4.その波紋
「女帝ヴェルガが……」
大切な打ち合わせの途中、実の娘とその同行者たちが駆け込んできた際には憤然と叫びかけたパベル・チェルノフだったが、その報告を受けて絶句した。
怒りなどどこかへ吹き飛んでしまったものの、しかし、彼にとって、それは青天の霹靂……とも言えなかった。
「以前にも侵入されたという話は聞いていたが、またしてもとは」
そう。つい数ヶ月前にも百層迷宮への侵入を許している。
フォリオ=ファリナ自体には手出しせずに去った――正確には、地球を経由してヴェルガ帝国へと帰還した――のだが、忌々しいことにどうしようもできないでいた。
「これは、完全にこちらの責任です」
そう言って、ユウトは頭を下げる。
できれば秘密裏に事を済ませたかったため黙っていたが、デートの当日にだけ訪れるとは限らなかったのだ。せめて、情報だけでも伝えるべきだった。
「しかし、あのヴェルガだ。どうしようもあるまいよ」
世襲議員は、力なく首を振って謝罪を受け入れる。
過去にヴェルガ帝国からの侵略を受けたという経緯もあり、元より良い感情は持っていない。それ以上に、あの悪の半神の悪評は世界中に知れ渡っていた。
曰く、世界中から年端もいかぬ少女を集めては、退廃的な快楽に興じている。
曰く、天上からの刺客である天使を指先ひとつで惨殺する。
曰く、征服された地は悪の相を持つ亜人種族に下賜され、地獄のような日々が訪れる。
嘘も多く混じっているが、この場合、真実が存在しているということのほうが問題だろう。
「とにかく、怪我がなくて良かった」
「あっちに、やる気がなかったからね~」
実の娘を気遣った言葉だったが、反応したのは応接室を物色していたラーシア。草原の種族に部屋を見て回られるのは平静ではいられない経験だったが、彼も伊達に世襲議員を務めてはいない。
冷静に、その真意を問うた。
「やる気がないとは?」
「色ボケ」
ヨナの評価は辛辣で、第三者には意味が分からない。
かといって、当事者にも説明し辛い問題だった。
そんな空気を読んだのか、この件に関しては比較的中立な魔導官が進み出る。
「ええと、ペトラさんのお父さん……」
「失礼。パベル・チェルノフだ」
「私は秦野真名――マナ・ハタノです。それで、どうやらヴェルガという人は、センパイとデートをするために訪れたようです。今日は、その下見だとか」
センパイ――ユウトへ意味ありげな視線を向けてから、赤毛の女帝の行動を過不足なく説明した。
そう、ヴェルガの行動はそこに集約する。その一大イベントが終わるまでは、フォリオ=ファリナに触手を伸ばすことはないはずだ。少なくとも現時点では、だが。
「デートとは?」
「逢い引きと言ったほうがいいのでしょうか?」
「女帝が……逢い引き?」
鶏が大空を舞っていると言われた方が、まだ信じられただろう。まず己の耳と頭を疑い、次に、当事者であるユウトがうなずいたために目を疑った。
世界は、疑惑に満ちていた。
まさか、そんなはずはあるまい。他になにか、理由や陰謀や企みがあるはずだ。
しかし、そんな嘘を吐く意味がない。わけがわからない。
「なんか、気に入られてしまいまして」
「そう……か。あの女帝にか……」
人間としては間違っているが、男としては尊敬してしまいそうになる。もちろん、娘がいるこの場でそんな感想はおくびにも出さないが。
「まあ、どちらにしろ、これが終わってからです」
「そうだ。確かにそうだな」
机上に放置されたままの事業計画書を指さしながら言うユウトに、パベル・チャルノフは一も二もなくうなずいた。
それは単なる問題の先送りだったが、他にやりようもない。
「それに、この件は俺が責任を持ちます」
今は、その言葉にすがるほかなかった。
なにしろ、あの女帝に対して責任を取るなどと言える人間は、他に誰もいないのだから。
「見透かされる……というのも、存外悪くはないの」
ヴァルトルーデとすれ違った赤毛の女帝は、なおもフォリオ=ファリナの市街を闊歩していた。
その歩調は、踊るかのよう。春の高原でピクニックをする乙女を想起させる。夜そのものを具現化した漆黒のドレスも、心なしか軽やかに見えた。
だが、そんなヴェルガを視認できるものはいない。
数十万の人口を有する世界最大の都市。そのメインストリートにもかかわらず、悪の半神の周囲には何者も存在しなかった。
そこが不可侵の聖域であるかのように、誰一人として近づかず、誰一人としてその存在を感知しえない。
だが、それは僥倖だった。
「ヴァルトルーデ・イスタス」
淫靡な唇から漏れる淫蕩な声を耳にしたら、しばらく放心して使い物にならなくなるだろうから。
「妾が、このような感情を抱くとはの」
ユウトを想って興奮するのとは違う。
好悪でいえば好が大部分を占める彼に対し、あの聖堂騎士への感情は、それが半ばする。
「否、それは言い過ぎであるな。悪が7か6か……」
いずれにしろ、複雑な感情には違いなかった。
ただの恋敵でもない。
善と悪の思想や価値観の対立だけでもない。
そこに、ユウトから無条件で愛されているという妬みや余りにも清冽であることへの苛立ちが加味され、簡単には言い表せない複雑な感情が醸成される。
「即ち混沌よな」
それは赤毛の女帝にとって馴染みの状態だった。
区別しない。否定も肯定もせず、あるがままに受け入れる。力――暴力・知力・財力・魅力――が物を言い、その強者が弱者を支配する。
そう考えれば、むしろ、あのパーソナリティは好ましい。
無論、穢してしまいたいという意味で。
「いずれ、雌雄を決せねばならぬがな」
ヴェルガが、ユウトを奪い取る。
つまり、彼が悪の半神を選んでも、それを唯々諾々と受け入れるはずがなかった。
必ずや、決着を求めるだろう。また、そうでなくてはならない。
けれど、まだその時ではない。
「婿殿を喜ばせなくてはならぬからの」
地球という世界で学んだのだが、デートいうものは、基本的に男が女をエスコートするもののようだ。その原理は、求愛のために美しい歌声を発し、美しい翼を雄々しい角を見せつけるのと同じこと。
オスがメスへ繁殖を求めている。
けれども、今回は逆だ。
「なにせ、妾が求めているわけじゃからの」
頬を髪と同じ色に染め、ヴェルガは世界で最も古き都市を彷徨する。
そうして、めぼしい商店を、名所を記憶に留め、位置と距離と流れとを吟味していく。それは思っていた以上に、心躍る経験だった。
彼の反応を想像するだけで、相好が崩れそうになる。
もちろん、逆の立場を想像しないでもなかったが、それは将来の楽しみとするべきだろう。
未来は、無限なのだから。
「じゃが、婿殿にはしがらみも多いからのう」
欲望のまま求めてくれたら楽だったのだが、それは失敗している。それにどうせなら、責任感だけで選ばれるのではなく、本心が欲しかった。
ダークエルフの宰相が聞いたならば、驚愕に心臓が止まるかもしれない。不老長寿のダークエルフなのに、残念なことだ。
――とまでは思わないが、ロートシルト王国への義理があるのなら、別の国でも構わなかった。
東方の島国リ・クトゥアを蹂躙し、そこに居を構えてもいいだろう。いやいっそ、地球で言ったとおり、あちらを征服するのも悪くはない。
それは禁断の果実に等しい思いつきだったが……それだけに蠱惑的だった。
「随分と上機嫌だな」
そんな、家の間取りを考えるかのように楽しい想像は、一人の闖入者により中断を余儀なくされた。
「たった今、上機嫌ではなくなったがの」
「女のご機嫌を取るなど無駄なことよ。なにもせずとも、勝手に悪くなるのだからな」
街の雑踏の中。
商家へ働きに出ている少年が走り抜け、冒険者の一行が笑顔で定宿へと戻り、下働きの少女が食材を買い求める。その声は遠く、水中にいるかのように歪んで聞こえた。
誰も彼もが、この二人の存在に気付きもせず、無意識に避ける。
「しかし、悪巧みでもしとるのかと思ったが、本当にただの下見とはな」
「趣味の悪いことよ」
否定も肯定もせず、ヴェルガは淫猥に微笑む。
それになんら関心は示さず、大賢者ヴァイナマリネンは口を開いた。
「当日は、ワシが邪魔の入らぬよう監視する」
地球で交わした約束では、そうなっている。
ユウトとヴェルガの初めてのデートは、彼の婚約者にも誰にも邪魔はさせないと請け負った。
「だが、それは当日の行動を、ワシが監視するということでもあるぞ?」
手出しをしてくるものを排除するには、二人の動向を把握していなければならない。つまり、ヴェルガが怪しい行動を取れば、大賢者の制止にあうかもしれないということ。
「信用がないことよの」
「日頃の行いだろう」
「お互い様ということじゃな」
にべもないヴァイナマリネンの返答を、ヴェルガはにんまりと笑って反射する。
「まあ、見ておるがよかろう」
邪魔さえしなければ構わないと。
むしろ、見せつけてくれると、女帝は鷹揚にその警告を受け取った。
「婿殿は、妾のものよ」
「大した自信だな」
「妾は、ベアトリーチェの娘ぞ」
ユウトを手に入れること。
それは、神の子を孕んだ偉業にも匹敵するとヴェルガは言う。
同時に、それが自分にできぬ道理はないとも。
「当日の待ち合わせ場所ぐらいは、早めに決めておくことだな」
大賢者ヴァイナマリネンは、それだけ伝えて姿を消す。
「婿殿、妾は童のように胸が躍っておるぞ。婿殿は、どうであろうか?」
残された赤毛の女帝は、太陽を見上げてそう言った。




