2.それぞれの戦場
死屍累々。
この惨状を前にしては、表現力に優れた吟遊詩人であっても、他の表現は思い浮かばないに違いない。それほどまで、大賢者ヴァイナマリネンの周囲には死骸が積み重なっていた。
ゴブリン、コボルト、オーガ。悪の相を持つ亜人種族の屍。
食屍鬼、塚人、骨骸兵。二度目の死を迎えた。不死の怪物。
魔導人形や粘液の化物の残骸。
否、周囲だけではない。
彼がここに至るまで通ってきた道は、同じだけの死で舗装されていた。
「小細工など無駄なことをするでないわ。ちゃんと、斬られにこんか」
百層迷宮に一人潜った大賢者が、理不尽な言葉とともに、逃げまどう――振りをする猩猩の悪魔エイポヌリスを追いかけて愛用の魔剣を振るう。
背後からの一撃は鮮やかに悪魔の首を刈り取り、迷宮の角から不意を打とうとしていたもう一体の悪魔も、返す刀であっさりと切り捨てた。
この程度の相手、呪文を使うのももったいないと言わんばかり。
そして、それは紛れもない事実だった。ユウトがいたら、頭を抱えていただろうが。
「しかし、後から後から湧き出おって。さすが、大氾濫だな」
大氾濫。百層迷宮からモンスターが溢れ出し、フォリオ島全土を侵食したという過去の大災害。ヴァイナマリネンは、それにたった一人で立ち向かっていた。
とはいえ、本人はそれを英雄的行為とは思っていない。
「まんまと、たばかられたわけだな!」
方法は不明で証拠もないが、この大氾濫を引き起こしたのは悪の半神であると確信していた。
そう。ヴァイナマリネンを遠ざけ、ユウトを手に入れるそのためだけに。
ヴェルガはいつから計画を練っていたのか。もしかすると、無貌大母コーエリレナトを地球からこちらへ送り返したときからかもしれない。
そして、それは成功したのだろう。
迷宮外の状態までは知る由もないが、これも確信していた。
女帝の陰謀を挫いていたならば、あわててこちらへ駆けつけているはずだから。
「メルエルは、後で説教だな!」
相変わらず、呪文ではなく武器を使ってモンスターを駆逐しながら、悪魔諸侯に再封印を施した弟子の顔を思い浮かべる。
同時に、次元竜ダァル=ルカッシュに精神世界で出てきたときに、あることあること暴露してやれば良かった――と、本人が聞いたら顔を青くするようなことも。
だが、ヴァイナマリネンは笑っていた。
若人の尻拭いは、老人の仕事だろう。
本人には絶対に言わないが、ヴァイナマリネンはユウトのことを気に入っていた。
彼が死んだ後の遺産を任せてもいいと思う程度には。あるいは、メルエルの後継者として魔術学院を預けてもいいと思う程度には。
今回は、恩を売るいい機会だろう。
目的のためには手段を選ばないわりには誠実で義理堅い師の驚き困った表情を思い浮かべ、大賢者ヴァイナマリネンは、百層迷宮を更に奥へ奥へと進んでいった。
ヴェルガ帝国軍、北の塔壁へ侵攻。
ロートシルト王国、王都セジュール。
ハルヴァニ侯爵からの報告を受けた新王アルサスは、居並ぶ臣下の表情を眺めやった。
あえて玉座の間で報告させたのは、居並ぶ文官・武官たちにも聞かせるためだ。そして、幸いにもその意味を理解できぬ愚鈍な廷臣は一人としていなかった。
理解できているがゆえに、顔色が紙のように白くなっている者も多い。
ヴェルガ帝国の侵攻など、日常茶飯事。にもかかわらず、《伝言》の呪文による至急報が送られてくる。
それは、北の塔壁が悪の軍勢に抜かれ、領内へと雪崩れ込んでくるかもしれない。そんな最悪の可能性を示唆していた。
「急ぎ援軍を送るほかないでしょうな」
アルサスの即位後、軍務相談役として現役復帰させられたハルヴァニ侯爵が冷静に、しかし、即座に決断を迫る。
「致し方ありませぬ」
前王から引き続き宰相の大任をつとめるディーター・シューケルも、同意した。
財政上の問題を言えばきりはないが、そんなことを言っていられるのも、国があってこそ。規模や装備に関しては調整が必要だが、文武の足並みはそろっている。
「…………」
しかし、アルサスは黙して語らない。
その胸中では、様々な思いが渦巻いている。
まず、その援軍が間に合うのかどうか。
北の塔壁までは、どんなに急いでも一週間。兵の編成を考慮すれば、十日以上はかかってしまう。それまで、持ちこたえてくれるのか。
北の塔壁には、一万からの兵が詰めている。
だが、国境線は長く、それでも充分とは言えない。一万という数は、ヴェルガ帝国ではなく、自国の力を考えたぎりぎりの常備戦力だった。
緊急時となれば、王都周辺をはじめとして、貴族たちからも兵力は抽出できる。けれど、それも現地に到着せねば用をなさない。
ユウトと相談して、馬車鉄道による兵員輸送計画も持ち上がっていたのだが、敵はそれを待ってはくれなかった。その彼が原因で、事態が急激に動いているのは皮肉としか言いようがない。
「此度、早期に奴らの南侵を発見できたのは、イスタス侯から進呈された“望遠鏡”の力が大きかったとか」
「それは重畳。いかがですかな、そのイスタス侯へも出兵を打診しては」
「だが、あと数年は兵役を免除する話だったはず」
「左様。北の塔壁に侯爵が加わっては、指揮系統も混乱しかねぬ」
口々に語る廷臣たちも、もうひとつの報告を聞けば、再び沈黙せざるを得ないだろう。
フォリオ=ファリナにヴェルガが親征した。
それに対処しようとしたアマクサ守護爵も、昏睡状態。
それでもなお、北の塔壁を守るため彼らを呼び戻すことは可能だろう。しかし、それに意味はない。フォリオ=ファリナが失陥すれば、無防備な海沿いの街から侵略を受けるだけ。いや、その前に、経済がやられる。
油断していたわけではない。
けれど、内乱に乗じた動きがなかったため、安心していた側面も否定はできない。
この二正面作戦という計画があったからこそ、こちらの内乱時には手出ししなかったのだ。
アルサスは、現時点での負けを認めた。あくまでも、今の時点での。
「援軍の編成は、相談役と宰相に一任する」
「はっ」
「承知いたしました」
「その前に、私は北の塔壁に入ることにする」
「……なんですと?」
呆然と聞き返す宰相。一方、ハルヴァニ侯は歴戦の老将らしく、薄い微笑みを浮かべている。
「私が単騎北の塔壁へ入り、前線を支える。貴公らの仕事は、私が生きている間に援軍を送り届けることだ」
即位して早々に訪れた大きな国難。
その状況でも、アルサスは英雄たらんとして、道を選んだ。
その選択に審判が下されるのは、そう遠い日のことではない。
「なんかさー。タラスクスがこっちに向かってるみたいなんだよね」
「……そうか」
主不在のファルヴの城塞。
たまり場となっているユウトの執務室で、床にどっかりと座ったエグザイルが言葉少なにうなずく。
「アタシも初めて見たけど、でっかいね、あれは。街ぐらい、簡単に踏みつぶすよ」
「……そうか」
留守を預かる岩巨人は、リトナ――草原の種族の守護神タイロンの分神体――からの驚くべき報告を聞いても、あわてることはなかった。
「そうかじゃねえだろ」
その薄い反応に業を煮やしたように、執務室のソファから立ち上がり、テルティオーネが床をだんと踏み鳴らす。
そんなエルフの魔導師に眉をひそめるエグザイルだったが、この場合、正しいのはテルティオーネのほうだった。
アルシアから《伝言》で届けられた衝撃的なニュース。
それを受け取ったエグザイルに呼び出され、念のため王都へも報告を行おうとしたところに、追加でとんでもない情報が追加されたのだから。
「タラスクスといやあ、ほとんど災害みたいなもんだろうが!」
六本の脚を持ち、陸を行く鯨。身の丈数十メートルを超える巨大なモンスター。
タラスクスを端的に表現すると、そうなる。
背負った甲羅により一切の呪文を受け付けず、全身を覆う鱗は物理的な衝撃を吸収する。
その目的は、不明。
ただ、陸を海を彷徨し、進路に立ちふさがるすべてを踏みつぶすだけ。神のなれの果てとも、呪いを受けた古代の生物とも、奈落を放逐された悪魔とも言われているが、よく言っても仮説の域を出ず、要するに、よくわかっていない。
「どうするつもりなんだ?」
ラーシアがいなくて暇になったリトナが、黒妖の城郭周辺で見つけたタラスクス。北上を続けるこの巨大生物に抗する方法などありはしない。
テルティオーネも、どうやって避難させるつもりなのかと聞いたつもりだったのだが、その意図は完全に裏切られた。
「倒すしかないだろう」
「よし、やろうか」
「おまえらは……」
非常識さでは充分に実績がある、ユウトの師があきれる。
「今のオレには、それしかできないからな」
留守を任されていたから当然とは言え、こちらからユウトたちのもとへ駆けつけることはできない。迎えにきてくれなければ、その手段もない。
無力感に、天を仰ぎそうになった。
だが、完全に偶然だろうが、自分にしかできないことができたのだ。逃げるなどありえない。どんなモンスターだろうと、関係ない。
「ただ、打ち倒すだけだ」
そう断言した岩巨人は、余裕に満ちあふれていた。
「順調よの……」
フォリオ=ファリナ近く、ヴェルガ帝国艦隊の旗艦で羽を休める悪の半神は、満足げにつぶやいた。
だが、その声音とは対照的に、表情には疲労の色が濃い。
それも、当然だ。
元々、彼女の支配地域外では力が著しく制限されるにもかかわらず、かなりの無茶をしている。そのうえ、彼の状況を知るために、自らの一部を精神世界に残しているのだから。
けれど、それは当然のリスク。
手を伸ばせば手に入る。そんなものに、どんな価値があるというのか。
どれだけ恋い焦がれても、なびいてくれない。
だからこそ、価値がある。
その価値あるものを手にするときが、刻一刻と近づいていた。
「だがその前に、引導を渡してやらねばならぬな」
ヴァルトルーデ・イスタス。
好敵手の名は大気を震わすことなく、ただ、淫靡な唇を動かしただけ。
あの聖堂騎士を打ち倒す。
その時こそ、数百年の倦怠から生まれ変わる瞬間となるだろう。
女帝はまぶたを閉じた。
そして、愛しい男の精神に同調し、夢の続きを見る。本来あるべきだった世界の夢を。




