3.精神世界で:覚醒(前)
その日の目覚めは、ユウトが記憶している中で最悪のものだった。
頭痛がする。今にも胃の中身を吐き出しそうになる。むかむかする胸を押さえながら、そういえば丸一日食事をしていなかったことを思い出した。
風邪を引いた日のような倦怠感。すべてを呪いたくなってくる。もちろん、自分自身も含めてだ。
この世のすべてが呪わしい。こんな世界など、滅んでしまえばいい。案外、世の魔王とかいう輩も、こんな気分の悪い朝に、世界を滅ぼすことを決めたのかも知れない。
夢を見たのだ。
地球にいたころの夢を。
父がいた。険しい表情で、食卓に座っている光景。つまり、いつも通り。
母もいた。普段通り、花のような笑顔を浮かべキッチンにいた。
ユウト――勇人自身は、リビングで愛犬と戯れている。もうしばらくしたら、朱音を誘って散歩に行くのも良いかも知れない。
そんな夢を。
ほんの数年で遠くなった、平和な光景。
もう二度と手に入らないかも知れない日常。
そんな夢と今の自分を比較し、頭を殴られたような衝撃を受けた。
どこで道を違えたのか。
今の自分に後悔はないが、思うところはある。
それもこれも全部、あの聖堂騎士のせいだ。
気分が悪いのも、死にたくなったのも、世界が呪わしいのも。
そうだ。すべてをはっきりとさせよう。それしかない。
そして、終わったらヴェルガに謝ろう。思えば、ひどい態度を取ってしまった。いくら余裕がなかったとはいえ、あれは良くない。
あのヴァルトルーデとかいう女の嘘を暴いたら、彼女の要望をなんでも叶えてやりたい。
そう決意したユウトは、勢いよくベッドから起きあがる。そして――着たまま寝たはずなのに、ちゃんと吊されていた――黒いローブを羽織ると、今日の呪文を選ぶため呪文書を取り出した。
こうして、運命の一日が始まる。
ユウトは、誰にも告げることなく女帝ヴェルガの居城、エボニィサークルをあとにした。
視察をキャンセルしたことで、鉱山で買い取ったドワーフの奴隷の処遇を黒ドワーフの族長から。アズール=スールからは、ハーデントゥルムという交易都市近海を縄張りにする海賊の扱いを相談されていたが、すべて上司に投げた。
たまには、こんなことも許されるだろう。
制服と漆黒のローブを身につけたユウトは、一人、森の中を進んでいた。
《念視》の呪文は、難易度は跳ね上がるものの、その人物の噂を聞いただけでも鏡面にその姿を映し、その映像から現在地を知ることも可能だ。
顔も名前も知ったあの女の居所を調べるなど、造作もない。
その結果、聖堂騎士たちは国営農場近くの森の中にいることが判明していた。
もちろん、これが罠だという可能性もある。だが、罠なら罠で構わなかった。意味不明にも善を標榜するあの女たちが卑怯な真似をするのであれば、その時点で悩みは消え失せる。
森歩きなど慣れていない。そもそも、最近は呪文頼りで移動しかしていなかった。
強い昼の日差しが木々に遮られ、暖かく柔らかな光となってユウトを包む。足下には下生えの草と、やや湿った土の感触。遠くに聞こえる川のせせらぎ。鳥の鳴き声。小動物の気配。地面に出た根を慎重に避け、たまに失敗してつんのめった。
「運動不足ってわけじゃないはずだけどな」
元サッカー部の矜持が傷つけられたわけではないが、誰にともなく言い訳をする。仕事でも、戦闘でも、謀略でもない。純粋に体を動かすのが久々で、ユウトは本来の目的を忘れそうになった。
しかし。歩みを進めれば、その分、彼女へと近づいていくことになる。
「ほら、私の言った通りではないか」
「それ結果論だと思うけどなぁ。だって、来るまで待つつもりだったでしょ?」
「無論だ」
森の中の、やや開けた場所。水場の近くで、野営をする聖堂騎士たちを見つけた。少し離れた場所で、馬が草を食んでいる。
無遠慮に近づくユウトに気づいても、彼女らになんらあわてた様子はない。それどころか、歓迎する気配すら感じられた。
(どういうつもりだ?)
意図が見えず、ユウトは戸惑う。まずは一回戦い、屈服させる。それから交渉を始める。そんなプランがあっさり崩壊した。
岩巨人など、焚き火の加減を調整しつつ、串に刺した魚の面倒を見ているではないか。
空腹を思い出し、ユウトの胃が蠕動を始める。音が鳴らなかったのは、僥倖と言うべきだろう。思わず唾を飲み込んでしまったのはマイナスだが。
「ちょうどいい時に来たな。食事にしよう」
「飯を食いに来たわけじゃない」
「毒など入れはしないぞ」
よほど怪訝な顔をしていたのだろう。天使のように愛らしい相貌を、不本意だと言わんばかりに歪めて抗議する。
「ヴァルはあんま毒が効かないから、そういうの、あんまり意味ないよね」
「うっ。まあ、それはそうなのだが……」
草原の種族の指摘を受けて、困ったように語尾が小さくなっていく。
可愛い。そして、なぜか懐かしい。地球でも、このブルーワーズでも彼女に会ったことなどないはずなのに。どういうわけか、昔から、こんな風に過ごしていた気すらする。
(錯覚だ)
脳裏に浮かぶ、ヴェルガの悲しそうな顔。そうだ。彼女を裏切るわけにはいかない。だから、ついつい口調もきつくなる。
「俺を待っていたような口ぶりだが」
「昨日も言っただろう。まだ、悪に染まりきっていない。私にはそれが分かる」
焚火のまわりに置いた敷物に腰掛けながら、聖堂騎士――ヴァルトルーデがユウトにも席を勧める。それを無視して立ったまま、冷たく切って捨てる。
「信用できるものか」
だが、信じたい。そう思ってしまう自分を見つけて、ユウトはひどく狼狽した。
自分の中に、相反する意識がある。初めての経験に、戸惑い、翻弄されていた。
「食え」
そんなユウトの目の前に、にゅっと岩巨人の巨体が現れた。手には、魚の串焼きをを持っている。あの太い指で下拵えをしたのかと思うと、なぜかおかしくなってしまった。
「オレは、お前を信用しているわけではない。だが、信用すると言ったヴァルを信用している」
「そんな信用、俺には関係ないぞ」
「当たり前だ」
それだけ言うと、強引に焼き魚を押しつけて火の番に戻る。見れば、聖堂騎士だけでなく、草原の種族までこちらへ期待に満ちた眼差しを向けている。野生動物を餌付けしているつもりなのだろうか。
腹が立って、ユウトは腹の部分から魚にかぶりついた。
香ばしく焦げた皮としっとりとした身の味わいが、空腹にはたまらない。骨が邪魔だったが、そんなことはどうでも良いと一気に食べ尽くしてしまった。
「随分と綺麗に食べたものだな」
「がはっ」
日本人舐めるなと言いかけて、魚が喉に詰まる。見かねた草原の種族が差し出した水袋をあおり、顎から首へと中身が垂れるのも構わず飲み干した。
「醤油があれば、なお良かったな」
せめてもの意趣返しにと無茶な要求をしつつ、漆黒のローブの大魔術師はどっかりと敷物に腰を下ろす。
白黒つけるために、ここへ来たのだ。意固地になっても仕方がない。
「まずは、そちらの話を聞きたい」
真剣な表情で、こちらを見つめる美女。思わず我を忘れるほどの美貌に迫られる。
だが、その美しさよりも、秘めたる意思にユウトは心動かされる。表層の美しさというわけではない。彼女の魂が高潔だからこそ、外見も光り輝くので。
「俺のなにをだよ。魚ひとつで国家機密は教えられないぞ」
「ボクの分はあげたくないなぁ」
「オレも遠慮したい」
「別に、機密を欲しているわけではない。副宰相ユウト・アマクサが歩んできた道を知りたいのだ」
「……分かったよ」
交換条件としては妥当だろう。
ユウトは、転移してからのことを語り出す。
女帝との出会い。陰惨な生活。立身出世。魔術師としての修業。そして、赤毛の女帝の片腕として国を動かしてきたこと。
その告白を――時折質問や確認を交えながら――冒険者たちは真剣に聞き入った。
話が進むにつれ、憤り、難しい顔をし、哀しそうな表情を浮かべたヴァルトルーデだったが、決して非難はしなかった。それに救われると同時に、罪の意識に苛まれる。
「悪辣な……」
「少なくとも、恣意的ではあるかなー」
「……弱者へのこの仕打ち、看過できんな」
最後に三人がそれぞれの感想を口にし、話は終わった。
「異世界かぁ。でも、島落としの大魔術師が、そんな境遇だったとは思わなかったなぁ」
「島落とし? ああ」
ロートシルト王国の王都セジュール。その外延すれすれに、亜神級呪文で島を落としてやったことを言っているのだろう。
あれは、実に効果的だった。少なくとも、流れる血は少なくなったはずだ。
「結論から言おう」
沈思していた聖堂騎士が、ためらう心を振り切って口を開く。
ユウトは、耳を塞ぎたくなった。喚いて、すべてをなかったことにしたかった。
そんな密かな願望など知らぬげに、天使のように美しい彼女は何者にも触れられたことのない唇から決定的な言葉を紡ぐ。
「この青き盟約の世界は、女帝ヴェルガの言うような悪徳に満ちた世界ではない。善と悪が拮抗した世界だ」
「今は、だいぶ押されてるけどねー」
「事実だな」
草原の種族と岩巨人の言葉は、ユウトの耳には届かない。
彼は驚いていた。
特に驚いていない自分に、驚いていた。
薄々感じていたのか、あえて目を背けていたのか。あるいは、世界が狂っていないことを信じていたのだろうか。
ヴェルガに騙されていた。
もしそれが事実であれば、騙されていた自分が間抜けなだけではないだろうか。
「あっ、ははははははっっ」
いきなり笑い出したユウトを前に、草原の種族の盗賊は驚き、岩巨人はわずかに警戒を示した。しかし、ヴァルトルーデはいずれにも与しない。
「その、なんだ。ああ、私はこんなときになんと言えばいいのか分からぬ!」
自らの力不足が悔しいとほぞをかむ。
ユウトには、もうひとつ驚くべきことがあった。
聖堂騎士ヴァルトルーデ。彼女とは、初めて会ったような気がしない。そして、その言葉は無条件で信じられた。それこそ、騙されているのではないかと思ってしまうほどに。
ヴェルガとヴァルトルーデ。
ヴァルトルーデとヴェルガ。
どちらかが正しく、どちらかが間違っている。
そして――
「それが真実だと証明する手段はないな」
「それもそうだな」
龍鱗の鎧を身につけた岩巨人が、低い声で同意する。
「そりゃ、ボクらにとっては常識だもんね」
「それならば、簡単な話だ」
「ああ」
初めて、ヴァルトルーデとユウトの意識が重なった。
「実際に、見て回ればいい」
「実際に、見て回ればはっきりする」
初めて、ヴァルトルーデとユウトの言葉が重なった。
そんな簡単なことに、なぜ気づかなかったのか。帝国は広大とはいえ、世界の一部に過ぎないというのに。
「なるほどねー。なんなら、ボクらが案内しようか?」
「いや」
草原の種族の申し出に、ユウトは首を横に振る。
「まずは、ちゃんと話をするよ」
騙されていたかもしれない。
それでも、彼女に助けられたのは事実だ。国家運営になど興味のない女帝が、彼を官僚にするため保護したとは思えない。
なにか、意図が隠されているのだろう。
それを聞くまでは。そして、自分の言葉で伝えるまでは。この国から出ていくことなどできない。
ユウトは、黒いローブを翻して立ち上がった。
続けざまに呪文書を取り出そうとし――
「その必要は、あるまい」
――そのか細い声を聞いて、ユウトはすべての動きを止める。
「ヴェルガ……」
ユウトがこの世界に来てからずっと共にあった女性が、泣きそうな顔をしてたたずんでいた。




