6.少年は愛を叫ぶ
まぶたを開くと、目の前に白い少女がいた。
ユウトの視界が明瞭になるにつれ、ヨナの赤い瞳がじわりと濡れて視界が歪む。
「ユウト……」
「ああ……。ヨナ――」
「ユウトッッ!」
ここがどこで、どんな状況だったのか。
それを自覚する暇もなく、ユウトはうめき声を上げた。苦しかったのは確かだが、原因は物理的なもの。
「重たい。降りてくれ……」
「バカバカバカバカバカバカ」
「悪かった。悪かったから」
泣く子には勝てない。あやすようにヨナの背中を何度か叩いてやると、ようやく拘束から解放された。そうなると、今度は状況を知りたくなってくる。
「俺が倒れてから、どれくらい経ったんだ?」
「ユウトがあの女にキスされて、1時間か2時間ぐらい、今は、海の上でヴァルが赤黒女と戦ってるはず」
「赤黒女って、ヴェルガか。確かにロッソネロだけどな」
燃えるような赤毛と、黒いドレス。とあるサッカークラブのユニフォームを連想し、ユウトは微笑を浮かべた。だが、それも一瞬。
ベッドから身を起こしながら聞くヨナの言葉に、彼は顔をしかめる。前後の状況をはっきりと思い出し、どうやらフォリオ=ファリナの街自体は戦渦に巻き込まれていないようだと判断した。
「じゃあ、二人の所へ行ってくるか」
「一緒に行く」
「ああ」
ユウトは、ベッドから足を投げ出して靴を履きながら、アルビノの少女の要望にうなずく。
ヨナが自分と一緒にいるということは精神力が底をついている状態なのだろう。気づいていたが、置いてけぼりにはできない。
ツバサ号の狭い通路を進む彼は本調子でなかったが、足取りは意外なほどしっかりしていた。
「俺を迎えに来てくれたんだろ?」
「うん。マナの暴言が面白かった」
「聞いた記憶がないのは、いいことなのかどうなのか……」
ダァル=ルカッシュのときと同じことをしたのだろうとは推測できたが、具体的になにをしたのかまでは分からない。
(まあ、知っておくべきことなら向こうから教えてくれるだろ)
自分たちが狂える全知竜へ行なった暴虐を考えると、好奇心が失せる。
ポケットにしまった地の宝珠を、無意識に押さえながらユウトは思う。まずは、白黒はっきりさせなくてはと。
「ところで、ユウトのローブは灰色のまま?」
「さあ? どうなんだろうな?」
そう、善の魔術師であることを示していたユウトのローブは、色褪せていた。目覚めた今もなお、灰色だ。
まだ最後の決断まで猶予があるということなのか。時間が経てば、変化するのか。それとも、他になにか条件でもあるのか。
(決めたつもりだったけど、まだ、迷ってるってことなのかもな)
人間の心など、そんなものかも知れない。それに、この世で自分自身ほど不確かなものもないだろう。
答えの出ない問いをつらつらと考えながら、ユウトは操舵室までたどり着いた。
「朱音、こんなところにいたのか」
「勇人?」
久しぶり――感覚的に――出会った幼なじみは、びっくりして口をぽかんと開く。ユウトも彼女がここにいるとは思っておらず驚いたのだが、それとは比べものにならない。
「……大丈夫なの?」
「立場や価値観によって異なるな」
「そりゃ、そうでしょうけど……」
次にアカネが見せたのは、不安。少なくとも自分たちには、こんな言い方をすることはなかった。
ユウトは、変わってしまったのではないか。
そう思うと、胸が締め付けられ、背筋が凍る。吐き気に襲われ、思わず口を押さえた。
けれど、最終的には幼なじみへの信頼が勝る。
「まあ、いいわ。それより、ヴァルたちがギリギリ限界バトルやってるわよ。どうにかしてきなさいよ」
「はっきりさせてくるよ」
透き通るような笑顔を残し、ユウトは操舵室から甲板へ出た。船上で繰り広げられる戦闘にぴくりと表情を動かすが、それだけ。なにも言わずに《飛行》の呪文を発動させ宙に舞う。
「ヨナちゃん、どっちだと思う?」
「どっちでも」
善でも悪でも、ユウトはユウト。その選択に文句はない。
「でも、ヴァルのほうがいい」
「そうね」
船上で奮闘するアルシアたちに、ユウトは小さく手を振る。そんなユウトを操舵室から眺めながら、神に祈るかのように、アカネは天を見上げた。
「ユウト!」
「婿殿!?」
討魔神剣と、王錫が変じた漆黒の大鎌を撃ち合わせるヘレノニアの聖女と悪の半神。
その間に割って入る、大魔術師。
ユウトは、無言で二人を観察した。
ヴァルトルーデは喜色満面。向日葵のように明るい笑顔をユウトへ向ける。ただ、なにも言わない、言ってくれない婚約者をいぶかしんでいるようでもある。
一方、ヴェルガは悔しそうに淫靡な表情を歪ませた。精神世界が崩壊したことに、気づく余裕もなかったのだろう。思わず劣情を催すほど、苦渋に満ちていた。
「俺は、自分で思っていたよりも、悪い人間みたいだ」
挨拶も前置きもなしに、ユウトは口を開いた。奇しくも、精神世界が崩壊する直前のように、彼を中点として、聖堂騎士と赤毛の女帝がにらみ合っている。
「それを、夢のなかで思い知ったよ」
二人とも――特に、ヴァルトルーデは――十全に事態を把握しているわけではないはずだ。彼女たちに、そしてツバサ号で見守る人々も分かるよう、ユウトは自分の経験を語っていく。
ローブはいまだ灰色。いや、白と黒を行ったり来たりしているというべきか。不安定な状態は続いている。
「夢のなかだったけど、俺にとっては紛れもない現実だった。ヴェルガ帝国で、奴隷を良いように使った。軍事行動を効率化した。謀略で、暴力で、多くの国と人を屈服させた」
それを痛ましく疎ましく思うと同時に、結果が出て心が躍る自分もいた。
「力を得るため、人を痛めつけた。地位を保つため、国のため、ヴェルガのためだと多くの人を陥れた」
望まれてのことだ。命を守るためだ。私利私欲に走ったわけではない。そもそも、現実じゃない。
そう言い訳はできる。
けれど、所詮言い訳だ。
「俺の才能を完全に活かすのであれば、ヴェルガとともにあるべきなのだろう」
「婿殿、それは――」
赤毛の女帝が喜色を浮かべる。
しかし、続きがあった。
「でも、俺はそんな自分を否定したい」
ヴェルガから、視線を外す。振り返り、ヴァルトルーデを見つめた。
宝石よりも美しい瞳は不安と期待に揺れ、今すぐにでもついばみたくなるような唇は震えている。
「たとえ、それが俺の本性だとしても、そんな自分をヴァルには見せたくないから」
好きな人には、良いところを見せたい。なんのことはない。どちらかを選ばねばなかったそのとき、頭に浮かんだのは、ただそれだけだった。
「初めて会ったときから。一目見たときから、惹かれていた。右も左も分からないこの世界で、ヴァルトルーデは俺の灯火だった」
ローブの色が変わっていく。
元の色に、戻っていく。
「レンのために、初めて呪文を使ったとき。一緒に喜んでくれて、嬉しかった。仲間にしてくれて、ヴァルのみんなの役に立てて幸せだった。それに比べたら、俺の手が血で汚れるぐらい、なんてことはなかった」
だがそれは、現実ではないにせよ、ヴェルガも同じ。
それだけでは、決め手にはならない。
「アカネが、アルシア姐さんが、みんながいるからってのは、確かにある。けど、それだけじゃない」
精神世界の中でも、戦友と呼べる相手はいた。あのままヴェルガを選んでいれば、置き換わっていたに違いない。
今の、灰色のユウトにとって、両者は等価。
しかし、それは両方を選ぶということでも、どちらも選べないということではない。
「凛々しいヴァルトルーデが好きだ。幸せそうにご飯を頬張ってるヴァルトルーデが好きだ。困難に直面しても、それを真っ向から乗り越えるヴァルトルーデが好きだ」
欠点だって、たくさん知っていた。
同時に、それは縁の長さと深さを表してもいる。
頭が悪いわけではないが、学はない。単純だ。うわばみだ。仲間外れにされると、すねやすい。ありえないぐらい、奥手だ。宝飾品よりも、武具を好む。
そんな欠点すら、すべてが愛おしい。
「一緒に家庭を作って、子供を育てて、老いて、死んで。そんな風に一緒に生きていきたい。そう思えたのは、ヴァルトルーデなんだ」
覇道。
それも、確かに魅力的だ。もうひとつ人生があったなら、経験をしてみたくなるほどに。
だが、そう。あくまでも、もうひとつ人生があれば。たった一度の生涯ならば、他に選びたい道がある。
「私だって、そうだ。ユウトには、他の男のような隔意も劣情もなかった。ただ真っ直ぐに私のことを見つめてくれた」
天から与えられた美貌。
ヴァルトルーデ本人に自覚はなかったが、相手の反応を見れば、否応なく特異だと気づかされる。盲目のアルシアや、価値観自体が異なるラーシアやエグザイルとパーティを組んでいたのは偶然などではない。
「戦闘でも、政治でも頼りになる。格好いい……と思う」
恥ずかしそうに。だが、嬉しそうに。
ヴァルトルーデは真っ正面から告白を続ける。
「私には、ユウトだけだ」
彼がいい。
彼以外なら、必要ない。
「だから、もう二度とこの手を離さないでくれ」
「ああ」
ユウトが移動した。ヴァルトルーデの手を取るため、空を行く。
その光景を、ヴェルガは瞬きもせずに見つめていた。
「ヴァル」
「ユウト」
手と手と、指と指とが絡まり合う。魔法銀の籠手越しだが、それでこそヴァルトルーデだ。
視線も絡まり合う。二人ともはにかみ、思いは共有している。
「ヴァル」
「なんだ」
「この事件が片づいたら、結婚式をしようか」
「……ああ」
拒否する理由など、世界のどこを探してもありはしない。やろうと決めてそれで済む話でもないだろうが、そんな障害など関係ない。
ただし、すべてが終わってからだ。
二人は手をつないだまま、悪の半神へと向き直る。
「そういうわけなんだが」
「それがどうしたというのかえ? 妾が、伊達や酔狂でこんなことをやっているとでも?」
「理解してるさ。俺がヴァルを選ぶなら、力尽くで奪い取る。そうなんだろ?」
「さすが、婿殿。よう分かっておるわ」
ニィと、ヴェルガが笑顔を作った。淫蕩で邪悪な笑みを。
ユウトは、その手を振り払った。
それでも、分かり合っている。
そんな二人を目の当たりにして、今までならヴァルトルーデは激昂していたかも知れない。敵とさえずりあうなと叫んでいたかも知れない。
だが、静かだ。
心にさざ波ひとつ起こさず、じっと成り行きを見守っていた。
ユウトが側にいて、自分のことを選んでくれた。
今までも似たような台詞は何度か聞いているが、今が一番嬉しい。きっと、明日には来月には来年にはもっと嬉しいことが起こるのだろう。彼と、彼女たちと一緒ならば。
だから、なんの心配もない。未来は約束されている。
「付き合いも長いからな。そっちが、万全の状態じゃないのも、分かってるさ」
話は振り出しに戻った。
その上で、言外にユウトは撤退を勧める。
「いかにも。この地は我が版図に非ず。力も、回復はしておらぬ」
「だが、あきらめはしない……か」
再び、ヴェルガは嗤う。
それが、再戦の合図となった。




