1.女王再訪
その日は、何事もなく終わるはずだった。
ヴェルガからの手紙については、婚約者たちに説明をした翌日には仲間たちにも伝達済み。
エグザイルはただうなずき、ヨナは露骨に嫌そうな顔をし、ラーシアは満面の笑みを浮かべた。
「ユウトは、本気で不幸になる直前まであれこれいじられると良いよ」
そんなストレートすぎる親友の言葉にも、大魔術師はリトナのことなど引き合いに出さず、静かに微笑んだ。
まるで、「いいよ。たまには代わりに損な役に回るよ」と言わんばかり。
少なくとも、ラーシアがそう解釈するだろうことは織り込んでいるリアクション。
「勇人とラーシアは、仲が良すぎてリィヤ様がターゲットにしそうで不安だわ」
「そういうの、やめような?」
そんな心温まるやりとりを思い出しながら、ユウトは着々と仕事を片づけていく。
「このパターン、何度目だろうな」
オーバーワークはやめようと思っているんだけど……と、ユウトは執務室でため息をついた。
しかし、分かっていても、やらなくてはならない時はある。
まず、プレイメア子爵との賠償問題などを話し合うため、隣国のクロニカ神王国を訪問しなくてはならないからだ。できれば、その前にドワーフの里メインツにも寄りたい。
その時間を捻出するためには、仕事を残せない。実際にはそこまで完璧にやる必要もないのだが、それが当たり前になっているため、誰も指摘できなかった。
それに、納税の時期が近づいている他にも、新規案件がいくつもある。
ひとつは、リィヤ神の歌劇場――これが正式名称になりそうだ――のこけら落としについて。
なんに対する褒賞か表沙汰にはできないが、ファルヴの一角に美と芸術の女神が建てた施設。それは多目的ホールも併設された、千人近く収容できる歌劇場。
音響も舞台演出も、ユウトはよく分からないが、世界一と言っても過言ではないらしい。
それは結構なことだが、当然、リィヤ神の教団が黙っていない。
過去の事例に学んだのか、所有権の主張こそなかったものの、初めての上演は譲れないと連日陳情に訪れている。そしてそれは、当初ファルヴに劇場をと望んだ劇団関係者らも同様だ。
その調整は、正直めんどくさい。
領主権限でヴァルトルーデを舞台に立たせようかと、七割ほど本気で検討したほどだ。涙目で拒否されたので、残り三割の良心により回避されたが。
とりあえず、期限を決めて当事者に話し合いをさせることにしている。
期限までに決まらなければ、テルティオーネを宥め賺して、初等教育院の生徒による発表会を行う予定だ。
そして、昆虫人の後始末。
後始末もなにも、ファルヴの住人が誰一人として知ることなく始末されたのだが、問題は彼らが掘り進んだ地下トンネルにあった。
「あそこの土は、栄養いっぱいになっているはずだよ」
知識神ゼラスが去り際に落とした爆弾。
巨大な蚯蚓が堀り、神々が聖別した水によって数多の昆虫人が溶け込んだ土は、農業に適した――などという表現など過小すぎる物だった。
確認のため少量を掘り進め、その土を使って鉢植えで適当な植物を育ててみたところ――一夜にしてハナは咲き乱れ、そして枯れてしまった。
その結果には呆然としてしまったが、肥料のように農地に混ぜて使用すれば連作障害も関係なく作物が育つかもしれない。
こうして、実験と発掘の人員手配やそれに伴う雑事という仕事が増える。
その他、玻璃鉄の保存瓶などの開発を行う、イスタス伯爵家直属の研究機関の設立。次の賢哲会議との交易など進めるべき仕事はいくらでもあった。
ダァル=ルカッシュのサポートがなければ、とっくにオーバーフローしていたことだろう。
けれど、これもユウトの日常。
それに、忙しいのは彼だけではない。
アカネはヴェルミリオや東方屋にアドバイザーのような立場で関わりつつ、アルサス王子とユーディットとの結婚式の手伝いまでこなしている。
アルシアは、当然。ヴァルトルーデでさえも、神々が残した考課表の後始末に翻弄されていた。
それはイスタス伯爵領のみならず他の都市の神殿にまで及び、ヴェルガ帝国の密偵や背教者の存在もほのめかされていたらしい。
エグザイルはスアルムの出産が近づいているし、ヨナは真面目に学校に通っている。授業態度が真面目かまでは分からないが。
そして、ラーシアはリトナと遊び回るのが仕事だ。
それゆえに、二人は昼過ぎからずっと酒盛りをしていた――この執務室で。
「ダァル=ルカッシュの主よ。そろそろ、あの草原の種族たちの排除を要請する」
「確かに……」
ユウトの秘書役に収まった次元竜が、控えめに抗議する。いつも通りの、揺らぎのない瞳。だが、我慢の限界に達したようだ。
「まあ、最初に認めたのは俺だけどさ。なんで、俺の部屋で飲んでるんだよ」
「ユウトの部屋じゃないし。仕事のための場所だし」
「もっと問題だろ、一般的には」
「だってさぁ。二人で飲んで、変な気分になったら大変じゃん」
「そ、そうか……」
涙目になるラーシアを、リトナは慈母のように見つめる。
ユウトには、そんな友人へかける言葉の持ち合わせはなかった。無言で、手元の書類に目を落とす。ダァル=ルカッシュも、感情の機微は分からずとも触れてはいけないことだったらしいと、納得した。
(俺も、いろいろちゃんとしよう)
そんな何事もない一日が、当たり前に終わるはずだった。
しかし、そんな日常は、不意にダァル=ルカッシュから発せられた言葉で終わりを告げる。
「ダァル=ルカッシュの主よ、何者かが現れようとしている」
「どういうことだ?」
目は書類の文字を追いながら、秘書へ問い返す。内容の把握と会話のマルチタスク。こんな特技まで会得してしまったと嘆きつつ、頭の片隅で警鐘が鳴る。
「次元を超えて、出現しようとするものがある。対処は可能だが?」
敵対勢力として排除を進言した次元竜だったが、ユウトはそれどころではなかった。
心当たりが、ある。
「まさか、ラーシアの法律上の配偶者がやってきたとか……」
「うえっ?」
「出現を確認した。ここから、視認することが可能」
窓際へと連れていかれた彼が見たのは、予想通りの光景。
ファルヴの傍らを沿うように流れる貴婦人川。その流れの上に、見憶えのある巨船――次元航行船スペルライト号が堂々と鎮座していた。
「これはマズイ」
邪悪なる炎の精霊皇子イル・カンジュアル。
絶望の螺旋の眷族である蜘蛛の亜神イグ・ヌス=サド。
無貌太母コーエリレナト。
過去様々な超常の存在と死闘を繰り広げてきたユウト。
その彼が、本気で焦っている。
「ラーシア、早くどっかへ。いや、《瞬間移動》で――」
「ふふふん? 『法律上の配偶者』ってどういうこと?」
怒っているわけではない。
しかし、目は笑っていない笑顔で、リトナが素早くラーシアの腕をつかむ。
「ボクは、どこか遠くへ行くんだ!」
必死の懇願。同時に、全身全霊の力を込めて抵抗するが、赤毛の草原の種族は決して放さない。
分神体であるリトナとラーシアの実力は、ほぼ互角。けれど、常に実力を発揮できるわけではない。今は、タイロン――リトナの迫力が、ラーシアの必死さに勝っていた。
「手遅れか……」
「諦めないで!」
後先考えずに強硬手段を取ることはできるが、エリザーベトが来た以上、いつまでも隠し通せるものでもない。
「ゆうっち、その『法律上の配偶者』に会わせてくれるよね?」
その変な呼び名を訂正することもできず、ユウトはうなずくことしかできなかった。
「ああっ! ラーシアさまっ!」
すでにスペルライト号から降りて待ち受けていたらしいエリザーベト女王は、ラーシアの姿を見つけると100メートルはあろうかという距離をものともせず、いきなり走り出した。
ドレスの裾がはためき、髪も揺れる。
とても一国の女王がとるべき行動ではないが、愛する人と離ればなれになっていたのだ。これくらい、許されてしかるべきだろう。
そうだ。少数だが連れてきている随行員もなにも言わないではないか。これで正しいのだ。
それに、今の彼女は、女王ではない。
あの人の前では、ただの女に過ぎない。この土地では、それが許される。
「ストーップ、ストーーップ」
それなのに、愛する人は両手を振り乱して、制止しようとする。
つれない。
悲しくなってしまう。
「ラーシアさま、意地悪な御方」
けれど、それもちょっとしたスパイスだ。もちろん、本気で嫌がっているわけではないと、エリザーベトは分かっている。
だから、そのまま力強く抱きしめようとし――
「アタシのラーシアくんと、どんな関係なのー?」
その寸前で、割って入るものがいた。
リトナの語尾は伸び、やや冗談めかしているが、先ほどから目は笑っていない。
「もちろん、愛し合う夫婦ですが」
恋する乙女の感覚に引っかかるものがあったのか。エリザーベトも、瞳に剣呑な色が宿り、声にも棘がある。「夫婦」と強調したところにだけは、甘えるような声音だったが。
「なんで? どういうことなの?」
そして、周章狼狽するラーシア。
そんな三人から少し離れたところに、ユウトとヴァルトルーデがいた。
「なあユウト。タイロン神は、本気でラーシアのことを?」
「さあ?」
お気に入りのおもちゃが、実は他人の物だった。
それが気にくわないだけかのように思えるが、ユウトの恋愛関係の観察眼は、魔術の冴えに比べて信用がおけるものではない。それは、ヴァルトルーデも同じなのだが。
加えて、神々や分神体の恋愛観など分かるはずもなかった。
「ええと、もう一度説明しますよ?」
しかし、放ってはおけない。
イスタス伯爵家の家宰は威厳と余裕が感じられるようゆっくりと歩き、きらきらとした瞳を向けるラーシアを背中に匿って、二人と対峙する。
「こちらは、エリザーベト女王。ラーシアが『忘却の大地』へ冒険に出たときに知り合って、即位を助けたことがあります。それで、まあ、うちと交易をしていまして、その滞在中は妻と夫の関係に――なるという、法的な裏付けがちゃんとあります」
言葉を選びすぎただろうか?
タイロン神の分神体であるリトナが、腕を組み渋い顔をした。かと思うと、値踏みするかのようにエリザーベト女王の肢体を上から下まで観察する。舐めまわすように、遠慮なく。
「はっ」
そして笑った。鼻で笑った。
当たり前の話だが、エリザーベト女王は容姿も体つきも、文句のつけどころがないほど美しい。
ただし、人間の基準で。
草原の種族の美的感覚からすると――以前、ラーシアが言っていた通り――体が大きく、手足も長すぎた。
「そんなもの。愛があれば関係ありませんわよね?」
「え? ええ?」
いきなり話を振られて、露骨にうろたえるラーシア。
(俺をいじる時は余裕綽々なのに、攻められると弱いとか……)
その様子を見て、ユウトは泥沼を覚悟した。
「そして、こっちのリトナさんはラーシアの……なんだ?」
友人? 母?
改めて考えてみると、どれもしっくりこない。
「姉みたいな感じ?」
「そ、そんなところかな」
ラーシアも同意したので、とりあえずこれで押し通そう。
そう方針が決まったにもかかわらず、エリザーベトもまた、目だけ笑っていない。
同じ女性であるヴァルトルーデはと見れば、先ほどよりも遠ざかり、手を横に振って「無理だ。手に負えない」と視線で伝えてくる。
常勝を誇る彼女でさえも、介入したくない争いがあるようだった。
「ラーシア様の姉君ですか。初めてお目もじいたします。妻……つまり、義妹のエリザーベトですわ」
「姉か。まあ、アタシは今のところそれでいいかな。義妹を持ったつもりはないけどね」
一触即発。空気が緊張に震える……錯覚。
それを切り裂いたのは、ジェット噴射を巧みに操って頭上から降りてきた全身鎧のような男。
「陛下、あとの交渉はこちらでまとめます」
「バトラス……?」
「は。バトラスですが」
何度も文明の崩壊を繰り返している忘却の大地。
旧文明に存在したという工場長なる人物に創造された、機甲人。動く全身鎧といった人工生命が、争う二人に割って入る。
「あなたは国元に残したはずですが……?」
「ハハハハハ。護衛が護衛対象と離れてなんとしますか」
「いったい、どこに隠れていたのです?」
「陛下。この世には、知らないほうが良いことがたくさんございますぞ?」
「勝手に隠し扉を作るのは禁止したはずですよーー」
相変わらずの主従だった。
だが、この空気の読めなさで、もつれた糸を断つかのように、事態を収拾してくれるかもしれない。
「まあ、良いではないですか。それはともかく、私は当然のように陛下の味方ですぞ」
どうにかなるのだろうか?
「アマクサ様との交渉は我らにお任せを。内々のことは三人で、じっくりとお話を」
どうにかなるはずもなかった。
「ちょっ。三人って」
身の危険を感じ、ラーシアはユウトのローブを掴む。
否、掴もうとした。
寸前で両手を二人に捕縛され、それは叶わない。
「それじゃ、家族の話し合いってことでね」
「そうですね。そういたしましょう」
「ちなみに、ボクに拒否け――」
「ないね」
「ありません」
城塞にあるラーシアの部屋か、それともいくつか用意してあるという隠れ家か。
どこへ行くのか分からないが、二人に連行されるラーシア。
「ええと、あの……。お手柔らかに」
ユウトにできたのは、せめて優しくしてほしいという懇願まで。
返事はせず、とても良い笑顔を向けてきたエリザーベトとリトナの心に届いただろうか?
そして、翌朝。
ラーシアに会うことはできなかったが、晴れ晴れとした表情でエリザーベトとリトナが連れ立って姿を現した。なぜか意気投合したらしい二人の様子から、最悪の事態は避けられたのだと、信じるほかなかった。
本日の活動報告に、書籍版の詳細なお知らせを掲載いたしました。
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