6.精神世界で:悪の道
ヴェルガや諸種族の王たちの前で、プレゼンを終えてから一ヶ月。ユウトは、さらに多忙な日々を過ごしていた。
まず、人間の奴隷の移動に関して、各領地から上がってくる資料を集計しながらごまかしや計算ミスを指摘して人数の概算を出す。
並行して、農業や開墾の専門家を抽出し、開拓地の区割りなども決めていく。さすがに、一度に全員を移動させるわけにもいかないため、調整はかなり面倒な作業だ。
ヴェルガから外出は禁止されているため――確かに、下手に外に出て殺されでもしたら元も子もない――書類仕事ばかりだが、待遇も改善されてはいた。表面上は。
更に、ロートシルト王国との和平という名の恐喝へ向けて、今までの略奪品のまとめも行わされている。その倍ほどが、相手への要求額と聞いていた。交渉を重ねながらそれを徐々に減らしていき妥結する――わけではなく、そこが最低ライン。
さすが悪の帝国だと、驚く時間はユウトに与えられていない。なぜなら、その過程で、案の定様々な不正が見つかり、二重の意味で死にそうになっていたから。
そんな彼が一息つけるのは、麗しき女帝の私室に招かれ、手ずから入れた紅茶をともにする時間だけだった。
「そう、ユウトはなかなか筋が良いの」
「ようやく、こつが分かってきた」
小魔法の呪文でポットにお湯を沸かしながら、ユウトは対面に座るヴェルガへはにかんだ笑顔を見せる。
理術呪文の教師を見つけると言っていたヴェルガだったが、基礎は自らが教えると毎夜のように私室へ来訪者の少年を招いていた。
世界転移直後にいろいろと話を聞いた漆黒の部屋。運命が大きく変わったその場所で、自らそれを切り開くべく修業に精を出す。
男女が二人きりというその状況だったが、それ以外のことは――少なくともユウトは――想像もしていない。
理術呪文と秘跡は別系統の力ではあるものの、現実改変という共通点が存在する。その意味では、初級の理術呪文、小魔法と秘跡と似ていた。同じ惑星だと地球と火星が似ていると言ってしまうほどの極論に近いが、同時に、まったくの誤りでもない。
実際、そこを突破口にユウトは小魔法を習得していた。最初の頃は、温度を上げすぎてポットを破裂させてしまうこともあったが、今では完全に温度調整できている。
「夜の特訓の成果よな」
「……いかがわしい響きだ」
「それは、妾を性欲の対象として意識しておるからであろう」
「うなずいたら、人生終わりそうなんだけど」
「試してみるかえ?」
「分の悪い賭けは、しない主義なんだ」
「つまらぬ」
がっかりとしたような不満そうな表情を浮かべるが、困ったと視線を虚空にさまよわせるユウトに気づくと、すぐに淫蕩な笑顔を見せる。
まあ、悪くはない。
こんな風に冗談を言い合えるようになるなど、つい一ヶ月前には想像もしていなかったのだから。
(一ヶ月か……)
神隠しにあっても、地球と同じように時間は流れている。
両親は、愛犬は、幼なじみは、どうしているだろうか。いや、決まっている。心配していることだろう。
それが分かっているから、申し訳なく思えると同時に、少しだけ嬉しい。
「ユウト」
地球へ帰る手がかりは、地下のオベリスクしかなかった。それなのに、調べるための魔法修業は、まだ端緒をつかんだばかり。
いつになるか、分からない。いや、そもそも、本当に帰れるのか。
そして、その頃にまだ、帰りたいと思えているだろうか。帰る資格はあるのだろうか。
「ユウト」
それでも、できることをひとつひとつやるしかない。
「ユウト!」
「わっ」
上の空だったユウトの目の前に、ヴェルガの顔があった。考え事をしている間に、黒檀のテーブルを迂回して近づいていたらしい。いつかと同じく、その気になれば情熱的な赤毛に触れることができるだろう距離にいた。
下手に離れることもできず、椅子に座ったまま硬直してしまう。
「妾とともにあるというに気もそぞろとは、憎たらしきことよ」
「ごめん。考え事をしてた」
女帝の宝石よりも美しい瞳が、じっとこちらを見つめて離さない。心の中までのぞき込まれているかのような錯覚。だが、目をそらせない。
「まあ、よい」
先にヴェルガから視線を外し、一歩距離を取った。
残念なような、ほっとしたような。複雑な感情を持て余しつつ、そうは見せずにユウトは努めて軽く答える。
「それはありがとう」
「それよりも、此度はよくやった。改めて、誉めてとらす」
「もう、報酬はもらって――」
いきなり、抱きしめられた。
離れていたのに突然のことで、体も心も固まってしまう。
最初に思ったのは、人間と変わりないなという当たり前の感想。悪の半神と呼ばれようと、温かで、柔らかい感触は人間と変わりない。
相手はヴェルガだ。この悪の理に支配されたブルーワーズという世界で、帝国を統べる女帝だ。こんなことを思ってしまうのは、間違っているかも知れない。
「ユウト、妾の前でだけは」
「ああ……」
それでも、ひどく安心する。
心が安らいでしまう。
決心が揺らいでしまう。
心を蚕食していく感触。
しかし、ユウトはそれを振り払うことができなかった。
とある夜のこと。
ヴェルガの初級呪文教育と帝国の構造改革が一段落した頃、ユウトはエボニィサークル内の訓練場へと脚を踏み入れた。
帝国最強とは言えないが、最も規律正しい近衛兵。
主に彼らが使用する、屋内の訓練場は円形で地面は固く踏みしめられている。
校庭と体育館を組み合わせて小型化したみたいだと、ユウトが感想を抱く。
その中心に、一人の男が立っていた。
「最も尊き悪しき御方の願いだ、私がしっかりと一流の魔術師に育て上げてみせよう」
ユウトを呼び出した、青白い肌に片眼鏡をかけた美丈夫。
ジーグアルト・クリューウィング。吸血侯爵と呼ばれる彼が、爛々と輝く赤い瞳をユウトへと向け宣言した。
「よ、よろしくお願いします」
ボーンノヴォルら諸種族の王と並ぶ、ヴェルガ帝国の重鎮。まさかこれほどの大物が来るとは思っていなかった。そして、それ以上に、人とは思えぬほどの美しさに気圧されてしまう。
吸血侯爵は、怪しい美貌に皮肉げな表情を浮かべ、紫色の細い唇を歪める。
「しかし、異世界からの来訪者か。君が男であることを残念に思うよ」
「女だったら、どうするんです?」
誘われでもしているかのように、ジーグアルトの下へと移動しながらユウトが聞く。戸惑いはしていても、物怖じはしていない。
そう。ヴェルガに抱きしめられたあの夜から、無闇に怖がることはなくなっていた。
「決まっている。吸うのだよ、命の源を」
長き時を生き、長く休眠状態にあった彼は、新たな刺激に飢えている。その証拠だと言わんばかりに、外套を大きく振り、笑顔を作って牙を見せた。
そんな吸血侯爵へ近寄りながら、なぜか、アカネが彼に襲われそうになっているビジョンが思い浮かぶ。
彼女がブルーワーズにいるはずがない。想像あるいは妄想だ。なのに、まるで現実のような光景。目の前の吸血鬼に無意識の殺意が湧く。
だが、それも長くは続かない。続けて発せられたジーグアルトの言葉に、負の感情が霧散させられる。
「とはいえ、私も起こされたばかりで長々と付き合っていたくはないのでね。促成栽培といこうじゃあないか」
「教えを請うのは、こちらですが……」
それはどうなのかと思ってしまうが、こういう世界だ。非難したければ、強く偉くなるしかない。
「だから、練習道具を用意した」
「道具?」
ユウトがそのまま聞き返すと同時に、吸血侯爵の影から一人の女性が姿を現す。前触れのない登場に驚き、数歩後ずさるが気を悪くした様子はない。
それどころか、薄気味悪く笑い、じっと見つめてくる。
ユウトは、なぜか愛犬のことを思い出していた。
似ているのだ。散歩に行く前の、期待に満ちた瞳に。
「攻撃呪文は知っているな?」
「《衝撃》程度ですが……」
小魔法や《燈火》と同じ、第一階梯の前段階の呪文。触れた相手に電流を流したような損傷を与える主に、自衛用の呪文だ。そこまでの威力ではないはずだが、ユウトはスタンガンのようなものだとイメージしていた。
「よろしい。では、これに使いたまえ」
「……は?」
わけが分からない。
「安心したまえ、むしろ喜ぶ。よだれを垂らすほどな」
無茶苦茶なジーグアルト・クリューウィングの評価。しかし、彼女――ダーラは怒るでも抗議するでもなく、よだれを垂らさんばかり。
――興奮していた。
(もしかして、マゾという生き物……?)
概念として、そういうものがあるのは知っている。だが、遭遇するのは初めて。ファーストコンタクトだ。できれば、絶対にしたくなかったファーストコンタクトだ。
決して、そういう性的嗜好を差別するつもりはないが、「喜ぶから痛めつけたまえ」「はい、やります」とはいかない。
「いや。でも、無抵抗の相手にそれは……」
「それでは、攻撃されれば使用できるわけだな」
「無茶苦茶だ」
しかし、本質を突いた言葉でもあった。
下処理済みの魚なら料理できるが、生きている魚を締めるのは可哀想。それと同じことだ。
(いやいやいや。全然違うから)
どうしても、抵抗感が拭えない。
そんなユウトを値踏みするように睨めつけていたジーグアルト・クリューウィングは、困った生徒だと言わんばかりに、ダーラの腕を取った。
そして、無造作に引き抜く。
「ああああっっ」
溢れ出たのは、悲鳴ではなく嬌声。続けて、鮮血。
砂がまかれた土のグラウンドに血液が染み込んで、赤黒い水たまりを作った。
「もうひとつ欲しいか?」
棒きれよりもぞんざいに片腕を放り、パンでもくれてやるかのようにリクエストを聞く。
被虐の女吸血鬼は、恍惚とした表情で何度も何度も首を縦に振った。
「分かった。分かりましたから!」
たまらず、ユウトは間に入った。
もしかしたら、自分勝手な行いなのかも知れないが、これ以上は見ていられなかった。
「心配する必要など、ないのだがね」
あきれたように言うが、思い通りの展開になったことには満足していた。
「さあ、改めて聞こう。嫌なら止めればいい。他の者が代わりに来るかは知らないがね」
「それは……」
試されている。
目の前に、踏み絵を置かれている。
ユウトは、傷口同士を当て腕を再生しようとする女吸血鬼を視界の隅に捉えながら、考え続けていた。
とんでもないことをやらされようとしている。
だが、チャンスを逃そうとしている。
地球へ帰る可能性を、強くなる生き残る好機を。
誘導されていることは分かる。
だが、他に選択肢はなかった。
「……やり、ます」
「よろしい。なに、基礎を固め、感覚を磨くためだ。しばらくすれば、私が手ずから鍛え上げてみせよう」
ユウトの苦渋の選択を、両手を広げて祝福する吸血侯爵。善良な人間を堕落の道へと誘い込む悪魔そのものだ。
「はぁはぁ」
一方、そんなことは関係ない。もう辛抱できないと、被虐の女吸血鬼ダーラが本当によだれを垂らす。
「さあ、やりたまえ。すぐに、今すぐにだ」
「分かり……ました」
そう答えたものの、もう一度決意するまで5分以上はかかった。
「いきますよ?」
「はぁはぁ……」
呪文書から半ページ切り裂いて、それをダーラへと押し当てる。長い髪に隠れた赤い瞳が、爛々と希望に輝いた。
それに後押しされたわけではないが、ユウトは空想のスイッチを押す。
「《衝撃》」
ユウトが呪文を唱えると接触点に火傷の痕が生まれ、女吸血鬼が背筋をそらしてびくびくと震えた。まるで、なにかの実験動物のようだが、本人はうっとりとしている。
「さあ、どんどんやりたまえ」
そう指示を出して、ジーグアルトはどこかへ姿を消してしまった。
「大丈夫……ですか?」
「もっと……」
見れば――見たくないが、見ないわけにもいかない――腕さえ吸血鬼の再生力で火傷は完治してしまっている。やりたくはないが、言い訳も思いつかなかった。
「《衝撃》」
今日二回目の攻撃呪文に、再びダーラは歓喜に震える。
やらなくてはならないものは仕方がない。そう割り切ったユウトは、確かめるように何度も呪文を発動させていく。
二人きりの訓練場で、しばし、誰にも見せられない特訓が続いた。
果たして、その効果は――抜群だった。
ひとつの呪文に習熟することで、理術呪文自体の構造に対する理解度を高めることができたのだ。
不本意ながら、ジーグアルト・クリューウィングの理論は正しかった。
こうして急速に成長を遂げたユウトは、次第に、ただ攻撃呪文を使うだけでなく、動きを拘束してから使用する、フェイントを入り混ぜる、モンスターを召喚する呪文を併用するなど、多彩な呪文を使用するようになっていった。
目的を達成する手段は、ひとつとはかぎらない。
焦らしていると解釈されたのは、心の底から不本意だったが。
こうして、ユウトは大魔術師への道を着実に歩み始めた。
同時に、悪の道もまた。




