7.地下からの進撃
ファルヴの街は、《悪相排斥の防壁》という神術呪文の効果で覆われている。
半球状の境界は、完全にではないものの、悪の相を持つ生物の侵入を妨げる効果を持つ。
では、悪の相とはなにか。
それは、生物の魂に刻まれた不変の性質。他者を殺し、奪い、壊し、犯し、支配することに躊躇を憶えず、むしろ当然だと振る舞う者。悪徳を是とし、力を至高とし、他者を踏み躙る者。
このブルーワーズでは、生まれもっての悪。つまり、悪の相を魂にもつ種族がいくつも存在する。
コボルド、ゴブリン、ホブゴブリン、オーガ、トロルといった悪の相を持つ亜人種族たち。エルフの対存在でもあるダークエルフは、悪の相を持つ亜人種族たちの中でも最も狡猾で恐れられている。
さらに、吸血鬼のような後天的な不死の怪物もそうだ。
また、普通の人間が目にすることは一度あるかないかだが――そして、その一度が最後になる――奈落に棲まう悪魔たちも悪の相を持つ生物の最たる者であった。
しかし、善良な人間に害を与えるからといって悪の相を持つと判断するかというと、必ずしもイコールではない。
エグザイルの故郷に甚大な被害をもたらしたロックワーム。ユウトが初めて生き物を殺すことになった森に棲まう狼。赤竜のように悪の相は持たないが、残虐にして貪欲なために他者を害すことも厭わない一部のドラゴン。
このように枚挙に暇がないが、悪の相は持たぬが害意のある生物は数多く存在する。
人里に現れること自体が稀ではあるが、このような相手は《悪相排斥の防壁》では防ぐことができない。
そして、黒妖の城郭の跡地。その地下を蠢く昆虫人たちも同じだ。
彼らもまた、人を、同族以外の生命を餌か苗床としか考えず、食らい、殺し、奪い、犯すだけの存在である。
だが、その相は悪ではない。
ただ異質で、コミュニケーションは取れず、共存は不可能というだけ。
そこに善悪は関係ない。ただ、どちらの種が生き残るか生存競争をしなくてはならないのだ。
単純で疑問の差し挟む余地もない――戦争。
「コレヨリ 作戦ヲ決行スル」
地下奥、底深く。
そこは、人にあらざる者の領域。
指揮官である蜂人間の一人が、居並ぶ昆虫人たちを前に宣言する。
最前まで黒妖の城郭跡からファルヴまでの地下を掘り進んでいた工作部隊だったそれは、ファルヴ――その名は知らないが――への侵攻を行う昆虫人の大部隊へと姿を変えた。
食欲に、繁殖欲に、昆虫人たちが顎を打ち鳴らし、翅を擦り合わせる。
静かな狂奔。
冷たい情熱。
本能の赴くままに、彼らは食らい、殺し、奪い、犯す。
「征クゾ」
先頭には、蜂人間の一団。地上世界には存在し得ない、巨大な蚯蚓や蛞蝓に針を突き刺し、その動きを自由自在にコントロールする。
この地下道を通過させる大工事でも、中核的な役割を果たした。
ギチギチギチギチギチ。
蜂人間の檄に続くのは、蟻人間の一団。雲霞の如く整然と進軍する直立する黒蟻たち。
蟻人間労働種は昆虫人の中でも最も数の多い種であり、つまり主力だ。集団意識の高い彼らは、個の損失――死を恐れない。なんの疑問も持たずに命令を遂行し、全体の利益のために行動する兵士だ。
それを率いる蟻人間戦士種に、蟻人間貴族種たちも数多く参戦していた。
蠍人間や巨大蟷螂は数こそ多くはないが、いずれも一騎当千の強者である。
蠍人間の武術と毒針による連係攻撃。巨大蟷螂の大鎌と飛行能力。
いずれも、生半可な騎士や冒険者では太刀打ちできない。
その大軍団が、ついに地上へ姿を現そうとしている。
先頭に立つ蜂人間が操る巨大な蚯蚓たち。
彼らがわずかに残る地上までの土塊を食らい、排出し、上下水道を破砕し、街を覆う石畳を打ち破ったならば、それは現実のものになる。
だが、虫たちの進軍が唐突に止まった。
蟻人間労働種は秩序を保って進軍を停止するが、それ以上の判断力を持つ昆虫人たちは予想外の事態に顎と翅を動かして、あるいは自ら飛び回って事態を把握しようとする。
その不安は理解できたが、先陣を務める蜂人間にも説明などできはしない。
「ナゼダ ナゼ先ヘ進マヌ」
巨大蚯蚓が言うことを聞かないわけではない。ただ単純に、先へ進めなくなってしまっただけなのだ。
まるで、見えない壁に遮られているかのよう。
「迂回シマシタガ 同ジデス」
その部下の報告を聞き、蜂人間の指揮官は決断を迫られた。
この見えない壁に攻撃を加え、あくまでも、このまま進むか。
あるいは、姿を見せる危険はあるものの、引き返し別の地点から地上へ出て進軍を再開するか。
「戻ルゾ」
果断に結論を出し、全軍へ通達する。英断と表現してしかるべきだろうが――それが実ることはなかった。
《悪相排斥の防壁》は、悪の相を持つ生物の侵入を拒む。
ゆえに、昆虫人たちは防げない。
そのはずだった。
つい数時間前までは、その通りだった。
昆虫人たちも、ユウトたちもしらないことだったが、ファルヴを覆う《悪相排斥の防壁》は進化を遂げ、この街に、この街の民に害意を抱くものの侵入を拒む防壁となったのだ。
知識神ゼラスを始めとする神々が、これを狙っていたのかどうかは分からない。
しかし、彼らが指定した来臨の日と、昆虫人の侵攻が重なったのは決して偶然ではなかった。
「コノ音ハ ナンダ」
出鼻を挫かれ不満はあろうが、粛々と後退する昆虫人の軍団。
その感覚器に、不吉な物音が伝わってきた。同時に、足下を揺るがす震動も。
巨大蚯蚓を使役し、蟻人間労働種が固めた地下隧道。地下に棲まう昆虫人たちが作る物に、欠陥が生じるなどありえない。
にもかかわらず、ぴしりとひびが入り、土塊が落下してくる。
「何事ダ」
「水ガ!」
どこからか地下水が漏れ出したというのか? ありえない。そんな初歩的なミスなどありえない。
そう。ミスなどありえない。
ファルヴの近くを流れる貴婦人川から、この地下隧道に水が流れるなどありえない。
だが、現実だ。
古来より、決まっているではないか。
神の怒りを買った者は、洪水で押し流されるのだ。
「――ということが、今、地下で起こったのじゃ」
死と魔術の女神トラス=シンクが、気怠げに足下を指さしながら、平然とそんなことを言った。
「なんということだ……」
「我が女神よ……」
「昆虫人……か」
なるほど、あの仔黄金竜が戦った相手はそれだったのかと、ユウトは膝を打つ。
考えてみれば予兆はあった。けれど、地下からの侵略者に確信が得られなかったため後手に回ってしまった。
神々への畏怖も感じず、ただそれを悔やむ。
だが、一切被害が出ずに済んだのは僥倖だった。
「ああ、全部終わったら土を運び出すといいよ。栄養たっぷりの土になっているからね」
「終わったら?」
続くゼラス神の言葉を、思わず鸚鵡返しに繰り返す。
「まだ終わりじゃないと?」
「本隊は健在といったところだね」
締めの甘い物――アカネが作った白玉団子黒蜜風――をつまみながら、なんでもないことのようにゼラス神が言った。
「百聞は一見にしかず。――知識神の言うことではないか」
指を鳴らすと、空いた皿が並ぶテーブルの上に映像が浮かぶ。
幻像に映し出されたのは、黒妖の城郭の跡地。なにもない窪みになっているはずのそこに、塔が建っていた。ただし、塔というにはあまりにも生々しい。
それは、蟻塚に蜂の巣を組み合わせたような奇怪なオブジェだった。
「……醜悪」
アカネの下を離れた美と芸術の女神リィヤが、忌々しげに酷評する。それには全面的に同意したいところだが、それだけで済ますわけにもいかない。
「ヴァル、アルシア姐さん」
「ああ」
「分かっているわ」
即座に席を立ち、意識を切り替える。まだ会ったこともない相手だが、手を出してくるのなら容赦はしない。
「よっし、うっぷん晴らそう!」
「行くか」
それは仲間たちも同じ。
酔いも倦怠も感じさせず、実に頼もしい。
「……悪い、起きてくれヨナ」
「うう……」
「好きなだけ超能力ぶっ放せるぞー」
「よしやる」
ヨナも、甘いささやきを聞いて即座に復活した。
「じゃあ。朱音、行ってくるよ」
「うん。気をつけてね」
心配そうに見つめる幼なじみを安心させるように微笑み、呪文書から7ページ分切り裂き《瞬間移動》を発動させる。
「そっちこそ、ゼラス神たちの相手をよろしくな」
「……うが」
アカネが抗議の声を上げるより早く、ユウトたちは東方屋から姿を消した。
「これで我輩たちは自由なのである」
「他に、どこに行こうか」
「とりあえず、神殿の様子は見に行かなくてはいかんのじゃ」
「え? え?」
「そういや、アタシのラーシアくんが隣街に作った玻璃鉄城ってのが、面白いよ」
「……待って。この街に建てる予定の劇場をどうにかしたい」
希望を次々と口にする神々に、アカネは乾いた笑顔を浮かべる。
「これ、勇人たちのほうが楽なんじゃ……」
そのつぶやきに答える者は誰もいなかった。