9.禁断の邂逅(後)
「くっ」
黒い大魔術師のローブを着た少年が、突然立ち止まり頭を押さえた。鋭い痛みに、しばし顔をしかめる。
「働き過ぎか?」
その独り言は、例外なくイエスと答える自問だったが、不快感はすぐに消えた。因果関係はないはずだ。
そう結論づけたユウトは、磨き抜かれた廊下を、同じく綺麗に磨かれたブーツで進んでいった。規則正しいリズムで奏でられる靴音が、エボニィサークル内に反響する。
彼が道を行くと、誰もが足を止め深く頭を垂れた。それを当然と受け止め。しかし、一顧だにせず玉座の間へと急ぐ。
ユウトがヴェルガ帝国に転移し、二年の歳月が流れていた。
決して長いとは言えない月日だったが、彼には充分な時間。
内政で実績を積み、魔術を究めた彼は確固たる地位を築いていた。最早、彼は虐げられる側でも奪われる側でもない。逆に、彼が生殺与奪を左右できない相手はほとんどいないほどだ。
けれど、驕り高ぶることもない。粛々と仕事をこなしているだけ。
その一環として、ユウトは玉座の間につながる扉を開いた。
「へえ。先客がいるとは思わなかった。出直したほうが良いかな?」
「意地の悪いことよ」
報告のために玉座の間に足を踏み入れたユウトが、主と気安く言葉をかわす。そのヴェルガも、淫蕩な笑顔で嬉しそうに彼を迎え入れた。
「莫迦にしてくれる!」
彼ら二人の間に、ユウトの言う客人がいた。
いきなり激高し、光り輝く両手剣 を床に叩きつける。玉座の間にクレーターができ、もうもうと土煙が上がった。
「天使がなんの用だ……とは聞かないけどね」
「分かっているのならば、話が早い」
地上が悪に染まって久しいブルーワーズだったが、天上には善を司る神も存在している。時折、代理人を地上に派遣して悪を打ち倒そうとしているらしいが、残念ながら結果は出ているとは言えなかった。
「悪の半神ヴェルガよ。疾く地上より退去せよ」
天使が両手剣の切っ先をヴェルガへと向ける。輝くような板金鎧 から、全身を覆う白い翼が二対生えていた。
美しい中性的な顔立ちには、悪を憎み打ち砕かんとする決意がにじみ出ている。
「やる気が重要なのは認めるけどね」
実体験から言うが、今は仕事の邪魔でしかなかった。
「悪いが、多忙なんでね。今度にしてくれるか?」
「なにを言っている? 異世界からの来訪者よ、ヴェルガのあとで正しき――」
「《夢幻転移門》」
呪文書から9ページ切り裂き、天使の頭上に展開。
虹色の輝きが彼を包み――次の瞬間、玉座の間から消え去った。
「それで、話があるんだけど」
しつこいセールスを断った。その程度だと言わんばかりに、ユウトはヴェルガの下へと近づいていく。そんな彼の姿を見て、赤毛の女帝は淫猥に微笑んだ。
もう、すっかり馴染んでいる。なんの心配もないだろう。
「ヴェルガ?」
「ああ……。済まぬ。それで、愛でもささやいてくれるのかえ?」
「公私混同はしない主義なんだ」
「では、プライベートなら良いのだな?」
「俺が悪かった。まずは、報告させてくれ。宰相閣下に怒られる」
ユウトは今や、ヴェルガ帝国の副宰相へと登り詰めていた。現宰相のシェレイロン・ラテタルは、タイミングを見計らって地位を譲るつもりだったが、保留にしている。
そんな地位を飛び越えて、皇配となる可能性も充分にあると彼は見ていた。
だが、ユウトにそれを意識した様子はない。公私混同しないと言った通り、玉座前の階段で立ち止まって報告を始める。踊り場のようになっているこの場所は、かつて政策提言を行なった場所でもあった。
「まず、国営農場はなかなか順調だ。従来に比べて、収穫量は二倍以上になってる」
「では、実際は三倍近くといったところかの」
「概算だけどね」
様々なところで懐へ入れられ、国庫に入る税が目減りしている。不正が行われていると言っているのに、二人とも笑っていた。それくらい可愛いものだと目こぼししているわけではない。蓄財も才覚の内。有能さを示し、露見しなければ、罪には問われない。
もちろん、なにかあったときのために証拠は押さえているが。
「大規模化、効率化。それに、やる気を出させるための報奨制度か。金を使った甲斐はあったと見るべきであろうな」
「できれば、長い目で見てほしいね」
ユウトが知る地球での農法を再現したり、開墾に巨人たちを使用したり、専門家を他国から連れてきたりと、いろいろやったのは確か。
だが、一番の要因は人間の奴隷たちが見せたやる気だろう。
奴隷たちへ、担当地区の収穫量に応じたボーナスを支払う。それ自体ヴェルガ帝国では異例の対応だが、効果はあった。
そして、無駄に重労働を課すことはなく、些細な失敗や監督者の気まぐれで害されることもない。そんな体制を整えただけで、奴隷たちの生産性は瞬く間に改善された。
それは奴隷から家畜へ変えてしまうような政策だが、ユウトは気づいていない。ただ、この世界というフレームの中で、最大限報いようと思っただけ。
ヴェルガは、その成果にほくそ笑む。
もちろん、国が豊かになったことに対して――ではない。
ユウトの政策が、自然と悪の相を帯びてきたことにだ。
上納金を渋るロートシルト王国に対し、王都セジュールへ呪文で直接攻撃を行なったのは見物だった。効率的だからとうそぶく彼の表情は、切り取って保存しておきたいほど。あれほど反発していたバーグラーも、それですっかりユウトを認めてしまった。
そして、ヴェルガ帝国は東へ舵を切る。
極東の島国リ・クトゥアに、彼が興味を抱いたから。その途中にいくつかの国があったが、力押しで、謀略で、併呑している。
そうしながら、国営の傭兵団を用いて、西へ南へ戦火を広げてもいた。
嗚呼。世界が、破壊と死と混乱に満ちている。
幾重にも、素晴らしい世界だ。
けれど、そろそろ終わりにしなければならない。名残惜しいが、この世界はあくまでも手段であって目的ではないのだ。ままごとは終わりにして、現実に帰らなくては。
だが、その前に外のヴァルトルーデ・イスタスは、駆除しなければならない。他意はない。そうしなければ、彼の現実と齟齬が発生してしまう。それだけだ。
「ヴェルガ?」
「すまぬ、すまぬ。で、なんの話だ?」
「ちょっと、国営農場へ視察に行ってくるよ」
「そんなことかえ」
思考に没入していたのは悪いが、つまらないことで遮られたと、文句のひとつも言いたくなる。
「まあ、よい。《瞬間移動》であればすぐであろ」
「いや、使わないよ。馬車で行く」
「どういうことかえ?」
「切り札は取っておかないとね」
それで、すべて伝わった。
《瞬間移動》は、不正を暴くときに温存するつもりなのだ。事前に伝えておけば、不正の証拠を隠す時間がある。その動向も、見張るつもりなのだろう。
「そういうことなら仕方あるまい」
意地の悪い。それでいて淫蕩な笑顔で、女帝は愛しい男へ許可を与えた。
それが綻びの始まりになるとは知らずに。
国営農場へと移動する途中。《灰かぶりの馬車》のなかで、ユウトは書類を広げて仕事をしていた。
彼が推進した製紙事業も軌道に乗り、まずは帝国政府の書類を羊皮紙から切り替えているところだ。活版印刷も導入すれば、それを用いていろいろなことができる。
簡単な確認とサインだけで終わる単純作業。脳のリソースは、ほとんど使用しないため、どうしても別のことを考えてしまう。
たとえば、地球へ帰ることについて。
すでにオベリスクの魔力は充填され、それを使用すれば地球へ帰る目処は立っていた。そうしないのは、ヴェルガがいるから……というのも否定できない要素だが、帰る気がなくなったわけではない。
今の状態で帰ってしまえば、二度とブルーワーズへ戻ってこられない可能性がある。それは、どうしても避けたかった。
苦労して手に入れたのだ。ヴェルガ帝国でのポジションを簡単に捨てるつもりはない。なにより、地球の技術をこちらへ持ち込んだら、ヴェルガは大いに喜んでくれるだろう。
もしかしたら、彼女も地球へ行きたがるかもしれない。
それは、なかなか魅力的な未来予想図だった。
「なんだ?」
不意に襲ってきた震動に、ユウトは眉根を寄せ思考を中断する。
続けて断続的に馬車が揺れ、外から怒号が聞こえてきた。
戦闘が、発生している。
当然ながら、この馬車一台でだけ移動しているわけではない。ヴェルガの近衛から派遣された部隊が、護衛として一緒についてきている。
「襲撃か」
ユウトは、内外に敵が多い。それ以上に味方もいるが、それは潜在的な敵対者と同じ意味でもあった。つまり、心当たりが多すぎて特定などできない。
「さて、どうするかな」
それは、どう切り抜けるかという意味ではない。皆殺しにするか、生け捕りにするか。生け捕りにしたとして、どう処理をするか。
悪の帝国の副宰相となった男が、邪悪な微笑を浮かべる。
それを隠そうともせず――というよりは、自分の表情に気づかず――ユウトは《灰かぶりの馬車》の扉を開く。
「おっと危ない」
その瞬間、彼のこめかみに矢が突き刺さった――ように見えた。
だが、「花のように明るい笑顔」が実際に花ではないように、矢が刺さったのも現実ではない。一瞬静止した矢が、《反転の矢》の効果を受けて放たれた場所へと戻っていく。
しかし、残念ながら、矢は地面に突き立っただけに終わる。射手は、とっくに移動したあとだった。
(練度は、それなりか)
そう称賛しつつ、ユウトは《飛行》の呪文を使って馬車の上に飛び乗る。いい的だが、戦況を把握することを優先。
その結果、確認できたのは全滅に近い護衛たちだった。
なにか巨大な物で潰されたような、巨人たち。先ほどの射手の仕業か、正確に急所を射抜かれたミノタウルス。ほんの短時間で、近衛部隊は全滅していた。
そして――
「《降魔の突撃》」
横合いから、馬鎧を装備した大型の軍馬がチャージを仕掛ける。発生する、馬車と軍馬の交通事故。
「まったく」
漆黒のローブをはためかせ、ユウトは空へと逃げ出した。こんな見事な襲撃は、久しく受けていない。高みから、好奇心とともに、襲撃犯を見下ろす。
「あの馬車も結構するんだがな。いったい、どこのどいつだ」
「私はヘレノニア神に仕える、聖堂騎士ヴァルトルーデ」
それは、美しい少女だった。
魔法銀の鎧で全身を覆い、壮麗な剣の切っ先をこちらへと突きつける。
黄金を溶かしたような髪も、その前では宝石を石ころに変えてしまう双眸も、実際に光っているように見える。 比べるわけではないが、ヴェルガとは対極の美しさ。
久しく忘れていた輝きが、彼女にはあった。
「黒の大魔術師ユウト・アマクサ、貴様をさらいに来た」
予想外の襲撃者。
このブルーワーズでは存在しないはずの、善神の使徒。
いや、そんなことはどうでもいい。
彼女を見るだけで、激しい動悸に息が苦しくなる。どういう理由か、頭痛もひどい。
不快だ。
消えてほしい。
だが、それでも。ユウトは、あの聖堂騎士――ヴァルトルーデから目を離すことができなかった。




