7.急転直下(前)
「問題なさそうだな」
思惑通りヴァイナマリネンが所有していた長方形の箱状のアイテムに、《透明化》の呪文をかけ終えたユウト。
その状態でも作動することを確認し、懐にしまう。
これで、こちらの準備は整った。
マルヴァト公を、疑う余地のない証拠を揃えたうえで排除する準備が。
「さあ、ヴァル。準備と覚悟はいいか?」
「無論だ。いついかなる時でも、戦場に立つ心構えはできている」
そう勇ましく宣言した彼女は、しかし、完全武装にはほど遠かった。
討魔神剣は腰に佩いているものの、鎧も盾もない。
訪問する場所を考えれば、剣を持ち込むだけでも非常識。“常勝”ヘレノニアから下賜されたという由来がなければ、取り上げられてもおかしくはなかった。
また、本来ならドレスでも着用すべきところだろうが、赤褐色のダブレットに革の上衣、ズボンという活動的な格好。
非公式なものであるという建前で、押し通すつもりだった。
「そうか。常在戦場か」
ついこの前、ベッドでいじけてた気がするけど……。
とは言わない。
言わないが、その感想は伝わったのだろう。隣のヴァルトルーデが、とても嫌そうな顔をする。
贔屓目も多分にあるだろうが、可愛かった。
ユウトに好きな娘をいじめて喜ぶ性質が皆無とは言えなかったが、すぐ隣で、しかもこれから決戦に挑もうという時に堪能するほどでもない。
細いがやや硬い彼女の手を包み込むように握り、素直に謝罪の意思を伝えた。
それでヴァルトルーデもあっさり機嫌を直し、王都の自宅を出発する。
「死ねばいいのに」
と、ある草原の種族の声が聞こえてきそうなやりとり。
そんな妄想はあっさりと投げ捨て、二人が向かったのはマルヴァト公爵の屋敷。
いわば、敵の本拠地だ。
「外観は普通だなぁ」
「普通じゃない屋敷とはなんだ?」
「おどろおどろしい、幽霊屋敷とか?」
「そっちのほうが、よほど慣れているぞ」
「そう言われてみたら、そうだった」
つまり、普通じゃないのはこちらのほうだった。
そんな不都合な結論を意図的に無視して、ユウトは改めてマルヴァト公の屋敷を眺めやる。
ユウトたちが王都に持っている邸宅も立派なものだが、それは個人レベルでの話。数メートルはある外壁に囲まれ、門扉の間から見える中庭や、その向こうの建物など、比べものにもならない。
いっそ、学校や神殿のような公共施設と言われたほうがしっくりくるほどだ。
とはいえ、感心はしても気押されているわけではない。
ユーディットに頼んで先触れを出していたためか、門衛に来意を告げるとスムーズに中へと通された。
その内部も、臣籍降下したとはいえ、さすが王家に連なる公爵家と言うべきか。王宮にも匹敵しようかという華やかさで、時折見かける使用人たちも礼を失することはない。
ユウトは素直に賛辞を送りそうになったが、ヴァルトルーデの表情は曇っている。
「ヴァル?」
「…………」
返ってきたのは、沈黙と渋い表情。それでもなお別種の美しさを感じるが……感嘆している場合ではない。その反応で、想定していた中では、最悪の展開だったということを悟る。
マルヴァト公爵領の状況までは分からないが、少なくとも、王都の屋敷内は悪の眷属が跋扈する巣窟になっているようだった。
「許せぬな」
「まあ、もう少しだ」
ひそひそと語り合う二人。
先導する男性の使用人も内容はともかく、この無作法に気付いているだろうがなにも言わない。
ユウトたちも、以降は沈黙を守った。
「お客様をお連れいたしました」
「どうぞ」
気さくだが、地獄から出たかのようなしゃがれた声。
分厚い扉越しでも不気味に響くその声に導かれ、聖堂騎士と大魔術師は二人、マルヴァト公の応接室へと足を踏み入れる。
部屋自体のセンスは悪くなかった。
眉をひそめるほど華美ではなく、色調も優しい。調度は選び抜いた一級品だが、豪華さと過ごしやすさのバランスがとれている。
だが、迎え入れる主人が、すべてを台無しにしていた。
「ようこそ、イスタス侯、アマクサ守護爵」
マルヴァト公が笑う。
ただそれだけで生理的な嫌悪感を憶えるなど、誰が想像しただろうか。ヴァルトルーデによって悪の相を持つ存在であると看破されているという先入観があるにしろ、異常としか思えない。
(ヨナだったら、いきなり超能力をぶっ放してたかもな)
そんな想像に頬を緩ませかけるが、なんとか顔を引き締めて、勧められた席へ腰を下ろす。
来客を迎える応接室だけあって、座り心地は悪くない。
「さて、この度の昇爵と叙爵に心からお祝いを言わせてもらいますよ」
鷹揚な態度で、心から祝福しているように見える。
だが、どうにもちぐはぐだ。
「いろいろ言うものもいるでしょうが、今回の処置は当然ですね。あなたたちの活躍は、田舎にいても聞こえてくるのですから」
「恐縮です」
鋭い眼差しでマルヴァト公を見つめているヴァルトルーデに代わり、ユウトが頭を下げる。
この空疎な会話がいつまで続くのか。
タイミングを見計らって、ユウトが《透明化》をかけた箱を密かにテーブルの上に置く。
それをアシストするかのように、ヴァルトルーデはテーブルの上に出されていた紅茶に手を付けた。
「それにしても、奇妙な偶然です」
「なんのお話でしょうか」
ぎょろりとした瞳を向けられたため、ユウトが対応する。
仕掛けが露見したわけではないらしい。
いや、そもそも関心がないのか。
その瞳は、ユウトを見ているようで、その向こうにあるなにかに焦点をあわせているかのようだ。
「お互い、頭を危険にさらして相手を釣り出そうとしている……ように見える」
「なんのことでしょう」
「もう、とぼける必要はない」
足を組み直し、友好的な口調でマルヴァト公の姿をしたものが語る。
「バルドゥル辺境伯が王城へ向かっている。知っているのだろう?」
「辺境伯であれば、王城に用事もあるでしょう」
「くくく」
笑う。
マルヴァト公の――人の姿をしたものが笑う。
「そろそろ、本音で語り合いたいものですね。これでは、私がみじめ過ぎる」
「みじめ?」
「そう。私は、嫉妬している」
落ちくぼんだ眼窩に暗い炎が宿った。
これが、初めての感情の動きだったかもしれない。
「嫉妬……」
その異様な雰囲気に、ユウトは飲まれかけた。
面と向かって言われたことはあまりないし、自分がそんなに大層な人間だとも思わない。
だが、客観的に見れば、妬みの対象になってもおかしくないだろう。
(ヴァル、朱音、アルシア姐さんと婚約している時点で、なにを言うかって感じか)
婚約者たちのおかげで冷静さを取り戻すが、相手が言っていることは、なにか違う気がした。
「気付かないとは、ますます立つ瀬がない」
「はっきりと言ったらどうだ」
代わりに、聖堂騎士が受けて立つ。
意図の見えない物言いに、苛立っているようだ。
「私は、あの御方を、そう。愛しているのです」
崇拝と陶酔と。
その他ありとあらゆる憧憬を込めて言葉を紡ぐ。
「まさかヴェルガを……?」
そこまで言われれば、気付かないわけにはいかない。
茫然とつぶやくユウトを、マルヴァト公の姿をしたそれは、憤怒の形相で見つめる。
怪物と呼ぶに相応しい表情。
しかし、今までの友好的な態度よりも、よほどしっくりきた。
「私はっ、あの御方に名を呼ばれたことも。否ッ、存在さえ認識されてはいないだろう。なにより、私が、あの御方の名を呼ぶなどおこがましい」
突然の激発。
勢いよく立ち上がり、泡を飛ばすように言葉を吐き出していく。くぼんだ瞳は血走って、狂人を思わせた。
「私は、弱い。知識も知恵も財産もありはしない」
もう、完全に取り繕うのは止めていた。いや、宮廷会議でヴァルトルーデに正体を看破されたその時から、逆にこの瞬間を待ち望んでいたのかも知れない。
「だから、私はこの国を欲した! このロートシルト王国であれば、それを手にしたものであれば、あの御方の耳目に入るだろうから」
自らの欲望を、誰かに告白するその時を。
「そのために、最も弱い鎖であるこの男の領地に潜り込み、姿を変えて一段ずつ登り、ここまで到達した」
「……今度は、俺に成り代わるつもりか。ダーク・クロウラー」
「いや、まさか」
その見当違いの指摘に、マルヴァト公の姿をしたもの――ダーク・クロウラーは、逆に冷静になった。
「私は、あの御方に愛される者になりたいのではない。愛されるようになりたいのだ」
結果だけを見れば、そこに大差はない。
だが、結果から得られる充足は、過程に左右される。
ユウトは、そこまでは気づけない。
気づいたのは、ヴァルトルーデだ。
アカネを。天草勇人の幼なじみである三木朱音をうらやんだことがあり、それでも自分自身への愛を欲した彼女には、分かってしまった。
だが、理解と共感は別だ。
「どれだけ正当化しようとも、その行為は肯定されぬぞ」
「それはそちらの価値観だ。しかし、その価値観に則って処断されるのかも知れない」
喋るうちに、また精神が高ぶってきたのか。
ダーク・クロウラーが激しく持論を展開する。
「そうなったとしても、それは私が間違っていたからではない。ただ、弱かったから。それだけだ」
あまりの勢いに、二人とも呆気にとられていた。
少なくとも、この時点で吸血侯爵やヴェルガの保護者を自認する巨人にも成し得なかった偉業を達成したことになる。
彼が愛するあの御方には、届かないとしても。
「……余計な話だったね」
急に熱情が冷めたかのように、声にも平静さが戻る。
だが、内容は落ち着いても、声自体の不快感に変わりはない。
「結局のところ、私は君たちを誘引した。あとは、バルドゥル辺境伯がチャールトンとアルサスを討てるかどうかだ。魂まで汚して、復活もできぬほどにね」
「内乱を防ぐために、マルヴァト公爵の即位を認めなくてはならないから?」
「そう。私が化物だなどと公表したら、国が割れる」
「結局、ヴェルガのものになるではないか」
吐き捨てるように言うヴァルトルーデだが、ユウトには、その結論に違和感があった。
「……くれるからといって、素直に受け取るとは限らないぞ」
「ああ、そう。それはそうだろう。戦って奪い取るのがあの御方の望みであれば、私は死力を尽くして戦うだけだ」
無償の愛。無私の愛。
そんな綺麗事を吹き飛ばす、狂愛。
「だから、ユウト・アマクサ。君は殺さない。傷つけない。あの御方が悲しむだろうから」
「さあな。ここで死んだら、その程度だと思われるかも知れない」
「まったく分かっていないのだな」
むしろ哀れむように、ダーク・クロウラーは教え諭す。
「君が死したなら、君の魂を愛で慈しむだろう。あの御方は、そういう人だ」
「分かってたまるか」
吐き捨てるように言ったのは、実際にそうなるかも知れないという予感があったからかも知れない。
「いずれ分かるときが来るだろう」
「それは困る」
机上の仕掛けも忘れ、ユウトは立ち上がった。
もう、言葉の時間は終わりだ。
「私は弱い。だから、弱者は弱者の戦いをさせてもらおう」
その言葉が合図だったかのように、応接室の扉が開く。
同時に、使用人――の姿をしたものがなだれ込んできた。
「その中の幾人かは、まだ戻れる可能性がある……と言ったら、どうするのかな?」
邪悪と言うにはあまりにも淡々と、マルヴァト公の姿をした者は告げた。




