7.神の贈り物(中)
「それで、どこへ向かっているのでしょうか?」
「なに、すぐそこだ」
ユウトは、いつもの制服にローブ。ヴァルトルーデは、あわてて部屋に戻りチュニックとデニムというラフな格好で、ヘレノニア神とともに空を移動していた。
「ヴァル、寒くないか?」
「う、うむ。問題ないぞ。いや、問題ないというか、そっちの問題はない」
月明かりだけを頼りに海岸線へ向かっているが、一緒なのだ。彼にも彼女にも心細さはない。あるのは、困惑と気恥ずかしさ。
ユウトは心配しているが、湯上がりとはいえ万が一にも風邪を引く心配はないだろう。むしろ、羽衣のような衣装をまとった戦女神との不釣り合いのほうが問題だ。
さすがに魔法銀の鎧は持ってきていないため、どうしようもなかったのだが。
「ですがそもそも、贈り物をいただく理由が……」
ヘレノニア神は自力で。大魔術師と聖堂騎士は《飛行》の呪文で空を行く。
そうしながらも微妙な距離のある二人だが、ラーシアが見ていたら、「くっつきたいのか離れたいのか、はっきりしなよ!」と、月に吼えていたかもしれない。
その草原の種族は笑顔で見送ってくれた――あることないこと喋らないよう釘を刺したが、FR-10x頼みだ――が、呼ばれたのが二人だけというのも解せなかった。
「まずは、実物を見せてからよ」
けれど、“常勝”の名を冠せられる戦女神は取り合わない。無言でそのまま飛び続ける。
「ついていくしかないか」
「そうだ……な」
なんでもない会話。ただの確認。
けれど、二人は見つめ合い、しばし時が止まる。自分たち以外の存在は消え去り、ここがどこかという意識も希薄になっていった。
横を飛ぶ、聖堂騎士ヴァルトルーデ。
彼女の濡れていた髪はすでに乾いているが、その金糸のような髪は艶やかでしっとりとしていて、思わず手を伸ばしてしまいそうになる。
最初は、そのあまりの美しさに気後れして照れていたことを考えれば、そう思えるだけ進歩しているのかもしれない。
けれど、月光の中で光り輝く宝石のような瞳と目が合うと、指一本動かせなくなってしまう。
恥ずかしがっているわけでも、気後れしているわけでもない。
ただ、その美しさに見とれた。
ずっと一緒にいるのに、何度も見ているのに。状況と感情が違えば、また新たな驚きと感動と衝撃を与えてくる。自分の感情ほど制御できないものはなかった。
一方、ヴァルトルーデもそう変わらない。
意地が悪いけど優しい、黒髪の少年。
彼が側にいる。一緒にいる。そう思うだけで、胸が苦しいほど愛おしさが募り、体の奥で得体の知れない衝動が暴れそうになった。
不可解だが、不快ではない。
暫時、二人は見つめ合って飛ぶ。
だが、それだけ。
それ以上は、なにもなかった。ヨナが見ていたら「ダブル意気地なし」などと、罵っていたかもしれない。
「そこに降りるぞ」
気づいていないのか、その振りなのか。
表情も声音も変えず、ヘレノニア神は足下を指さした。
「…………」
「…………」
「……先に行くぞ」
この状態で気づかないわけがない。あきれ果てたと、ヘレノニア神は引力に身を委ねて落下していった。
「はっ、ヴァル!」
「なん……はっ!?」
ようやく正気に戻った二人が、戦女神を追って昼間でも人気のなさそうな入り江に降り立つ。
「我をあきれさすとは、大したものよ」
「申し訳ありません……」
まったくもって、反論の余地はない。
ユウトは、月明かりの下で佇む女神へ頭を下げることしかできなかった。
「まあ、女子に頭を下げさせなんだは、見所がある」
微笑みながら「命拾いしたな」とヘレノニア神はユウトの肩を叩き、彼が反応をする前に踵を返して、波打ち際へと移動した。
「なにを……」
「黙って見ておるが良い」
いつの間にか、戦女神の手には一振りの剣が握られていた。
「神剣・紅蓮迅雷」
真紅の雷光を放つ長剣。
“常勝”ヘレノニアが所持する百と一の神剣がひとつ。ヴァルトルーデの討魔神剣も、その神剣群の中から下賜されたものだ。
だが、紅蓮迅雷は、ヘレノニア神の武器の中でも、象徴的な位置を占める。
悪を討つ聖焔と、戦女神そのものともいえる雷光を合わせ持つそれは、数多の神話に描かれ絵画のモチーフとなってきた。
そんな剣を、無造作に振り下ろした。
大気を裂く衝撃。
音は、遅れてやってきた。
その斬撃は、当然だが、大気だけでなく海さえ切り裂く。
まるで、そこだけ削り取られたかのように。
まるで、そこ以外の時が止まったかのように。
海の一部がなくなった。
「私なら……」
その声を聞いて、ユウトは思わず隣に寄り添うヴァルトルーデを凝視する。
先ほどまでの恥じらう乙女のような彼女もいいが、やはり、ヴァルトルーデには凛々しい表情が似合う。
「同じことができるのか?」
聖堂騎士はしばし瞑目し、イメージの中で剣を振り下ろす。
けれど、イメージができるというそれだけで、驚異的だった。
ユウトもハーデントゥルムの港で似たようなことをやったが、それは潮汐というそのための呪文があったから。
「今はまだ無理か」
「それはそうだ」
人間は普通、海を斬れない。
様々な驚きを提供したヘレノニア神の一撃。
当然ながら、それはまだ序曲の始まりでしかなかった。
「ユウト……。どうやら、私は目まで悪くなったらしい。神と同じことができると考えた、報いかもしれぬ」
「安心しろ。異常なのは俺たちじゃない、世界のほうだ」
海の裂け目を滑るように上昇していくそれを目の当たりにし、ユウトにとって、聞かせるのは得意だが、滅多に聞かない音――常識が壊れる音を聞いた。
「そうなると、船が海の中から出てきたということになるな」
「ああ。船が海中から出てきたんだよ」
三本のマストを持つ、純白の美しい船だ。
全長は30から40メートルほどだろうか。キャラックと呼ばれる形式の船で、遠洋航海も可能としている。積載量も多いため、商船として使用されることが多い。
入り江いっぱいに停泊するその船は、思わず見上げるほど大きかった。
「なかなか速そうな船だな」
「それは認める。大したもんだ」
「これが、そなたらへの贈り物である」
朗々と、得意げにヘレノニアが神意を伝える。
それに否やはないが、困惑は否めない。
「なぜ船を……」
リ・クトゥアへ行ったときのように、ユウトやヴァルトルーデが個人で移動するのであれば、空路が最も速く、比較的安全だろう。
そして、一度行った場所であれば、次からは《瞬間移動》でショートカットできる。
彼らにとって、船など無用の長物。それどころか、扱いきれずに持て余すのは明らかだ。
明らかにもかかわらず、贈り物とする。
その真意が見えなかった。
「理由は言えぬが、これが我にできるせめてものこととなる。疑問もあろうが、今は、受け取っておくのだ」
「ありがたく」
砂浜に膝をつき、頭を垂れて拝受するヴァルトルーデ。
(船が必要なのは、大量に荷運びをするから? いや、無限貯蔵のバッグがある俺たちに、それだけの理由で渡すはずがない。じゃあ、俺たち以外が使うことを期待してる? それとも、貿易じゃなくて探検でもするための船か?)
一方ユウトは、彼女ほど素直には受け取れなかった。
ただほど高いものはない――と言うつもりはないが、目的が分からなくては運用もできない。拿捕した海賊船も、結局有効活用はできなかったのだから。
「とりあえず、専門家を雇わないとだな。レジーナさんに紹介してもらうか」
「そうだな。万が一にも沈没させては顔向けできぬ」
「沈没なら、せぬぞ。なにしろ、水中も潜れるからな」
「それもそうか。海の中から出てきたもんな」
第八階梯の理術呪文に、船を海中でも行動できるようにする呪文があったことを思い出す。数時間は持続するが、海を移動するビジョンが思い浮かばず、憶えようとはしなかった。
ヴァイナマリネン魔術学院のメルエル学長なら、使えるかもしれないが、確認したことはない。
「でも、マストはどうなってるんだ……」
帆布というぐらいなのだから、布でできているはずだ。呪文で防水処理でも施されているのだろうか。
「マストか。心配する必要はない。協力者たちがいるからな」
「協力者?」
「うむ。そろそろ、乗船しようではないか」
いつの間にか神剣・紅蓮迅雷をしまっていたヘレノニア神が、再度飛び立った。ヴァルトルーデが真っ先に反応し、ユウトもあわててその後を追う。
何事もなく甲板に降りたった一柱と二人。
出迎えたのは、予想もしない人物たちだった。
「ジイさん……」
「おう、ちゃんとワシのパソコンとカメラは入手しただろうな!」
それどころではないと、ユウトは頭を振る。いつの間に、この大賢者が一枚かんでいたのか。
そして、それどころではないのは、彼の婚約者も同じだった。
「なんだ、彼らは? ドワーフ……ではないようだが」
なにが興味を引いたのか。
背の低い髭だらけの亜人たちに取り囲まれるヴァルトルーデ。
その光景はユウトに白雪姫を連想させたが、お姫様は世界で一番美しいがラフな格好で、妖精たちは愛想がなさすぎた。
「ドラヴァエル……?」
ユウトとアルシアが、アダマンティンや魔法銀といった希少鉱石を預けた岩漿妖精たちが――幻視でなければ――そこにいた。
相変わらず感情が読めないが、怒ってはいないようだ。
頭上には、彼らとの約束の日時である、満月が輝いていた。




