3.精神世界で:生き抜くために(前)
「そこの黒くて細いのが、ヴェルガ嬢ちゃんのお気に入りか」
「う、えあっ!?」
背後から降ってきた野太い声。
書類を運びながら、反射的に振り返った天草勇人――ユウトが目にしたのは、大木よりもなお太い足だった。
惚けたまま視線を上にずらすと、帝宮エボニィサークルの高い高い天井と大仏のように巨大な――しかし粗野な――顔が目に入る。雑居ビルほどもある巨体。
巨人だ。
牛頭人身のミノタウロスとはすれ違ったこともあるものの、巨人族は見るのも初めて。エボニィサークルの巨大さに、実用上の理由があるとは思っていなかった。
だが、こちらを見下ろす巨人を前にしては、「一応、中学まではサッカー部だったんですけど……」などと言い訳はできない。そもそも、目の前の巨人――ボーンノヴォル――とは、肉体的な部分で共通認識が得られるはずもなかった。
「冴えないガキではないか」
「うっ、おわわっ」
その巨人相手に、制服姿のユウトは悲鳴しか上げられない。
だが、それも無理はないだろう。なにしろ、その偉容に驚かされたあとは、まるでゴミでも拾うかのように指でつままれ持ち上げられたのだから。
「ど、どちらさまでしょうか」
廊下の上に広がる羊皮紙を視界の隅に捉えつつ、ユウトは言わずもがなな質問をする。
「この“雲をも掴む”ボーンノヴォルを知らぬか!」
その大声でユウトの髪が逆立ち、頬が大気の振動で波のように震えた。
さらに、生臭い吐息が全身に纏わりつく。不快というレベルではないが、その拘束から逃れることはできない。
「まったく、ヴェルガの嬢ちゃんが男を囲ったというからわざわざ見に来てやったのに、こんなのだとはな」
「別に囲われているわけでは……」
「ん?」
射殺すような鋭い視線がユウトに注がれる。
「黒くて細いの。貴様は、なにができる?」
「今は、主に計算をしてますが」
「計算だと!」
波間に揺れる小舟のように翻弄されているユウトだったが、死巨人の特性である死の霊気は噴出させないようにしていることから、ボーンノヴォルも多少は配慮していることが分かる。
だが、それを知っても慰めにはならなかっただろう。
地に足が付かない状態で、この死巨人と会話しているだけで確実に寿命も減っている。不興を買えば、その戒めが解かれ地上へ墜落死だ。
「まったく、ヴェルガ嬢ちゃんの考えることは分からん……が、貴様は生かしておくと為にならん気がするぞ」
なんとなくで殺されそうになる。
なんという理不尽か。
けれど、ユウトが神隠しとしか言いようのない、現象に巻き込まれて一週間。
異世界ブルーワーズへ迷い込んだユウトは、もう、この手の展開には慣れっこになっていた。ここは、ヴェルガが言った通りの世界なのだ。
「食うか」
墜落死ですら、まだ優しい未来だった。
ボーンノヴォルは迷わない。即断即決を旨とするヴェルガから伯爵位を送られている死巨人の長は、つまんだままの人間を口へと運び――
「宰相……さまの許可は取ったほうがいいんじゃないかと」
――食料が発した言葉に動きを止めた。
「ヴェルガ嬢ちゃんではなくか?」
「今の俺……じゃなくて私の上司はラテタルさまですから」
ユウトは、震えそうになる声を必死に抑えて、努めて冷静に翻意を促す。
虎の威を借る狐と同じだが、今の彼にはなんの力もない。否、持てる力と言えば、女帝と宰相に対するコネクションしかないのだ。
そして、いかなる源であれ、この世界で物を言うのは力だ。
「ふんっ。ヴェルガの嬢ちゃんの名前を出さなかっただけ、良しとするか」
「じゃあ……」
「そもそも、筋張って不味そうだしな」
ボーンノヴォルは不機嫌そうに言い放つと、ユウトを放り投げた。
「くっ」
咀嚼される運命は免れたが、結果は変わらない。
背筋が凍るような浮遊感。死を前にした恐怖。
無意識に、ユウトは頭を抱え全身を丸めた。それでどうにかなるとは思えなかったが、諦められるはずもない。
壁か、床か。
いずれにしろ、激突して終わり。
――果たして、その運命は直前で回避された。
「妾の物を、粗末に扱われては困るのう」
赤毛の女帝が、秘跡で来訪者の少年を受け止めながら保護者を自任するボーンノヴォルへと叱責の言葉を口にする。
宙に浮かんだままのユウトは、それをただ見ていることしかできない。
「嬢ちゃん、コイツはやめておけ。女を不幸にするぞ」
「男で身を持ち崩すのであれば、女としては本望であろ」
身長でいえば十倍以上も違う二人が、にらみ合う。
先に目を逸らしたのは――当然、死巨人の長だった。
「黒くて細いの、しっかり鍛えろよ! ヴェルガ嬢ちゃんを悲しませたら、ねじ切りに行くぞ!」
ボーンノヴォルは言いたいように言うと、踵を返してそのままどこかへ行ってしまった。どうやら、本当にユウトを品定めするためだけにやってきたらしい。
「ユウト、大丈夫かえ?」
「助かったよ」
見えないなにかに支えられていたユウトが、秘跡から解放され地に足を着ける。そうしながら、敬語を使うと怒られるため、ラフな口調で感謝を伝えた。
「まったく、困った爺様よ」
「こっちは、たまったもんじゃないんだけど……」
人一人殺そうとして「困った」で済まされる方が困ったことだが、実のところ、ユウトも、もう慣れている。
仕事として倉庫の資材チェックへ行ったら、警備のオーガにスナック感覚で食べられそうになったこともある。その帰りにはゴブリンの集団に襲われ、危ないところで助けてくれたサキュバスから死ぬ寸前まで精気を吸い取られた。死ぬ寸前なのは、もちろん、親切心からではない。幸いなことに、黄金の卵を生む鶏を殺すほど愚かではなかっただけだ。
こんなことが、何度もあったのだ。
「嫌な日常だ……」
そう呟きながら書類を集めるユウトの声には、実感と疲労がこもっていた。
「早よう、偉くなれ」
そんなユウトに、ヴェルガが頭上からとろけるような声をかける。
「それには、結果が必要か……。そうよの。一週間、否、三日だの」
「結果?」
「そう、我が帝国の道標を示してもらおうかの。三日後に、時間を作ろうぞ」
「道標? 政策を提言しろってことか? そりゃ、むちゃくちゃ――」
そう言い掛けて口を閉じた。
三日が一週間や一ヶ月になったとして、そこまで生きていられるか分からない。ここは、そんな世界だ。
「分かった。まだ、見通しなんか立ってないけど。やってやる」
ヴェルガは確かに好意的だが、それだけだ。
今は珍しさから庇護してくれても、明日はどうなるか分からない。
なら、どうする?
決まっている。自らの有用性を証明し続けるほかない。
そう決意するユウトの横顔を、悪の半神は満足そうで淫乱で今にも舌なめずりしそうな微笑を浮かべて見つめていた。
「新入り、これもやれ」
「あ、はい」
だがしかし、現実はそう甘くない。
ヴェルガと別れてエボニィサークル内の一室へと戻ったユウトは、宰相と同じダークエルフの同僚――と言っていいのかは未だに疑問だが――から仕事をさらに押しつけられていた。
ヴェルガ帝国の宰相シェレイロン・ラテタルに預けられたユウトは、そこからさらに何段階か下へ回され、最終的に出納部門らしき部署へ配属されたようだった。
そこで、どこからか上がってくる書類の数字を計算し、検算し、書類の数値と倉庫の物資をつき合わせる。
そんな地味な仕事を、淡々とこなしていた。
少なくとも、ここで仕事をしている間は、誰かに害されることはほとんどない。たとえ、他人の仕事を押しつけられても、この世界ではその価値は計り知れなかった。
今のユウトは、なんとか底辺にしがみついているような存在であり、実のところ、もっと待遇の悪い人間など掃いて捨てるほどいる。
彼が死んだところで、ちょっと便利な人間が消えた程度にしか思われないだろう。
「このノートも、終わりか……」
計算機のないこの世界では、筆算が頼り。地球から持ってきたノートは、すでに計算式で溢れていた。元の世界では、ここまで勉強したことはない。
つまり、必死さが足りなかったのだ。
そして、それは仕事を押しつけてきた連中にも同じことが言える。
多くの資料から得られる情報は、這い上がろう、成り上がってやろうという意思を持つ者にとっては宝の山に等しい。
例えば、ヴェルガ帝国では人間の奴隷に農作業をさせているのだが、絶対数が足りない。
というよりも、人間のほとんどは他国から連れてきた奴隷とその子孫だ。
ヴェルガ帝国が存在する大陸の北方には、ほとんど人間がいなかった。ではなにがいるのかというと、ゴブリン、巨人、ダークエルフなど数多くの悪の相を持つ亜人種族たち。
種族毎に王を立て相争っていた混乱期。そこにヴェルガが現れ、あっという間にそれらを束ね、成立したのがヴェルガ帝国。
そして、残念ながらそれらの種族は、農作業などの地道な労働に向かない。絶望的なまでに。
では不足分はどうしているのかというと、余所の国から直接奪うか、同じく余所から奪った財貨を支払って輸入している。
あまりにも原始的で、国としては破綻しているとしか言えない状況だ。
それでもなお国体を維持できているのは、無理な侵略で人減らしをしているため。民を養うために他国を侵略し、その課程で養うべき民を殺している。
大いなる矛盾。
それが許されるのは、絶対的な魅力を持つ女帝が治め、力あるものによる支配が徹底しているから。
歪な構造。
だが、そこにこそ生きる道がある。
そう確信したユウトは、仕事の傍ら寝る間も惜しんで――というよりは徹夜でアイディアをまとめた。
三日後。
ユウトは、ヴェルガに言われた通りにいくつかの政策案を用意した。
ただ、予想外だったことがひとつある。
「それでは、発表してもらうとするかの」
エボニィサークル、玉座の間。
そこで女帝ヴェルガその人に、奏上するのであれば分かる。
「あ、ははは……」
けれど、ボーンノヴォルをはじめとする諸種族の王が居並ぶその前で発表するなど、想像もしていなかった。
巨人と見まごうばかりの巨躯を誇る、ゴブリン王“偉大なる”カードッド。
足下まで届く長い髭と鋼のような筋肉を持つ黒ドワーフの族長“黒鉄髭”のガンギルゾイ。
ヴェルガ帝国の領海を版図とするサハギンの首領“蒼き”アズール=スール。
人狼、虎人ら獣憑きを従える森の王者“彷徨戦鬼”バーグラー。
吸血侯爵ジーグアルト・クリューウィングや火竜公など姿を見せぬ者もいるが、主立った貴族は揃っていると言っていい。更に、死巨人の長ボーンノヴォルも、魔法具で体を小さくして一番奥にどっしりとあぐらをかいていた。
(死ぬかもな、俺)
一段高いところから、そんな重鎮たちの不機嫌そうな顔を眺めたユウトは、乾いた笑いを浮かべる。
だが、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
やるしかない。
それしか生きる道はない。
玉座で淫蕩に微笑むヴェルガを一目見て、ユウトはおもむろに口を開いた。




