2.聖女の憂鬱(後)
ここが伯爵と呼ばれる人物の部屋だと知ったら、誰もが驚くだろう質素な居室。
そのベッドに横たわり、ヴァルトルーデは後悔に身を委ねていた。
まぶたは開いているがアイスブルーの瞳は暗い室内を映さず、時折長い睫が震えるほかは身じろぎひとつしていない。
右腕だけは額の上に乗せ、残った腕や足は完全に弛緩した無防備な姿。ユウトから贈られた指輪からは輝きが消え、玻璃鉄のペンダントもだらりと垂れ下がっている。
泣きはらしたあとと言われたら信じてしまいそうだ。
そんな状態で、美しき聖堂騎士は、なぜ自分がここまでショックを受けているのかと考え続けていた。
気づけば終わっていた報告のあと、夕食も摂らず、夜になってもずっと。
勝手に、神王にされそうになったから?
いや、そうではない。驚きはしたが、それ以上でも以下でもない。
では、魔法銀やアダマンティンの使い道が期待と違ったから?
残念だ。残念ではあるが、それに激怒するほど幼稚ではない……はずだ。
ならば、自分一人だけ役に立っていないから?
違う。自分が領地経営には向いていないことは分かっていた。今さらだ。
そう。どれも、問題だが深刻なものではない。
なぜ落ち込んでいるのだろう?
ずっと、この出口のない堂々巡りだ。
「ヴァル、入るぞ」
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
近づいてきていることは分かっていたが、扉の外から聞こえてきた愛しい人の声に、びくんと体が反応する。
「あ……」
可憐な唇が開き、肯定とも否定ともつかない吐息が漏れた。彼女自身、彼に会いたいのか分からない。
「入るからな」
沈黙を肯定と見なしたわけではないだろうが、意を決して室内に足を踏み入れた。
貴族の部屋にしては狭すぎる室内。灯りもないその中で、婚約者はベッドに横たわり蒼い瞳だけをこちらに向けている。
気怠げで気鬱な雰囲気をまとったヴァルトルーデ。
快活で気高い普段の彼女とは違う姿。
それに、ユウトは背後から頭を殴られたような衝撃を受けていた。
自分が、こんな姿にしてしまったという罪悪感。それ以上に、常は正の美を体現するヴァルトルーデから伝わる負の魅力。
不意打ち気味にそれを食らい、ユウトは硬直する。
そのまま永遠を過ごさすに済んだのは、呆然としていたせいで手にしていた書類の束を落としてしまったから。
もう片方の手に持っていたアカネたちからの物資を落とさなかったことに安堵しつつ、書類を拾い集めてから、そっとベッドに腰を下ろした
「ヴァル」
「ん……」
返事はしたくない。
だけど、無視はできない。
そんな可愛い妥協の末に生まれた拗ねた子供のような応えに、思わず頬を緩めてしまいそうになる。
(危ない危ない)
そう。それは後で存分に堪能すべきだ。
今は、このヴァルトルーデをどうにかしなくてはならない。
だから、婚約者が横たわるベッドに腰掛けるなどという未知の事象を意識してはいけない。
「ヴァル」
ベッドの側に椅子を持ってきて、その上に荷物を置く。
そうしてから、意を決して彼女の腕――額の上に乗せている――を掴み、せめてちゃんと顔を見られるようにする。
「んっ」
だが、身じろぎと見間違えるほど小さく首を振ったヴァルトルーデは、それを拒絶した。ユウトの手を振り払うことはしないが、なにを嫌がっているのか、全力で抵抗して彼の意図を挫く。
一旦、手を離すしかない。
代わりに書類を手にして、諭すように懇願するように婚約者へと声をかける。
「説明するための書類を作ってきた。せめて起きてくれ」
「……読めぬ」
「そうだった!」
数時間かけて作った書類を盛大にばらまき、ひらひらと舞い落ちるそれを見ながら、情けなくて涙が出そうになっていた。
(どんだけ余裕を失ってたんだ、俺は)
だから、アカネはあれを渡す時にあんな哀れな表情をしていたのか。
「じゃあ、せめて飯だけでも食おう」
アカネから渡された紙袋――これ自体がわりと高級品だ――には、お手製のドーナッツが入っていた。
できたてで、まだ温かい。
そのひとつを取り出すと、無遠慮にヴァルトルーデへの口元へと突きだした。
食事を抜いた彼女など、今まで見たことはない。直接、この香しい匂いをかげば、食いつくはずだ。
「いらぬ」
けれど、その思惑は見事に外れた。
「じゃあ、俺が……」
「むっ」
「半分ずつにしようか」
あからさまなやせ我慢に、ヴァルトルーデへの愛情が高まるのを感じつつ、さくさくとしたオールドファッションタイプのそれを半分に割り、再び彼女の口元へ。
いじらしく可愛らしい唇がわずかに開き、ついばむようにドーナッツを口に入れていく。
「ユウトはずるい」
「ヴァルのためなら、なんでもやるさ」
「それがずるいというのだ」
結局、ベッドに寝っ転がったままドーナッツを半分食べきり、視線でおかわりをねだる聖堂騎士。
それに応えて、食べかけではなく新しいものを再び口元へ運んだ。
「自分で食べる」
さすがにこれ以上は良心が咎めたのだろう。
這いずるように起き上がり、それでも最大限ユウトとは距離を取りながらもうひとつ揚げ菓子を平らげた。
「ほら、口の周りが汚れてるぞ」
「誰のせいだ」
「動くなよ」
離れてしまった婚約者をベッドの上で追いかけ、離れられないように片手を取ってから、もう一方の手でハンカチを取り出して口元を拭いてやる。
ひんやりとした、彼女の手。
布越しとはいえ、唇に触れているという状況。
嫌がるように顔を背けながら、それでも拒絶はしないヴァルトルーデ。
「面倒な女だと思っているだろう」
「ヴァルなら、大歓迎だ」
「否定をしろ」
不満気に、頬を子リスのように膨らます。
もう、すべて投げ捨てて抱きしめてしまいたかったが、それはできない。理性を総動員して、元の位置に戻ると、ユウトは座ったまま頭を下げた。
「悪いことをしたとは思ってないが、ヴァルの気持ちを考えなかったのは悪かった」
そんな、中途半端な謝罪。
だが、それで、彼女はあっさりと納得してしまった。
「私は、ユウトほど役に立つ人間ではないだろう」
伯爵など名ばかりで、領地経営の詳細はユウトやその配下のクロード老人ら書記官たちに任せきりだ。
ヘレノニア神殿で多少の仕事もあるが、ただ、それだけ。
「だが、だからといって、蚊帳の外では哀しいではないか。どうせなら、私は、ユウトの側でともに歩んでいきたい」
そう。
自分は、大事にされすぎて哀しかったのだ。
なんというわがまま。自分勝手。万死に値する。
それでも、ヴァルトルーデは感情――本当の願いを無視することはできなかった。
「うん。全面的に、俺が悪かった」
今にも泣きそうで、でも。いや、だからこそ綺麗で。
幻想のように儚くて、けれど今までで一番生々しい感情を吐露していて。
なぜ、そんな彼女を傷つけるようなことをしてしまったのだろう。
得体の知れない感情が膨れあがり、行き場を探すように手をさまよわせてヴァルトルーデの繊手と絡ませた。
一瞬、びくりと身を震わせるものの、やはり拒絶はしない。
剣士の手だ。
そして、愛しい人の手だ。
そのままベッドの中で彼女へと迫り、正面からその湖のように美しい蒼い瞳を正面からのぞき込む。
「魔法銀なんかの加工を頼んだドラヴァエルたちに武器も作ってもらうよう頼んでみるよ。日本刀の製法とか伝えたら、喜んで打ってくれそうな気がする」
「ご、誤魔化されはしないぞ」
「まあ、謝罪の証だと思って」
「まったく、ユウトはずるい……」
ぷいと横を向き、口の中でなにか言っているようだが、ユウトは意図的に無視した。
絡ませあっていた指先を解き、代わりに触れるのもはばかられる珠玉のような頭を手で包み込んで、こちらを向かせる。
そのまま、二人の影が重なる――ことはない。
思いは重なっていようとも、時と場所はわきまえている。実はそれが一番現実を知らない選択なのだが、当人たちは気づいてもいなかった。
「それでは、許すしかないではないか」
「良かった……」
まるで骨が液状化してしまったかのように全身が弛緩した大魔術師は、聖堂騎士から離れてベッドにへたり込んだ。
「だが、ユウトのことだ。話はこれだけではないのだろう?」
今度は、こちらの番だ。
そう思っていたかは定かではないが、ベッドの上で四つん這いになると、自分がどんな格好をしているのか自覚もないままユウトへと迫っていく。
「信用ないな」
「信頼はしているぞ。この上なくな」
チュニックの胸元はちゃんと締まっているし、スカートも乱れてはいない。
それでも、天使よりも美しい少女が、ベッドの上でこちらへゆっくりと近づいてきている。
しかも、先ほどまでの不安げな表情を一変させ、うきうきと幸福が波紋のように全身へ広がっていくかのようにして。
それが、世界で一番愛おしい相手なのだ。
正面からまともに見ることなどできはしない。
(しっぽがあったら、ぶんぶん振られている気がする)
だから、そんな益体もないことを思いついてしまう。
そういえば、人狼の身体的特徴を得る呪文があった気がする。ダメだ。牙や爪を生やすだけだった。それ以前に、使用者しか効果のない呪文だった。
いや、そういうことではない。
落ち着こう。
水着姿だって見たことはある。野営の時は一緒に寝ていたようなものだ。呪文の練習をしていた時に、彼女が服を着て水浴びをするところを目撃してしまったこともある。
今さらベッドの上で徐々に押しやられているぐらいでなんだというのか。
「実は、ヴァルにしか……。いや、俺とヴァルにしかできない仕事がある」
「なにをやればいい」
だから、秘密をささやくように小声で話しながらも、恋人たちではなく仲間同士の打ち合わせになった。
「アルサス王子の結婚式が、近々執り行われるわけだが」
「ああ。アカネも忙しそうにしているな」
「俺たちが、その立会人になる。ってことは、完全に王子の派閥に組み込まれるわけだ」
これは、正確な表現ではない。
同時にヴァルトルーデの侯爵への昇爵と、ユウトの守護爵への叙任も行われる。そうなったら、彼らはアルサス王子の派閥を代表する勢力となるはずだ。
「婚姻の次は、戴冠だ。でも、それに反対する輩もいる」
「つまり?」
「挙式までしばらく、俺たちは王都に滞在する」
「分かった。その間に、味方を増やすのだな」
「あと、敵も減らす」
敵を味方にするのか、それとも排除するのかまでは語らなかったが、言いたいことは伝わったようだ。
至近距離で、「どうしようもないな」と言わんばかりの笑顔を浮かべる。
(ここが暗くて良かった)
この赤くなった頬を見られずに済んだから。
「なるほど。私が表に立たねばならぬのだな」
これは、能力や向き不向きの問題ではない。就いている地位の問題だ。
だが、ユウトは、ヴァルトルーデに向いていないとは思っていない。
それが彼女にも伝わったのだろう。
「私が、できる女だというところをみせてやろうではないか」
そう、やる気に満ちた声でしっかりと請け負った。
翌朝。
晴れ晴れとした表情で――その瞬間を切り取って永遠に保存しておきたいほど――現れた彼女が、嬉しそうに皆へ報告する。
「ベッドの上で仲直りしてきたぞ」
アルシアは満面の笑みを浮かべて祝福し、アカネは若干動揺しつつもヴァルトルーデの手を取り、ユウトは頭を抱える。
そのユウトの背中……は手が届かないので腰の辺りを叩いたラーシアは親指を立て、エグザイルはヨナの首根っこを掴んで猫のように運んで姿を消した。
「エグ、離して」
「駄目だ。ヨナにはまだ早い」
「そういう話じゃないから。いや、ヨナを連れてってくれるのは嬉しいんだけど……」
直接の原因はヴァルトルーデの誤解を招く表現だが、更に大本をたどると自業自得という結論になってしまう。
それが分かっていても、ついつい愚痴が出てしまった。
「間違っちゃいないけど、言い方ってもんがあるよな……」
「ん? どうかしたか?」
「よかったですね、ヴァル……」
「おお。なんだ、アルシア」
感極まって抱きついてきた幼なじみを、疑問を感じながらも、薄い胸でしっかり受け止める。
誤解だ。なにもしていない。
――などと言える雰囲気ではなかった。
そんなことを言ったら、絶対に怒られる。
「まあ、こういう順番だって分かってたしね」
「それ前にも聞いた気がするけど、どういう話になってるんだよ」
「聞きたい?」
「聞きたくない」
隣にきたアカネから目を背ける――と、ラーシアがいた。
見なかったことにした。
「おっと。そうはいかないよ?」
「楽しそうだな、ほんと」
「うん。超楽しい」
「なにもなかったって、分かってんだろ……」
「え? なんの話?」
どうやって収拾をつけよう。
ユウトは、またしても頭を抱える。
早々に撤退したエグザイルの先見性を、今ほど妬み、羨んだことはなかった。
久々に、二人のいちゃいちゃを書けて満足しました。




