1.幻想世界の魔導官
「ここが……」
二度目となる交易――パソコンなど電子機器もあったが、食料品やアルコール類の比率が増えていた――を終えた賢哲会議の一級魔導官秦野真名は、地球人類三人目となる偉業をあっさりと達成した。
即ち、異世界への転移を。
鈍色の水盆に足を踏み入れた先は、サッカースタジアムが丸ごと入りそうな地下空間。いかなる力の作用によるものか、様々な種類の桜が一斉に咲き乱れ、視界を鮮やかに染めた。
それに目を奪われそうになった瞬間、真名は重圧を感じて振り返る。
「あっ……」
転移門の向こうに鎮座する、巨大で神秘的な存在。
話には聞いていたし、メルエル学長が赤竜へと変じたのも目撃している。しかし、間近にすると、どうしようもなく圧倒されてしまう。
全身を覆う鱗は虹色に輝いており、気味悪さや嫌悪感よりもまず畏怖を覚える。相手が、隔絶した実力を持つ捕食者であると自覚してもなお、その美しさから目を離せない。
鋭利なフォルムのドラゴン――次元竜ダァル=ルカッシュ。
『ダァル=ルカッシュの主と同じ世界からの来訪者を、ダァル=ルカッシュは歓迎する』
彼女は真名を一瞥して念話でそれだけ伝えると、興味をなくしたように首を丸めてしまった。
「ちゃんと転移に成功したな」
資材を無限貯蔵のバッグへ収納したユウトが、続けて姿を現す。
その彼が見たのは、いつもは怜悧な真名の瞳に、不安の色が宿った光景。心なしか、ポニーテールも元気がないように見える。
転移してすぐドラゴンは少し刺激が強すぎたかと、顔をしかめた。
(俺なんか、返り血にまみれたエグザイルのおっさんだったんだけど……)
だが、特殊例では言い訳にもならない。
「ダァル=ルカッシュ。前に話した俺の後輩、マナ・ハタノだ。今は難しいだろうから、あとで挨拶してやってくれ」
「あとで?」
疑問符を浮かべながら、それでもきちんと挨拶しようとするのは賢哲会議の教育ゆえか。
「地球から来た賢哲会議の一級魔導官、秦野真名です。よろしくお願いします」
なにをよろしくするのかは、言葉も通じているのか確証はない。そもそも、賢哲会議の名が知られていることもないだろう。
それでも、ダァル=ルカッシュは再度鎌首をもたげ、理知的な光の宿る瞳で彼女を見下ろし、了解の意を伝えた。
「今は、次元扉をつないだ直後だから、疲れてるみたいだ。まあ、怖がる必要はないから」
「分かりました」
この様々な分野における先輩は、非常識な能力に裏打ちされて無茶な行動を取ることもあるが、嘘はつかないし信用もできる。
素直にうなずいた真名は、改めてファルヴの城塞の地下空洞を見回した。
「それにしても、ここは本当に異世界なのですね」
「言葉は自動的に翻訳されるし、そこまで大きな違いがあるわけじゃないけどな」
だが、それはブルーワーズに慣れたユウトだからこそ。いきなりドラゴンと邂逅してしまった真名が、首肯できるはずもない。
「とりあえず、城へ行こうか」
無限貯蔵のバッグを担ぎ直したユウトが、タクシーを呼ぶぐらい当たり前のように《飛行》の呪文を発動させた。
「空を飛んだことは?」
「普通はありません」
「それはそうか」
制服を着ている彼女にスカートだけ気をつけるように注意してから、当たり前のように真名の手を取る。ユウトに特別な感情は持っていない彼女だったが、無造作でまったく意識していない行動に思わず鼻白む。
とはいえ、振り払うほどでもない。
大魔術師の誘導に身を委ねると、不意に、ふわりと体が宙に浮く。
地に足がつかないというのは、予想していた以上に不安をもたらした。理性では完全に抑えきれない、本能的な恐怖。
けれど、つないだ手の感触が、そんな心を緩和する。
「本当に、因果の反動はないのですね」
「ああ。でも、ここが別に奈落だからってわけじゃないぞ」
ただし、二人の会話はかなりビジネスライクだったが。
「なるほど。ここが異世界だと実感しました」
地球では、呪文の強さに比例して様々な反動が起こる。無貌太母コーエリレナトの出現により悪魔が棲む奈落に書き換えられた一角は別だが、それが常識だった。
だが、ここには奈落のような禍々しさはなく、それどころか強い魔力が快く身を包んでいるようにすら感じる。
ドラゴンよりも、これから見るだろう様々な光景よりも、そのことが彼女を得心させる。未熟とはいえ魔術の徒であることの証明でもあった。
ユウトは笑顔で、そんな彼女を歓迎する。
「それじゃ、改めて。とりあえず、一ヶ月よろしくな」
「こちらこそ、お世話になります、センパイ」
通算で二回目となったブルーワーズと地球との交易。
ヴァイナマリネンへかなり枠を譲ったものの、先を見越して必要な物資を入手することはできた。
それに、真名をこちらへ受け入れることになったのだ。賢哲会議も、多少の無理は喜んで聞くことだろう。
ユウト、アカネに続いて三人目の異世界転移者となった秦野真名には、いくつかの使命がある。
同じ理論で発動する理術呪文だが、二つの世界で発展は大きく異なるそれを深く学び、賢哲会議へ還元すること。
予定ではわずか一カ月の滞在となっているが、端緒でもつかみたいところだ。
他にブルーワーズにだけ存在する鉱物や生物のサンプルの入手も期待されていたし、地理や歴史に神話。とにかく、ありとあらゆる事物の収集が賢哲会議の一級魔導官秦野真名の任務だった。
その成否を握っているのは、残念ながら彼女ではなく隣を歩く同郷の大魔術師。
先輩後輩関係など言葉以上のものではない二人だが、もしかしたら師弟関係にはなるかもしれない。
「さて。城の外に出るけど、ここからは歩きだ」
「まだ、呪文の持続時間は残っているのでは?」
地下空洞から出て城塞に戻ったユウトは、真名の手を離して彼女を床に立たせる。
小さく「ありがとうございます」と言いつつも、彼女は疑問を呈さずにはいられない。屋内を移動するのであればともかく、こんな高度な呪文を使い捨てにするなど、あり得ないことだった。
「異世界だからって、人の目はあるんだからな」
「……ご配慮、ありがとうございます」
「いや、そうじゃないって」
スカートを直しながら言う彼女へ、両手を振って否定する。ただ単に、空を飛ぶのは目立つというだけだったのだ。他意はまったくない。
それなのに、言えば言うほど言い訳のようになってしまうのは、なんなのか。
「誤解でしたか。それは、申し訳ありません」
「素直に謝られるのも、なんか違うんだよな……」
理不尽を感じつつも、これ以上、こだわっても仕方がない。
大人しく、彼女を伴って城塞の外を目指す。
「ダァル=ルカッシュの主よ、後事はダァル=ルカッシュに任せておけ」
「……ありがとうよ」
その途中、虹色の髪の美女が現れた。
スレンダーという意味では真名に近いが、表情はまったく動かず、精巧な人形にも見える。
「というわけで、真名。こっちは、さっき会ったドラゴンの接触用端末だ。名前は同じ、ダァル=ルカッシュ。意識も記憶も共有してるらしい」
「……秦野真名です。しばらくご厄介になります」
微妙な表情を浮かべながらも、しっかり返答できたのはほめられてしかるべきだろう。早速、常識が破壊されそうだが、通過儀礼と思えば問題ない。
「ダァル=ルカッシュの主が認めたのなら、なにも言うことはない」
「ああ、そういえば。これ、お土産だ」
思い出したようにユウトが無限貯蔵のバッグから取り出したのは、ただの眼鏡ケース。
「プラスチックと呼ぶ、特殊素材と思われる。素晴らしい。コレクションに加える」
「そっちじゃねえから」
中身を取り出してかけてやると、ぴったりはまった。
サイズも、見た目も。
「朱音の見立て通り、すごく秘書っぽいな」
「ダァル=ルカッシュは、視力を補正する必要はないが」
「ファッションだよ」
「……了承した」
相変わらず表情は変わらないため、どう思っているのかは分からない。ただ、その足取りはほんの少しだけ軽やかに見えた。
「言いたいことがあるなら、言ったほうがいいぞ」
「いえ、招かれざる客である自覚はありますので。婚約者を何人も作れた手腕を見せつけられるとは……などとは思ってもいません」
「ほとんど言ってるよね?」
素直に話してくれたから別に良いのだが、相変わらず真名との会話は釈然としないことが多い。
ただ、それが嫌いではないユウトだった。
「とりあえず、悪いけど案内は後回しだ。人を待たせているんで、そっちに向かわしてもらう」
「なるほど。皆さんは、そちらでしたか」
今回の取引に、アカネも来なかったことを訝しんでいたのだろう。むしろ納得したと、同意した。
二人は城塞を出て、早足でファルヴの街を移動する。
地球なら、世界遺産に指定されても不思議ではない街並み。想像以上に清潔で、そして、おとぎ話の存在であるドワーフやエルフといった人間とは別の人間が闊歩する街。
真名はユウトについていくのが精一杯で、観察も考察もできない。
「ところで、私たちはどこへ向かっているのでしょうか?」
「ああ。歓迎会をやろうと思ってね」
「歓迎会なんて……」
「と、言うだろうから、直前まで秘密にした」
隣で、小柄な少女のため息が聞こえる。遠慮はしても嫌がらないということは、同意と見なしていいだろう。それに、詳細は説明できないし、会場は目の前だった。
目指す先は、東方屋。
王都でのパーティに続いて酷使することになるが、背に腹は代えられない。今度、カグラたちにはお礼をしないといけないなと反省しつつ、店の扉を開ける。
「やあ、彼女が新しい来訪者だね」
宴は、すでに始まっていた。
またしても店を借り切って、日も高いうちから大いに盛り上がっている。
異世界特有の料理でもあるのかと思いきや、卓上に並んでいるのは――和洋中とまとまりはないが――真名も見慣れた料理ばかり。
それが、理知的な声と容貌の美少年という非日常的な光景と相まって、魔導官を大いに混乱させる。
「こちら、ブルーワーズの知識神さまです」
「は……?」
その一言に、「センパイはなにを言ってるんですか? 冗談も程々にしてください。笑えない冗談ですよ」という非難を込めてユウトをにらみつけるが、現実は変わらない。
「せっかくだ。美味しいものでも食べながら、語り合おうじゃないか」
稚気をにじませた笑顔を浮かべ、少年の姿をした知識神ゼラスの分神体は、異世界から来た魔術師を歓迎する。
その対応は、神と呼ぶに相応しい威厳と魅力を兼ね備えていた。




