
剣の腕など関係ない。ユウトがやってきた仕事。
やはり、従来の役割分担が正しいのではないか……。
そんな弱気は、軽く頭を振って追いやった。気合いを入れ直す。ヴェルガを退けた今、戦闘技術だけでは渡っていけないのだ。
そんな内心とはかけ離れた、思い悩む聖女の憂いを帯びた美貌。
近距離からそれを見なければならぬ村長の心臓は、全力疾走をしたあとのように悲鳴を上げている。多少は免疫があり、後ろ姿しか見えていないアレーナでさえ時を忘れた。
「どうかしたか?」
「いえ。あー。いえいえ。お、お食事でも、いかがですかな?」
「そうだな――」
「ごほんっ……であります」
「ああ。いや、済まない。このあと、ハーデントゥルムにも行かねばならぬ」
アレーナのわざとらしい咳払いで、このあとのスケジュールを思い出す。
こちらは、領主というよりも、神殿の仕事。お茶を淹れてくれた女魔術師マリオンへの聞き取りも、またの機会となりそうだった。
「それならば、お引き留めするわけには参りませんな」
物分かりよく、ロシウス村長は何度も何度もうなずく。
そして、失礼にならない程度の強引さで、領主一行を見送った。
ユウト「はじめてのおつかいより心臓に悪い……」
しかし、次回もはじめてのないせいです。




