9.数の力
「なかなか壮観だな」
魔法銀の鎧に身を固めた聖堂騎士が、不敵な笑みを浮かべて地平線を埋め尽くす昆虫人の群れを眺めやった。
黒い霧や霞のようにも、無数の集団がひとつの生物になっているようにも見える大軍。
地震そのものの地響きと――鬨の声なのか命令が飛び交っているのか――虫の鳴き声が、嫌でも耳に入ってくる。
地上に降り立って益々強調される、圧倒的としか言いようのない重圧。
数はそれだけで力であるということを、証明しようとしていた。
それに飲まれようとする彼女が、討魔神剣を抜き放った。そのまま、極めて自然体に一歩踏み出す。
急ぐ必要はない。なにしろ、黙っていても、向こうから近づいてきてくれるのだから。
「ギギィギギィギィ」
「悪いが、なにを言っているのか分からん」
先陣を切っていたのは、一体の巨大蟷螂。
その鮮やかな緑色の体躯は、ヴァルトルーデの数倍。左右の鎌だけで、彼女の身長を超えているだろう。
巨大になったことで、鎌に生える棘も、丸い目の中の複眼も、顎も、触角も。すべてが明瞭になり強調され、生理的な嫌悪感を覚えてしまう。
逆三角形の頭部など、いったい誰がデザインしたというのか。
けれど、ヴァルトルーデは、そのような感情とは無縁だった。恐怖という意味では、蜘蛛の亜神イグ・ヌス=ザドを超えるものがあるだろうか。
巨大蟷螂は翅を開いて一直線に飛んで、一息で距離を詰める。
一方、美しき聖堂騎士は、ただ静かに、討魔神剣を構えてそれを待つ。
飛び込み様に、巨大蟷螂が左右の鎌を同時に振り下ろした。
だが、地下世界では有機物も無機物も、あらゆるものを切り裂いてきた刃は、彼女の籠手と一体化した魔法銀の盾であっさりと止められてしまった。
そして、圧倒的な体躯から生じる力の差があるはずなのに、押しやることも押しつぶすこともできはしない。
「ふむ。この程度か」
力の差を読み取れなかったわけではない。ただ、確認は必要だった。
異形を前にして、否、戦場にあってなおも美しさを増す聖堂騎士は両足に力を込め、盾で受けたままの鎌をぐっと押しやった。
「ギィギギィギ」
体躯に比べて細長い四本の足を使って踏み止まろうとするが、それは無駄な努力に終わる。鎌を押し込んであっさりと距離を詰めると、そのまま討魔神剣を横に振るってその足をなぎ払った。
体液が飛び散るが、まるで美しさに恐れをなしたかのように、ヴァルトルーデには飛沫の一滴もかからない。巨躯が傾いだところに、今度は神剣を振り下ろして頭を真っ二つに切り裂いた。
「まあ、この数だ。あまり強すぎては対処しきれんからな」
そのほうが都合が良いという程度の問題でしかなかったが。なにしろ、これは決闘ではない。あらゆる手段が正当化される戦争だ。
「では、征くぞ」
あわてる必要は、どこにもない。散歩でもするかのように悠然と、虫の群れへと押し入っていく。
先程の巨大蟷螂の同族か。
数体の巨大蟷螂が迫ってくるが、討魔神剣で鎌を断ち切り、あるいは鎧に任せて防御もせずに細い――その巨躯にしてはだが――胴体を両断し、流れ作業のように下していく。
戦闘ではなく、いっそ駆除と呼びたくなるような作業。
それでもヴァルトルーデの美しさが損なわれないのは、生理的嫌悪感を催す虫たちのただ中にいるからというよりも、迷いのない果断な太刀筋ゆえかもしれない。
あまり飛行は得意ではないのだろう。その移動は短距離に留まるが、次々と巨大蟷螂が殺到しては、斬り伏せられていく。
通常、戦い――戦争は、数がものを言う。
昆虫人の軍団は、おそらく、この世界のどの軍隊、騎士団とぶつかっても、最終的に勝利を得るだろう。対抗できるのは、圧倒的な兵力を誇るヴェルガ帝国ぐらいのもの。
数の暴力の前には、戦術など無意味化する。
けれど、何事にも例外は存在した。
例えばそこに、雲霞の如き敵軍にも引かず、屈せず、逆に個が群を圧倒するような英雄がいたならば話は変わってくるだろう。
否、そんな都合のいい存在が、いるはずもない。
だから、人は組織を運営するのだ。
けれど、何事にも例外は存在する。
そして、上空にいるユウトはその目撃者だった。
「ヴァルはすげえし、相変わらず、エグザイルのおっさんの戦闘は身も蓋もねえなぁ……」
ヴァルトルーデとは違い、群れの中央へと降り立ったエグザイル。主力である、無数の蟻人間が集う場。
その黒い霧に飲まれることなく、川の流れを分断する岩のように、その場へ屹立し――ヴァルトルーデ以上の殺戮劇を披露していた。
「ヌンッ」
短く呼気を吐き出し、スパイク・フレイルを一閃。遠心力の乗った一撃が周囲の蟻人間を一掃し、死骸の山が築かれる。
スパイク・フレイルが届く、約半径10メートルの圏内。
その空間にひしめいていた百に届こうかという蟻人間が、すでに物言わぬ骸となっていた。
それを乗り越え、あるいは突き破り。またスパイク・フレイルを振るう。
これだけ囲まれているのだ。狙いをつける必要もない。また、この死の暴風を乗り越えて攻撃を加えることなどできはしまい。仮に刃が届いたとして、この岩巨人にとってどれほどの痛痒となるだろうか。
それでも、蟻人間に怯えは見られない。
巣を破壊した外敵だ。戦わねば、こちらが死ぬだけ。個体の死を全体の生につなげるため、ただただ上位種に従い進軍し、岩巨人へと迫りくる。
同時に、彼らも無策ではなかった。
近づけぬのであればと、蟻酸を射出し遠距離からしとめようとする。
「そこかっ」
ただ惜しむらくは、その準備動作はエグザイルにとって隙でしかなかったこと。魔術師が呪文を唱える時と同じように、先んじてスパイク・フレイルで叩きのめす。
数の差を埋める、理不尽な例外。どんな作戦をも崩壊に導くイレギュラーがそこにいた。
「ギチギチギィギチギチ」
そこに、一際大きく、丸太のように太い足と腕を備えた蟻人間が現れる。
エグザイルは知る由もないが、蟻人間貴族種と呼ばれる上位種だ。その中でも戦闘に特化した個体であるそれは、二本の足でしっかりと大地を踏みしめ、残る四本の腕で二本の槍と二枚の盾を装備し虐殺者の前に姿を現した。
手出し無用とでも言っているのか。その蟻人間が槍を地面に突き刺すと、周囲の蟻人間労働種たちがさっと引いていく。
「少しは、やるようだな」
力量を感じ取ったのか、スパイク・フレイルを構え直し、自律防御の大盾を体の前面に移動させる。
そのタイミングで、蟻人間貴族種が疾った。
蟻人間労働種とは比べ物にならない爆発的な加速で槍を振りおろし、まず、大盾を排除。来るであろう迎撃は二枚の盾で食い止め、残る槍であの虐殺者をしとめる。
理想的なプランだ。
実現すれば――だが。
「ぬんっ」
現実は、非情だ。
実現したのは、蟻人間貴族種が走ったところまで。
それにタイミングをあわせてスパイク・フレイルを、その足元へと振るう。10メートル離れた足払い。予想外の攻撃に太い脚をすくわれて、盛大に転倒する。
仮に足への攻撃であればまだ対処のしようがあったかもしれないが、威力を度外視した速く鋭い一撃に、反応することもできなかった。
「悪く思うなよ」
スパイク・フレイルを頭上へ振り上げ、地に伏す蟻人間貴族種へと振り下ろす。
なりふり構わぬ攻撃こそ、実力を認めた証。
そう告げられて、慰めになったかどうか。
蟻人間貴族種に、それを語る機会は永遠に失われた。
「《エナジーバースト》」
「炎熱障壁」
「《聖火炎爆》」
超能力、理術呪文、神術呪文。
異なる三つの源から放たれる炎が、昆虫人の軍団を焼く。飛行戦力を根こそぎ地面へ叩きつけられた彼らに、空中からの爆撃に抗する術はない。
直接的な戦闘能力に欠ける――やってやれないことはないが――三人は、上空からの攻撃に徹していた。
「らくちんらくちん」
ユウトの肩に乗ったままのヨナは、好きな人たちとの共同作業で、とても嬉しそうだ。
まあ、哀しそうだったらこんなことをさせたりしないし、作業のようにこなされても困るが、だからといってこれはどうなのか。
アルビノの少女から、楽しげな感情が伝わってくるのだろう。アルシアも口の端に苦い微笑を浮かべている。
(ヨナのことは後回しにするとして、このまま押し切れるか?)
戦況を見る限り、今は圧倒的に優勢。ヴァルトルーデもエグザイルも、一騎当千を地で行く凄まじさだ。
「《狙撃手の宴》」
ラーシアも、影から影へ移動しながら、指揮官らしい蜂人間や蠍人間を中心に弓で正確に射抜いている。
その的確な選択は、敵を大いに混乱させているのだが――
「あはは、ははっ」
よほどストレスが溜まっていたのだろう。
急所を貫いて殺害する度に、心の底から愉快だと笑っていた。
今もまた、巨大な蜘蛛に乗った蜂人間の頭を射抜き、遅蒔きながらも放たれた蜘蛛の糸をするりと避けながら、次の獲物に照準を合わせる。
子供には聞かせられないような笑い声をあげて。
昆虫人たちは完全にとばっちりだが、罪がないわけではない。諦めてもらおう。それに、ラーシアも冷静に敵の中核を狙っている。冷静さを欠いているわけではない……はずだ。
しかし、このままではジリジリと追い込まれるのはこちらのほうになるかもしれない。
ヨナは先ほど昆虫人の要塞を半壊させた《サイクロニック・ブラスト》で精神力を消耗し、普通の威力の攻撃しか放てない。ユウトも強力な呪文は準備がなく、神術呪文には元々強力な攻撃手段がない。害虫を殺す呪文はあるのだが、さすがに昆虫人には通用しなかった。
あの蟻塚、昆虫人の要塞から湧き出る虫の数はやや減じているように見えるが、それは誤差の範囲内だろう。
今のところは質で量を圧倒できているが、最後まで続けられるかは分からない。いや、続けられるかもしれないが、必ずしもそうしなくてはならないわけではない。
「アルシア姐さん、ヨナ。俺はちょっと外れるよ」
「分かりました」
「なにするの?」
「ちょっと、虫たちを地割れに突き落とせないかなってな」
そう説明しながら、ヨナを肩から下ろしてアルシアへと預ける。不満そうな表情だったが、さすがにあのままでは精神集中に支障をきたす。
懐から取り出した秘宝具、地の宝珠。
東方の島国リ・クトゥアの王権を示す、天・地・人の宝珠のひとつ。
ジンガから、カグラから託されたもの。
「土の宝珠よ、その威を示せ」
以前、土壌を改造したときと同じく、思念に指向性を持たせて命令を伝える。
あの群を飲み込む地割れを創造せよ。
その意思に応え、地の宝珠が光を放つ。それは一気に溢れ、簡単にユウトを飲み込んでしまった。
(なんでこんな時に!?)
今までとは異なる反応に驚いたユウトが、必死に宝珠へと命令の停止を伝える。しかし、力の暴走は続き、光は増すばかり。
ついに視界は光で塗りつぶされ、なにも見えなくなってしまった。
それから、数分。
あるいは、数時間か。
時間の感覚を失ったユウトは、その場でよろけ、思わず目を開いた。
「なんで失敗したんだ……って、どうして地面が?」
そこは、どこまでも続く白い空間だった。
別の場所に転移した。あるいは、させられたのか。アルシアたちはおろか、あれだけいた昆虫人たちの姿もない。
「よう、俺の後継者候補」
唐突に、白だけだった空間に声が響く。
反射的に振り向くと、そこには畳敷きの部屋が出現していた。その主は、脇息にもたれかかり、親しげな微笑を浮かべている。
「まさか……」
額から角を生やし、喉元を黄金の鱗が覆うその男。
「その通り、俺はかつて竜帝と呼ばれていた男だ」
出来のいい子供を誉めるかのように、竜帝――リ・クトゥアを統一した男は、人好きのする笑みを浮かべた。