舞台裏で
今回の幕間は、この一話のみです。
「――何者か」
皇城エボニィサークルの玉座の間で、ヴェルガが柳眉をしかめた。露骨に不機嫌な表情は、最近では珍しい。今のユウトを除く側近たちが見たら、背筋を凍らせたに違いなかった。
だが、無理もない。彼女の一部が入り込んだこの世界に、異物の気配を感じたのだから。彼を我が物とするための箱庭は、完全でなければならないというのに。
「気づかれちまったか」
「詳細は掴めぬが、綻びが生じたようであるな。それも、そなたの仕業かえ」
「そうじゃなきゃ、格好悪くてわざわざ出てきたりはしねえよ」
ヴェルガの正面に、銀灰の靄が現れた。それが揺らぎ、さも愉快だと笑い声が響く。稚気に彩られた、大人の声だ。
「何用か」
「何用だって? 後継者候補が悪の道へ落とされるのを、見逃せるわけがないわな」
靄が最初に実体を持ったのは、二本の角。続けて黄金の鱗が形成され、和装の男が現れる。がっしりとした体型の偉丈夫だ。英雄、それも伝説や物語の英雄を想起させる。
竜帝。
かつてユウトが地の宝珠のなかで言葉を交わした、リ・クトゥアの征服者。その残留思念がそこにいた。
「後継者? なるほど。その容姿、極東の竜人かえ。そういえば、婿殿は秘宝具を持っておったの」
「俺の後輩のことなら、なんでも知ってそうだな」
「して、田舎者が妾たちの聖域を土足で踏み荒らして、なんとする」
「なぁに、運命を正しい方向へ向かわせただけだ。」
「なにが正しいかは、妾が決める」
きっぱりと、迷いも遅滞もなく断言するヴェルガ。
竜帝の残留思念は苦笑を浮かべた。
「ま、そうかりかりするない。これ以上は、なにもできねえよ」
謙遜でも、油断を誘うブラフでもない。
持ち主の異常を感じ機会をうかがっていた彼は、真名が作った精神の亀裂に便乗して、なんとか介入を果たした。
けれど、それだけ。
あとは、ユウトに任せるしかない。
「ならば、疾く去ね」
「そうさせてもらうさ。ここで消されちゃたまらんからな」
「まだなにか、反撃の札を持っているように見えるがの」
竜帝は語らない。
ただ、子供のような笑顔を浮かべ、再び靄のような状態になり――消え去った。
「婿殿……」
瞳に愁いを浮かべた女帝が、この世界では呼べぬ名を口にする。
この精神世界を生み出したヴェルガだが、創造主のごとく振る舞えるわけではない。不自然な介入は、世界を破綻させてしまう。
だから、信じて待つしかない。
今の彼女には、それしか許されていなかった。
フォリオ=ファリナの百層迷宮。ブルーワーズでもっとも有名なダンジョンは、今この世界でもっとも濃密な死を生み出している場でもあった。
その張本人である大賢者ヴァイナマリネンは、憎たらしいほどにいつも通り。ローブに汚れはなく、手にした魔剣も魔化された呪文の効果により血糊もついていない。
さすがに笑みは消えているが、このまま夜中まで戦えそうだ。
「だが、さすがにきりがないな」
地下69層。
俗に魔獣庭園と呼ばれるフロアで、グリフォンの、ヒポグリフの、ワイバーンの、死体を積み上げ、ヴァイナマリネンは深く息を吸い込んだ。
血とほこりの匂いも一緒に取り込むことになったが、疲労した肉体に酸素が染み渡る感覚は格別。
さすがに、一人で対処するにも限界がある。
弱気ではなく冷静に、ヴァイナマリネンは現状を分析した。
もし一カ所に集まっているのであれば一気に殲滅することもできるだろうが、それは恐らく、フォリオ=ファリナの街を道連れにすることになる。
絶対的に、手が足りなかった。
そんななか、背後から感じた新たな気配に、大賢者は魔剣の切っ先を闇へ向ける。
けれど、どういう理由か。すぐに剣を鞘へ収めてしまった。
「……ふんっ。文句は後回しにしてやるか」
「遅くなって申し訳ありません、我が師よ」
闇から現れたのは、もう一人の大魔術師。
黒色竜兵を引き連れたメルエルだった。
「あとで、じっくり説教だな」
「お手柔らかに願います」
そう、少なくともメルエル学長だけは、苦笑しつつ久闊を叙する。
「できれば、我が師が危ないときに飛び込んできたかったのですが、現実はなかなか上手くいきませんな」
「百年早いわ」
「百年後にも、同じことを言われていそうですが……まずは、今ですな」
百層迷宮の大氾濫。無貌太母コーエリレナトが暴走し、異常なまでに大量のモンスターを産み出している――という原因は分かっている。
けれど、根本的な対処ができない。
「私の弟子たちは、黒色竜兵とともに、迷宮内やフォリオ=ファリナへ配置しています。そちらは任せて問題ないでしょうが……」
「そうか。ならば、メルエル。貴様にも手伝ってもらうとするか」
大賢者ヴァイナマリネンが、懐から大振りなダイヤモンドを取り出した。金貨にして、2万5千枚はあるだろう宝石。
それを見て、メルエルは師がなんの呪文を使おうとしているのかは理解できたが、具体的な方策までは分からない。
だが、なにをするのかは言うまでもない。
たった二人で、大氾濫を鎮める。
奇跡を、これから起こすのだ。
アルサスは、最後に宝剣トレイターを腰に佩いた。
国王夫妻の私室でユーディットの手を借り軍装を整えた彼は、生来の魅力も相まって、軍記から抜け出た名将のような風格を漂わせている。人は自然と頭を垂れ、その命に従うことだろう。
アルサス王は単騎、北の塔壁へと向かおうとしていた。
後事も、すでに託している。宰相ディーター・シューケルも、軍務相談役であるハルヴァニ侯も有能な人物だ。援軍を取りまとめてくれるだろうことは、疑う必要もない。
それに、最前まで国王だった父も健在なのだ。王都に留まる必要はどこにもない。北の塔壁の失陥を食い止めることこそが急務。
口さがない者は、このスタンドプレーを二十年前と同じだと言うかもしれない。〝虚無の帳〟討伐軍を率い、辛勝したときと。
結果、〝虚無の帳〟の活動は地に潜り、アルサス自身は石化させられた。
同じかどうかは別にして、行動原理は変わっていない。そう、彼自身も認めていた。
英雄になる。
危難から国と民を救うという大前提はあるものの、個人的な動機があることを否定などできない。
「アルサスさま……」
「すまないな、ユーディット」
ただ、そのわがままで新妻に心配をかけていることを考えると、胸が痛む。思わず、瞳を潤ませ見上げる彼女を抱き寄せ、緩やかなウェーブがかかった柔らかな髪に触れる。
いずれも鎧越しの行為だったが、気持ちは伝わった。安心したかのように、ユーディットが冷たい胸甲に顔を埋める。
「いえ、ユーディットはアルサスさまのご無事を、この王都よりお祈りいたします。家を守るのが妻の務めですから」
「……よろしく頼むぞ」
健気な妻に言いしれぬ愛おしさを憶えながらも、アルサスは平然と答えた。思いの丈をぶちまけるのは簡単だが、あまりにも恥ずかしい。
帰ってからに、すべきだろう。
「ユーディット、私が戻ってきたら……」
「それは、止めておいたほうがいいじゃろうな」
腕のなかから、可憐な。しかし、威厳に満ちた声がした。
それがなにを意味しているのか本能的に理解し、アルサスは弾かれたようにユーディットから離れると、膝を折った。
一国の王たる彼が、そうする相手は少ない。
「汝の妻が肉体を借りておるぞ。表には出ておらねど、意識はある。どこぞのおなごと密会していたなどという疑惑は持たれずに済むようにな」
「またお会いできるとは、思ってもおりませんでした」
「そうかしこまる必要もない。用事も、すぐに済むであろう」
ケラの森の奥深くで、悪魔諸侯の一柱たる腐肉の公主テュェラ・ズ・ラニュズの地上侵攻を食い止めている“常勝”ヘレノニアの分神体。
それが、ユーディットの肉体を通じて顕現した。
「用事とおっしゃいますと……?」
膝は折ったままだが、顔を上げ直接問いかける。これが、アルサスなりに、分神体の指示へ従った行動。
ユウトたちとはかなり違う対応だが、どちらが例外かは言うまでもないだろう。
「我が、汝を北へと転移させよう」
「……よろしいのですか?」
驚きに、非礼とは知りつつも光のない瞳を見つめてしまう。
「緊急事態じゃからな」
善と悪の神々の協定――青き盟約により、地上へみだりに干渉しない。これは子供でも知っている事実だ。
つまり、それを超える事態が進行している。
その事実に、アルサスは息を飲んだ。
「ただし、転移できるのは汝一人のみ。それでも行くか?」
「元より、そのつもりでございます」
「ならばよし」
整った顔に決意をみなぎらせて応答するアルサス王に、満足そうな表情で分神体を宿したユーディットが微笑む。
「いつでも、問題ありません」
「行くがよい。汝が戦場へと」
アルサスの肩に手が触れる。同時に、かつて刻まれた王の証が熱を持った。その違和感に気づいた瞬間、私室から彼の姿が消え去った。
同時に、ユーディットの瞳に光が。肉体に、意識が戻る。
ヘレノニアの分神体も、アルサスも、もういない。
夫が、愛した人が戦場へ向かった。
それを心配する気持ちは、もちろんある。
だが、それよりも、彼の念願が叶う。真の望みに近づく。
そのことがなによりも、嬉しい。
そんな誇らしげな想いを抱いたまま、この部屋でなにが起こったのか説明をするため、ユーディットは静かに夫婦の私室をあとにした。
大地が悲鳴を上げている。
人々の営みを支え、恵みを与える大地が、苦しみ身悶えている。
それをもたらすタラスクスは、余人のことなど気にせずに、ただ直線で進んでいた。
かつて、黒妖の城郭が存在し、昆虫人たちが地上を目指した一帯。草木も生えぬ荒野を、甲羅を背負った六本足の鯨が、歩くたびに足場を崩壊させながら移動する。
睡眠も、休息も必要ない。
目的は分からない。いや、目的があるのかも分からない。歩く災害は、人の歩み寄りもゆっくりと。だが確実に北進していく。
山が動いているのと同じこと。
その前に、一人の戦士が立ちふさがった。
行く手を阻むには、あまりにも矮小。それは勇気ではなく、無謀。挑んでいるのは、闘争ではなく蹂躙。
岩巨人の蛮族戦士エグザイルが、錨と見紛うばかりの武器――スパイク・フレイルを構えた。
その一撃は、あらゆる障害を粉砕してきたのだろう。血路を開いてきたのだろう。
それが理解できてもなお、タラスクスの前では、狂人の所行にしか見えなかった。
龍鱗の鎧が、夕日を浴びて赤く染まっている。そろそろ日が沈む頃だが、巨大という表現が陳腐になってしまうような相手だ。多少暗かろうと、戦うのに支障などありはしない。
けれど、その夕日は、否応なしに鮮血の未来を予感させる。
今のエグザイルは矛盾の塊だ。
ここに来る前に、息子を抱いてきた。柄にもなく、元気に泣く我が子をあやしていると、笑みが浮かんでくる。
神々から数多の祝福を受けた子だ、その行く末が楽しみでないはずがない。教えたいことも、ともにやりたいこともたくさんある。
それでいて、自分がいなくとも健やかに育つことが確信できた。部族全体で、しっかりと教育してくれることは疑いない。
だから、タラスクスの巨体を前にしても、恐れは感じなかった。
死にたいわけではない。
だが、命を惜しむつもりもない。
不思議な気持ちだ。
ただでさえも巨大なタラスクスが、徐々に徐々に迫ってくる。段々と、その全体像が掴めなくなってきた。いずれ、足の一本しか見えなくなるに違いない。
そうなっても、自分のことなど、路傍の石ほども認識しないだろう。
「さて、やるか」
恐怖も気負いもなく。
功名心も、憂いもない。
やることは、決まっている。
殴って、顔をこちらに向かせ。殴って、殴って、殴り抜ける。
ただ、それだけだ。
今週は、更新が少なくなって申し訳ありませんでした。
また、そのような状況にも関わらず、感想や評価をいただきありがとうございます。
とても励みになりました。
来週からは週五回の更新に戻せるはずですので、今後とも本作品をよろしくお願いいたします。




