8.殲滅戦の始まり
黒妖の城郭の跡地。世界を無に帰さんとした〝虚無の帳〟の邪悪なる意志のなれの果て。
陽は沈みかけ、オレンジ色の夕焼けが世界を支配する。昼夜の端境。逢魔時。
そこに現れた、あまりにも異質な存在。どんな材質でできているのか。どんな素材であれば、ここまで巨大な質量を保持できるのか。
見る者をただただ圧倒する、巨大な塔。
それはまるで天に挑み、神と並び立とうとするかのような建造物だった。
基部は、黒妖の城郭が存在していた窪地を完全に埋め立ててしまうほど太い。そこから、いくつもの塔がそびえ立ち、寄り合わさってひとつの塔を構成している。
また、まるで蜂の巣のような六角形の穴がいくつも空いており、そこから出入り――即ち侵略を行うようだ。
まさに、昆虫人の要塞。
「いつの間に、こんなもんを建てられたのやら」
《瞬間移動》で、その昆虫人の要塞を見渡せる麓に降り立ったユウト。そのつぶやきには、忌々しげというよりは、感心のトーンが強い。
「相手が何者かはよく分からぬが、ファルヴを狙ったのだ。相応の報いは受けてもらおう」
「おそらく、ゴドラン――あの黄金竜の子が撃退したのは、彼らの先遣隊といったところだったのでしょうね」
知識神ゼラスから昆虫人について簡単な講義を受けていたユウト、ヴァルトルーデ、アルシアの三人。しかし、彼らの要塞を前にしても、一欠片の恐怖も感じられない。
ただ、安全と安寧を脅かす外敵でしかなかった。
厳密に言えば、ここは王家の直轄地でありイスタス伯爵領内ではない。また、人はおらず見捨てられた地だ。
だからといって、こんな勝手が許されるはずがない。許すはずがない。
このまま放置すれば、自らの領内は当然。近隣の領地や他国へと侵略が行われることだろう。昆虫人に、地上の人間が引いた境界など考慮する道理はない。
「ゴドランの仇なら、やるしかない」
「くくくく。今宵のボクは血に飢えているよ」
「ゴドランは死んでいないし、夜でもないぞ」
珍しく制止側に回ったように見えるエグザイルだが、両手にはしっかりと錨のようなスパイク・フレイルを構え、いつもの龍鱗の鎧は間に合わなかったが、自律防御の魔化が施された大盾を浮かべている。
誰も彼もが、やる気に満ちていた。
「飛行」
自力では飛ぶことができない、ヴァルトルーデとヨナ以外の仲間たちに飛行の呪文をかけながら、しかし、ユウトだけは表情に精彩を欠いていた。
「悪いけど、今日の俺はあんまり役に立たないと思ってくれ」
続けて補助呪文を付与しながら、そんなことを言い出す。
「なにそれ? こんな雑用は独りもんがやれよってこと?」
「ラーシアとヨナだけじゃ厳しいだろ」
「えー。でも、ヨナ、頑張ろうか?」
「ラーシア、がんばって」
「ちょっと、ヨナがはしごを外してくるんだけど!?」
和気藹々を通り越して、傍目には緊張感がないとしか見えないやりとり。けれど、ヘレノニアの聖女も死と魔術の女神の愛娘もあきれた表情は浮かべても注意まではしない。
そんな必要はない。
まだ、相手が打って出てきているわけでもないのだ。なにを緊張する必要があろうか。
「まあ、俺たちはラーシアの相手が分神体でも応援することには変わらないから」
「ねえ? ボクもう、帰っていい?」
珍しく草原の種族が拗ね始めたので、きちんと説明するために口を開く。
「今日は、神さまをお迎えするために呪文を準備してたからさ。戦闘で役立つ呪文のストックがあまりない」
今使用した《飛行》や《瞬間移動》などはまだ余裕があるが、まさか神々を相手に使用するはずもないのだから、《星赤落雨》や《差分爆裂》などのような破壊をもたらす呪文が必要になるとは思わなかった。
今使用しているいくつかの補助呪文も、余裕があったから準備していたという程度でしかない。
「そういうことか。まあ、無い物ねだりをしても仕方あるまい」
「体調が悪いわけではないのですね?」
「それは、もちろん。体調という意味なら、飲みまくってたおっさんや寝起きのヨナの方が……」
ユウトは、心配する婚約者二人に笑顔を向ける。
一方、その彼から俎上に載せられたアルビノの少女と岩巨人の戦士は、けろりとしていた。
「殺る気、まんまん」
「ああ。なんの問題もないぞ」
「……頼りにしてるよ」
それを合図に、ユウトたちは空へ身を躍らせる。
目指すは、昆虫人の要塞。
目的は、殲滅。
「それにしても、やっぱでかいね」
空中で弓を構えながら飛ぶラーシアが、昆虫人の要塞をまじまじと眺め、今さらではあるがもっともな感想を口にした。
「高さだけで、黒妖の城郭の数倍はあるな」
「その中に、神々が言う昆虫人という連中がどれだけ詰まっているのかという話か」
パーティの前衛を務める聖堂騎士と岩巨人が、ラーシアの感想に追随する。この二人にとっても、さすがに手に余る数だろう。
「普通、自分たちだけで殲滅とか考えないもんなんだからな」
非常識というよりは、そう考えること自体がおかしいのだが、これも今さらか。ユウトは苦笑しつつ、無限貯蔵のバッグから取り出した地の宝珠を、掌の上で、もてあそぶ。
使わずに済めばそれに越したことないが、少しぐらいは手助けができるかも知れない。
「じゃあ、やる」
短い宣言とともに、ヨナが足を止める。戦闘用のポンチョにも似たマントをはためかせ、精神を集中。狙うは当然、あの蟻塚だ。
彼我の距離は、すでに500メートルほどになっている。ここまで近づいても、まだ昆虫人の要塞から反応はない。地上に姿を現した直後で、態勢が整っていないのかも知れなかった。
もちろん、幸いにして完全武装のヴァルトルーデさえも、この状態での奇襲を卑怯とは思わない。
「ヨナ、任せたぜ」
状況は、最大限に利用させてもらう。
「むしろ、終わらせる」
アルビノの少女は、その小さな体が炸裂しそうなほど精神エネルギーを集積した。百戦錬磨、お互いに戦いぶりを理解しているユウトたちでも、その凄まじさに驚きを感じるほど。
それを指先の一点に集め、解放。
力の渦が大気を撹拌し、徐々に大渦へと形態を変える。
「《サイクロニック・ブラスト》――エンハンサー」
ヨナは、そのコントロールを手放した。もう、制御する必要などない。
自由落下する純粋なエネルギーの大渦は、徐々に成長しながら大気を大地を巻き込んで、昆虫人の要塞へと一直線に落ちていく。
遮るもの、否、遮ることができるものなどあるはずがない。
世界を揺るがす台風が、天へ伸びる塔と激突した。
飛行状態のユウトたちが水流に翻弄される木の葉のように揺れ、固体化したかのような大気が聴覚を全身を痛めつける。
数百メートル離れて、これだ。
激突地点では、大気がプラズマ化して雷光が荒れ狂い、エネルギーの渦が蟻塚のような要塞を根こそぎ破壊しようとする。大エネルギーと大質量のせめぎあい。
この世の始まり、あるいは終わりのような光景が広がる。
「だいぶ残った。頑丈」
「いや、かなり凄まじいぞ……」
長いようで短い暴風がかき消えると、ユウトたちの眼前に半壊した昆虫人の要塞の姿が飛び込んできた。根本に当たる部分は大きくえぐれ、こちらから見える範囲では傷ついていない場所はないように見える。
ヨナは完全破壊を狙っていたようだが、それは高望みがすぎるというもの。あれだけ巨大な建造物をここまで破壊できるなど、とても人間業とは思えない。
「疲れたから、もう一発は無理」
そう言って、ユウトの肩へ腰を下ろす。いつも通りの肩車だが、疲労があるのは本当なのだろう。大魔術師の頭に体重を預け、だらりと全身の力を抜いていた。
「ほう。出てきたぞ」
「いやぁ、虫だねぇ」
最初に知覚したのは、昆虫人の要塞から飛び出た黒い煙のようなもの。
それから、蚊や蜂のような虫が翅を動かす際に発する、不快な音。それが、群れとなって耳元で飛び回られているかのようだ。
音源は、要塞から飛び出てきた蜂人間や蟻人間飛行種といった昆虫人の編隊。
ヨナの《サイクロニック・ブラスト》で被害を受けているはずだが、それでも、無数という意味がよく分かる大部隊。
残念ながら、昆虫人たちに長距離の通信を行うような技術は存在しない。遠距離の意思疎通には、専ら、蜂人間の伝令が用いられている。
だから、ファルヴを襲った部隊から異変の連絡はなく、昆虫人は先制攻撃を許してしまった。
もっとも、気づいていたとして、全力で放った《サイクロニック・ブラスト》を止める手だてなどありはしないだろうが。
「空が三分に虫が七分って、感じ?」
「そうだな」
地球で見た映像作品を思い出しながら、草原の種族と岩巨人が笑顔をかわす。あの敵は、自らの担当ではないと分かっているのだ。
「アルシア姐さん、あいつらの動きをちょっとで良いから止められる? できれば、ひとかたまりにして」
「やるわ」
真紅の眼帯では全貌は掴めないが、途方もない数の虫たちが迫っているのは分かる。そして、同じ黒髪の婚約者に手立てがあることも。
なら、応えるだけだ。
「なんだかんだ言っても、ユウトはやるよね」
「派手な呪文は、本当にこれだけだぜ?」
空中でかわされるそんな声を聞きながら、アルシアは精神を鎮め、研ぎ澄ます。
「死と魔術の女神よ、黒き貴婦人よ、知識神の神妃よ。我は請い願う、外敵を打ち払った安寧を。我は求め訴える、御身の威光を無知蒙昧なる地下の者どもにも知らしめんことを―― 《奇跡》」
分神体と接し、それから昆虫人について語られたことで、アルシアの意思はより強固で明瞭なものとなる。
地上に分神体を送り、事態を十全に把握したトラス=シンク神も、その第九階梯の神術呪文に応えた。
巣を守ろうと出撃した昆虫人の飛行部隊を、闇色の網が取り囲む。
地下生活により暗所にも適応した昆虫人も、実体のある闇には抗しきれない。網に衝突し、捕らわれ、その網が一気に絞りあげられる。
内部で昆虫人たちが衝突し、方向感覚さえ失っていることだろう。耳を澄ます必要もなく、ギィギィと不快に顎を鳴らす音が聞こえてくる。
その闇色の網はそれで消えてしまったが、無数の飛行する昆虫人たちが球状に固まった。
(アルシア姐さん、最高だ!)
心の中で、快哉を叫ぶ。
好機を逃せないと呪文の発動を優先させたが、その気持ちは感情感知の指輪を通して伝わっている。
「《反重力》」
かつて、海賊船を浮かせることで降伏に追い込み、無貌太母コーエリレナトを持ち上げるには至らなかった理術呪文。地に海にあるものを空へ送るのであれば、天にあるものを反転させイカロスの如く地へ叩きつけるが道理。
まるで、自らの意思でそうしているかのように、見えざる力に押されて蜂人間が蟻人間飛行種が大地へと落下していく。
一瞬で死骸が積み上がり、体液が地面を濡らす。
戦闘とは呼べないだろう。駆除だ。
だがしかし、まだ終わりではない。
半壊した基部から、残骸や瓦礫を掘り出したのか、蟻人間が蠍人間が巨大蟷螂が、続々と姿を現した。まだすべてではないが、それでも飛行部隊の数倍はいるようだ。
「空と違って、陸は埋め尽くされそうだね」
「それは、最初からそのつもりだぞ。ただし、やつらの死骸で、だがな」
頼もしすぎる最愛の人の宣言に、思わずユウトは近づいて頭を撫でる。絹糸など触ったことはないが、彼女の髪は、それよりも遙かに上の手触りだろう。
「とりあえず、俺とヨナは上からちくちく攻撃する」
「ああ、充分だ。私が、私たちが、いるのだからな」
ユウトの耳元でささやくその声は、どんなに深刻な心配も吹き飛ばす、天上の調べそのものだった。