2.挑戦的な料理店
遙か遠くの青い水の星から自らの境遇を心配あるいは同情されていると知ったなら、ファルヴの神殿関係者は無言で首を振り、力ない微笑で応えたことだろう。
つまり、それに感謝する気力も、反発する元気も残っていないのだ。
最初にイスタス伯爵家から領内の神殿関係者へ通達されたのは、近いうちに知識神ゼラスの分神体が降臨されるという衝撃的だが雲を掴むような話。
ゼラス神殿は蜂の巣をつついたような騒ぎとなったが、他の神殿では――もちろん綱紀粛正の嵐が吹き荒れたものの――他人事の部分もあった。
なにしろ、神々は実際に天上にあって世界を睥睨している。
細かいよしなしごとをすべて観察しているわけではないが、それに恥じぬように生活していれば慌てる必要などないのだ。
その風向きが変わったのは、次の通達。ゼラス神とともにトラス=シンク神も一ヶ月後に降臨されるという話が出てから。
ゼラス神だけではないということは、他にどの神格がおいでになるのか当日になるまで分からないということでもあった。
さらに期限が区切られたこともあり、外部にもその影響は広がった。
普段から神々が見守っておられるとはいえ、分神体が降臨されるとなれば話は別。少しでも良いところを見せようと神殿関係者の精神は張り詰め、施設も清潔に保とうと清掃・修繕に一般住民の助力も求めた。
しかし、分神体が降臨されるという情報は、混乱を避けるためもあって口外は禁止されている。
結果、各神殿で人の取り合いのような形になり、ユウト自らが調停に乗り出す始末になってしまった。
「でも、勇人の自業自得よね」
「この世界の神さまが、フットワーク軽すぎだと思うんだ。他の世界は知らないけどさ」
そんな来訪者同士の会話もあったが、予定日までのスケジュールを組み、神殿同士で協力するよう横のつながりを作らせて解決を図らせた。
怪我の功名とも言えるし、アルシアのトラス=シンク神殿とヴァルトルーデのヘレノニア神殿が率先して協力をしてくれた成果でもあった。
実のところ指定されたのは期日のみで、どの時間帯に、ファルヴのどこに、どのようにして現れるかは未知の領域なのだが、着々と準備は進んでいる。
当事者であるにもかかわらずその苦労から最も縁遠いファルヴの住人は、とある草原の種族かも知れなかった。
その彼女――伯爵家の食客となったリトナと名乗る赤毛の草原の種族は、最近ファルヴにオープンしたある店の常連になっていた。
というよりは、入り浸っているといった方が正確か。
その店は、東方食堂といった。
ファルヴの住民の間でも話題になっている店だ。
良く言って風変わり。歯に衣着せずに言えば、ゲテモノを出す店として。
「アジとショウガとショーユの組み合わせは、世界中にこの味を広めたあとにアタシたちだけで独占すべきだと思うんだよね」
ただでさえも丸く大きな瞳を見開いて、癖毛の少女がそう絶賛する。コストが高いため、どうしても高額にせざるを得ない刺身盛り。
それを器用に箸で口に運び、白辛口のワイン――まだ清酒は醸造できない――で合わせるリトナ。その表情は、端的に言えばだらしない。だが、熟したワインのさわやかな果実味が、よく合うのだ。
至福と言っていいだろう。いや、言わざるを得ない。
その分、値段も張るが日給――実質的に小遣い――金貨10枚の彼女には痛くない。その光景を見たら、ラーシアは笑うだろうか、泣くだろうか。
もしかしたら、ちゃんと料金を支払うことに感動するかも知れない。
「アカネさんに言われて出していますけれど、注文されるのはリトナさんぐらいですよ」
なぜだか流れで女将となってしまった竜人の巫女カグラが、今は巫女装束ではなく割烹着を身にまとい、お盆を胸に抱いてため息をつく。
男性客から、その横顔をのぞき見られていることにも気づかない。あるいは、最初から気にしてなどいないのか。
東方食堂は、アカネが和食を広めるためにファルヴに出した実験店。
店自体はファルヴの他の建物と同じように石造りだが、木製のテーブルと椅子が並び、スペースは広くないが畳敷きの座敷まで用意されている。
まるで時代劇の小料理屋だ。
その物珍しさに、草原の種族が食いつかないはずもなかった。
しかし、アカネもヴェルミリオの店舗をファルヴにも出そうという忙しい時期に、伊達や酔狂で店を出したわけではない。
利益は度外視で、どのような味付けが好まれるかの調査や和風の味付けの浸透を狙った店だ。
うどんやそばといった手頃な麺類に、白米を主食にした野菜や魚などの煮付けをおかずにした定食。それに、ハードルを下げたハンバーグや揚げ物などもメニューに並んでいる。フライは、ソースではなく醤油で食べさせているため、魚のものしかないが。
「カグラちゃん、揚げ物の盛り合わせをくれ」
「こっちは、ハンバーグふたつな」
「俺は、米にしてくれ」
「よく食えるな、あれ。俺には、匂いがどうにもなぁ」
「なぁに言ってやがる。ちゃんと噛めば甘みもあるし、なにより、米とハンバーグのセットが粋なんじゃねえか」
「はい。少々お待ちください」
揚げ物は、白身魚を中心にしたフライの盛り合わせ。綺麗な油でからっと揚げた熱々の衣に醤油をかけると、それだけで食欲が刺激される。
ハンバーグも、アルサス王子を迎えた時に作ったものの発展形。牛肉の入手難度が高いためあまり数は出せないが、かなりの人気メニューだ。
どちらも、肉体労働が主なドワーフたちからかなりの支持を集めていた。
アカネが基本的な料理の指導をしたあとは、リ・クトゥアから移住してきた竜人たちで店を切り盛りしているが、カグラがいなくては回らない。
リトナとの会話を切り上げて、厨房へと舞い戻っていった。
ただやはり、注文数が多いのは肉料理。純粋な和食で数が出ているのは焼き魚程度だが、これはシンプルで独自の味付けのしようがない。
箸はほとんどディスプレイに近く、フォークやスプーンで食べられるよう工夫もしているが、伸びは鈍い。
「うひゃー。本当に生の魚を食わせるのか」
「言っただろ。ほら、賭けの支払いができないんなら、きっちり食べてもらうからな」
「しかも高えな。家宰様の故郷じゃ、本当にこれを食ってんのか?」
「らしいぞ。同じ物を食ったら、今からでも魔術師になれるかもしれん」
「そんなもんより、俺は嫁さんたくさんもらって税金いっぱい払いたいぜ!」
「甲斐性なしがよく言うわ」
すぐに受け入れられ大絶賛と甘い考えをしていたわけではないが、チャレンジメニューや罰ゲームに近い扱いをされるとは予想もしていなかった。
正直、遊ばれているようで気分は良くないのだが、注文は注文だ。それに、なんであれ食べるきっかけは重要。
そうアカネから諭されているカグラは、表面上は嫌な顔ひとつせずに配膳を行なっていく。
「カグラちゃん、カグラちゃん」
そこに再びリトナから声がかかり、彼女の専用席になりつつある座敷に上がるカグラ。ボブカットの彼女が割烹着でそうすると、場所と時代を超越したようにも感じる。
「アジのオツクリ追加ね。あと、イカの干物のあぶりも」
完全に酒を飲むための注文に、カグラは相好を崩す。食べたいものを注文しているが、このタイミングなのは、自分を気遣ってのことだろう。
「今日は、珍しくお刺身は完売しそうですね。いつもは、余った分は、わたくしたちやユウト様が美味しそうに食べてはくださるのですが」
さすがに、生魚はハードルが高すぎたようだ。ヴァルトルーデさえもあり得ないようなものを見る視線を送り、エグザイルも手を出さない。
飽くなき食の挑戦者であるヨナも「ありだけど、他人には勧めない」と自分にはこの味が分かるけど、とがりすぎて普通の人には無理だよと知った風な顔でコメントしていた。
それはこの店の客層にも同じことが言える。
珍しいが不思議と癖になると気に入った少数の愛好者を別にすれば、彼女目当てで無難な料理を頼む男たちがほとんどだった。
もっとも、カグラ自身はといえば、軽い調子の誘いも真剣に考え込んだ挙げ句――
「申し訳ありませんが、その気にはなれません」
――と、真っ向から粉砕してしまうのだ。
竜人であることも関係なく誘われることが嬉しくないわけではない。だが、嘘偽りなくそんな気分になれないのだから仕方ない。
その時、誰と比べて断っているかは兄のジンガがその場にいたら簡単に言い当てていたのだろうが、残念なことに本人に自覚がない。
あっさりかわすのではなく、検討したうえできっぱりと断るものだから最初は険悪な雰囲気になることもあったが、今では時候の挨拶にも似たポジションに収まってる。雨季に雨が多いと文句を言うほうが悪いのだ。
「それと、ひとつお願いがあるの」
「お願いですか?」
なんのことだろうかと首をひねる。やはり、その可愛らしい仕草が注目を浴びていることを自覚せずに。
「実は、今度こっちに友達が何人か来るんだ」
「そうなのですか」
草原の種族が数人。
しかも、彼女と気心が知れているだろう草原の種族が。
リ・クトゥアにも草原の種族はいたはずだが、里にこもっていたカグラはあまり交流したことがない。
そのため、リトナとラーシアという少数のサンプルから判断することになるのだが……。
「それは、賑やかになりそうですね」
けれど、それがなんだというのだろう。わざわざ自分に言う理由はなんなのか。
その疑問は、次の言葉で氷解した。
「その時、この店に連れてきたいんだよねー」
「なるほど……」
味に自信はあるが、調理法や食材から物珍しさが先に立つことは否めない。それが新しもの好きの草原の種族に大当たりだったのだろう。
「では、必要ないと思いますが席をお取りしましょうか。それから、なにかリクエストがありましたら事前にご用意しますよ」
常連客の頼みだ。これくらいは、なんということもない。
たとえそれが、ラーシアから出た資金だとしても……。
「う~ん。というよりも、貸し切りにしたいんだよね」
「貸し切りですか?」
それ自体は難しくない。時間帯にもよるが、そこまでの繁盛店というわけでもないのだから。
「ですが、貸し切りでなくとも……分かりました」
草原の種族が数人。それだけで、他のお客の迷惑になるかも知れない。そういうことなのだろうと、竜人の巫女は解釈した。
「分かりました。アカネさんかユウト様に相談をしてみます」
「ああ、カグラさん。リトナさん……も一緒ですか」
「ぎゃい」
「うん、美味しいお酒を飲んでいるのさ。ゆーとちゃんは珍しい格好してるね?」
はいが、拗音であるひゃいを通り越して濁点がついてしまった。顔を赤くしたカグラが振り向くと、そこにいたのはユウト。彼がくしゃみをしたら伯爵領が発熱すると言われる大魔術師だった。
けれど、制服もローブも脱いだ今の彼は、ただ仕事帰りに食堂に寄った若者にしか見えない。
「ええ、朱音が今度男性用の服も売るからって」
試作品である紺色のジャケットとスラックスを眺めて、曖昧な微笑を浮かべる。どうも、着慣れない服で照れがあるようだ。
「一緒に飲む?」
「俺は酒は飲みませんよ。それに……いや、いいです」
ラーシアから監視の意味も込めて手元に置くと伝えられた時は応援しようと思っていたが、気楽な生活を送る彼女を見ると皮肉のひとつも言いたくなる。
だからユウトは口をつぐみ、カグラへ視線を移動させた。
「近くに寄ったので、なにか軽いものはありませんか?」
「今、用意してきます」
華やかな大輪の花のような笑顔。
ユウトにとってはいつも通りの表情だが、この店の客にとっては異なる。珍しく、貴重で、それを浮かべさせた人間への当たりも強くなる。
冒険者時代にはもっと客層の悪い店に入ったこともあるユウトにとっては、気にする必要もなかったが。
「おい、やっぱ俺にも寄越せよ」
「やるか。俺のもんだ」
先ほど、罰ゲームとして刺身を注文したテーブルでは、あの大魔術師にあやかろうと、なぜか取り合いが発生していた。