1.広がる動揺
「アルシア……」
泣きそうなというよりは、泣くのをこらえている声がツバサ号の船室に響く。
アルビノの少女はユウトの船室へ《テレポーテーション》で戻ると同時に、真紅の眼帯を身につけた大司教に抱きついた。
「ヨナ……?」
そこだけ切り取れば、彼女にも年齢相応な部分があるのだと安心したかも知れない。《サイコキネシス》で連れてきた、彼の存在がなければ――だが。
「ユウトくん!?」
「と、とりあえず寝かせましょ」
「あ、ああ。そうだな」
固くまぶたを閉じ、死んだように眠るユウト。
まず息があることに安堵し、次に慌ただしく婚約者をベッドに寝かす三人。
なにが起こってこんな状態になったのか。詳細は不明だが、原因は分かっている。そのためか、無駄なパニックに陥らずに済んだ。不幸中の幸い――とは言えないだろうが。
「怪我をしているわけではないようね……」
急ぎアルシアが診察し、外傷がないことを確認してほっと息を吐く。けれど、ヴァルトルーデは緊張を解かない。険しい――それでもなお美しい――表情のまま、アルシアには気づけない事実を指摘する。
「ローブが黒くなっている……」
「そうなのですか? いったい、なにが」
「なにって、決まってるでしょ」
信じてしまった自分が腹立たしいと、アカネは顔をゆがませた。派手な顔立ちな彼女がそうすると、思わず後ずさりそうになるほど迫力がある。
「あの女がやったに決まってるわ」
「……うん」
まるで自分のせいだと言わんばかりに、しゅんとしながら肯定するアルビノの少女。そんな彼女を、アカネとヴァルトルーデが抱き寄せて慰める。
こちらは被害者だ。責められるべきは加害者であり、ヨナやユウトではない。
「しかし、このローブが変色するとは……」
「どういうことなの?」
「白いと、良い魔術師。黒かったら、悪い魔術師ってことだったはずだよ」
騒ぎを聞きつけ、見張りをヨナに代わってからは操舵室で待機していたラーシアが船室へ入ってくる。いつもの飄々とした雰囲気はそのままだが、目は笑っていなかった。
いや、雰囲気が違うのは彼だけではない。誰もが、自らの迂闊さに憤っていた。
「こりゃ、ヴェルガに一杯食わされたね」
「信じた結果がこれだわ」
苦々しい声音で、アカネも同調する。まさかここまでしないだろうと、軽く考えていた自分の浅はかさに腹が立つ。
それはヴァルトルーデやアルシアも同じ。けれど、相手があのヴェルガだろうと、借りは返さねばならないし、信じることで始まることもある。その甘さ。それこそ、善性の発露でもあったのだが……。
「私の失態だッ」
壁に頭を打ち付け、血を吐くように言葉を紡ぐ。鈍い音が船室を支配した。珍しくヴァルトルーデが見せるいらだちに、アカネは呆然とし、ヨナとラーシアは思わず背筋を伸ばす。
「あの、ヴァルトルーデさん? 壁にひびが入ったりしてるんですけど?」
「ヴァルも怒らせる、ダメ」
「片言になってるわよ……」
及び腰の三人とは違い、アルシアは冷静だった。
幼なじみが落ち着いたのを感じ取ると、額に手を当て《極小治癒》を使用して傷を癒す。
「手間を増やさないでください」
「……すまない」
「壁は、ユウトくんに直してもらいましょう」
「ああ。そのためにも、“常勝”ヘレノニアの名に懸けて、今度こそ決着をつけさせてもらうぞ……ッ」
全身が怒りに震え、念のためにと着用していた魔法銀の鎧が場違いなほど涼やかな音を立てる。
白くなるほど両手を握り、唇をかみしめて、聖堂騎士は神と己に代償を払わせることを誓った。
「アルシア。今のところ、ユウトは命に別状はないのだな?」
「ええ。眠っているだけ……に見えるけれど、実のところどうなっているのかは、もう少し確認が必要ね」
「ラーシアの言うとおり、ローブが着てる人間の善悪で色が変わるなら、精神汚染されてる気がするんだけど。夢の中で洗脳とか」
アカネの指摘は的を射ていたのだが、残念ながら、ヴァルトルーデたちには今一つ通じない。だが、なんとなくではあるものの理解できたのか、平坦ではあるが納得したかのように、ヨナはヴェルガがユウトになにをしたのかを語り始める。
「たくさんの瞳の王子で呪文を使えなくしてから、あの女は《催眠》って言いながらキスした……。こっちはしたことないのに、キスした……」
「なるほど。秘跡ね……」
更に詳しく状況を聞きながら、アルシアは顎で細い指をなぞりながら考え込む。
理術呪文とも神術呪文とも微妙に異なる現実改変の力。だが、対処法に大きな差はない。問題は、それが通用するかどうか。つまり、ヴェルガとの力比べになる。
不透明だが、彼がいなければそれも試せない。
「ユウトを確保できたのは、ヨナのお陰だな」
「そうね、お手柄だわ」
ヴァルトルーデは正面から称賛し、アカネは背後から全身を包むように抱きついてヨナを慰める。アルビノの少女に、これ以上、罪の意識を背負わせるわけにはいかない。
その配慮に感謝しつつ、アルシアは意識を天上に座す死と魔術の女神トラス=シンクへと同調させる。直に会ったことがある分神体よりも強大な意思に触れ、自らを導管として力を引き出していく。
「魔術の深淵を識る慈悲深き御方よ、我に悪しきを祓う力を与えたまえ」
不死の怪物を祓う時と同じ清冽な霊気が溢れ、彼女の呪力を底上げする。
「《壊呪》」
そして奇跡の一端が現界し、ベッドで昏々と眠るユウトを紫色の光が包み込んだ。
だがその瞬間、ユウトの体からいくつもの黒い球体が現れた。悪しき効果を破壊するはずだった魔力は、そのひとつに吸収され、大きく弾ける。
「アルシアッ!」
「問題ないわ」
炸裂する球体から飛び出た光をまともに受けたアルシアだったが、心配するヴァルトルーデをなだめる余裕すらあった。派手な見た目の割に、実際、なんら悪影響を受けていない。
「あー。《反魔の星》かな?」
「恐らくは」
ユウトがいれば確定できたのだろうが、その彼がいれば、こんな困難に直面することもない。皮肉な状況に、ラーシアでさえも、冗談ひとつ言えなかった。
「その《反魔の星》だったとしたら、どうなる?」
「簡単に言えば、呪文が反射されます」
「簡単すぎるわね……」
「攻撃したら、危なかった?」
「するはずがないだろう」
ラーシアが気づいたことから分かるように、《反魔の星》は理術呪文のひとつだ。しかも、第九階梯の。
「話を聞く限り、とても有用な呪文に思えるのだが、ユウトが使っているのを見たことがないぞ」
「だって、なんでもかんでも跳ね返しちゃうもんね」
「私の治癒呪文まで反射……ということになれば、命の危機もありえます」
また、個人ではなく空間を効果範囲とする呪文は反射できないなど、効果は凄まじいが限定されすぎて使い勝手が悪い呪文だった。
「でも、今のヴェルガ的には超使えるわけね」
「ユウトだったら、正しい呪文の使い方だってほめてるね」
そんなラーシアの指摘には誰も言葉を返せず、沈黙の帳が降りる。
神託を得て対処法を知る、《反魔の星》の効果が切れるまで呪文を使い続ける。まだやりようはあるが、今すぐには、彼を救う術が存在しない。
それを、全員が理解してしまったのだから当然だ。
「さて、これからのことだ」
けれど、ここで立ち止まるわけにはいかない。リーダーらしく、ヴァルトルーデが意思の取りまとめに入る。
「こうなった以上、ヴェルガを討つほかないと――」
「いや、ここは帰ろうよ」
そんな、聖堂騎士にとって思いもしない意見を出してきたのは、草原の種族の盗賊だった。
「ユウトを見捨てるつもりか? それに、ヴェルガ帝国の兵も、今まさにフォリオ=ファリナへ上陸しようとしているのだぞ」
「ヴァルこそ、アカネとマナを戦場に置いとく気なわけ?」
「ユウトは、ヴェルガに対し責任を持つと言った。その約束を果たすのは、私たちの役目でもある」
どちらにも一理あり、どちらも正論だ。
狭い船室の中央で、二人の意見が対立する。
「私のことは、気にしないでも……」
「するに決まってるじゃん」
控え目にヴァルトルーデに賛成するアカネの意見を、ラーシアは切って捨てた。
「フォリオ=ファリナの街が蹂躙されたら、そりゃ、ユウトはめちゃくちゃ責任感じると思うよ。でもアカネやマナ……あと、ペトラも入れていいや。彼女たちが傷つきでもしたら、それじゃ済まない」
だから、ユウト自身の体も含め、安全な後方――イスタス侯爵領へ戻ってしまおうと主張する。
「最悪、この船だって捨てたっていいし」
「ラーシア、それは極端すぎる。私たちは、ここで引くべきではない」
一歩前へ出て、正論だが極論を述べる草原の種族との距離を詰める。その美しさと内に秘めた苛烈な意思に気圧され、従ってしまいそうになっただろう。普通なら。
「ユウト抜きで、勝てる見込みなんかあるの?」
「分からん」
嘘を吐くなど考えもしない彼女の、正直な告白。
「皆で力を合わせれば、どうにかなるとも言えない」
「なら――」
「だが、ここで逃げ帰っては、私は、私たちはユウトとともにいる資格を失ってしまう。そう思うのだ」
「……人間は、厄介すぎる」
そう言われては、議論もなにもあったものではない。
そもそも、いつも通りならヴァルトルーデが議論の矢面に立つことはなかった。ユウトが調整し、彼女が決断する。そのサイクルが、崩れてしまっていた。
「結論を急ぐ必要はないでしょう」
それゆえ、終着点も自ずと変わっていく。
「……そうだね。とりあえず、魔術学院に行ってマナを回収してくるよ」
「なら、一緒に行く」
「うん。お願い」
移動手段の事情――超能力で飛行し、《テレポーテーション》も使える――から、ヨナが名乗りを上げる。連れ帰るにしても、まず本人がいないことにはどうにもならない。
「分かった」
ヴァルトルーデも、それに同意した。
「ならば、私たちは偵察だ。敵の戦力が分からなければ、動きようがないからな」
ヘレノニア神がそこまで見通していたのかは分からないが、このツバサ号なら陸地も突っ切り、迅速に行動が可能だ。偵察程度、難なくこなせるだろう。
「では私は、巻物で《伝言》を使用して、エグザイルや王都に状況を知らせます」
「あ、船は私が動かすわ!」
次々と役割分担が決まっていく。
やるべきことがはっきりし、沈んでいた気分が上向きになるのを誰もが感じていた。
だが、ヴァルトルーデたちはまだ気づいていない。
本当に偵察だけを目的にするのであれば、斥候役であるラーシアは外せないことを。そして、瞳の王子を相手にするのであれば、超能力を使えるヨナを別行動させるなどありえないことを。
ユウトがいない。
ただそれだけ。それだけのことで、歯車が狂い始めていた。




