1.異世界物々交換交易
日曜日の昼前。それはなんの前触れもなく、とあるマンションの一室に出現した。
金属を溶かしたような、鈍色の水鏡。一切の曇りも厚みもない円盤だ。
「やべえ、靴履いたままだった」
宙空に現れたそこから飛び下りてきたのは、この部屋の主。善の魔術師であることを示す白いローブに、制服を身にまとったユウトだ。
けれど、今はそんな威厳もなく土足で自分の部屋へ入ってしまったとあわてていた。急いで靴を脱ぐが……あまり意味はないかもしれない、と苦笑する。
「うむ。久しぶりだな」
「ああ、本当につながってるのね」
さすがに鎧は着ていないが、ファルヴの地下からやってきたため、ヴァルトルーデは飛行の軍靴を履いている。
一緒に下りてきたアカネも、そこまで頑丈な靴ではないが、地球から持ってきたパンプスだ。
「あっちゃー。これはやっちゃったわ」
自分の足下とユウトの部屋とを交互に見比べ、失敗したと天を仰ぐ。ユウトと同じくあわてて靴を脱いで手に持つが、問題はヴァルトルーデ。
魔法具ではあるが、簡単に脱げるような機能もない。
結局、ユウトが聖堂騎士を抱き上げ、ベッドへと運ぶ。それだけで顔を赤くしていたが、婚約者の意図を汲み取り、深く腰掛けてブーツが床に接しないようにする。
「考えなしであったな。すまぬ」
「いいさ。どうせ、ほとんど使ってない部屋だしな」
「なに言ってるのよ。勇人がいない間も、綺麗に掃除してもらってるじゃない。次からは、ビニールシートでも敷いておきましょう」
そんな話をしていると、部屋の外から甲高い犬の鳴き声が伝わってきた。あわせて、ドアをひっかく音も。
「ああ、悪い悪い」
靴を片手に、ユウトは内側から自室の扉を開く。
一ヶ月ぶりに会う愛犬を構い、両親に近況報告し、真名を通じて賢哲会議とコンタクトをとる。重要度で並べたが、たった1~2時間で足りるだろうか。
「キャウウン」
「あー、はいはい。ただいま」
とりあえず、靴を玄関におこう。
片手では満足に撫でられやしないと遺憾の意を表しつつ、ユウトはやるべきことを頭の中で思い浮かべる。
まず、この手荒い歓迎をなんとかして、打ち合わせをしながらブラシをかけて、散歩に行く……時間はないか。
「たまに、『コロと私たち、どっちが大切なの?』って問いつめたくなるのよね」
「可愛いものではないか」
愛犬を構う婚約者の姿にあきれと微笑を見せながら、彼女たちも部屋を出る。なにしろ、時間は有限だ。
そこに、騒ぎを聞きつけて家主であるユウトの両親も姿を見せた。休日だがきちんとした格好をしているのは、なにか予感があったのかもしれない。
「勇人か?」
「ゆうちゃん。まあ、朱音ちゃんに、ヴァルトルーデさんまで」
「突然の訪問、申し訳ない」
「いいのよ、いつでも大歓迎だから」
「事前の連絡は、物理的に不可能だろうしな」
にこやかな母と、険しい顔の父。
しかし、歓迎してくれているのだということは、二人の息子であるユウトにはよく分かる。
「ただいま。こっちは、まあいろいろあったし、いろいろあるけど、とりあえず元気だったよ」
「そうか」
「醤油作ったり、紙を作らせたり、保存食作ったり」
「……そうか」
無限貯蔵のバッグから、二人へのお土産――アカネに見繕ってもらった宝飾品と、エルフの郷で醸造されたスパークリングワイン――を渡しつつ、近況を告げる。
並べてみると、自分の職業がよく分からなくなった。
「元気そうでよかったわ。そうだ、ゆうちゃん、今日はどれくらいいられるの?」
「キャウウン」
「あー、分かったから」
滞在時間は二時間程度だと告げながら、愛犬を転がして足で腹をこするように撫でる。くねくねと体をねじっているが、それでも嬉しいらしい。
「手慣れているな。いや、足か?」
「……うちに行くのがめんどうになってきたわ」
微笑ましいと頷くヴァルトルーデに対し、アカネは憂鬱そうにため息をつく。同じように土産物は用意しているが、あの熱烈歓迎ぶりをみると、三木家でも一騒ぎありそうだ。
親にとってはいつになっても子供は子供なのだろうが、その子供の立場からすると、あまりベタベタしてほしくはない。
医師の母はドライだが、主夫の父は泣くかもしれない。泣くだろう。
「そういうわけにはいかないだろ、あきらめろ」
土産物を開封した母の春子から激しいハグを受けながら遠くを見るユウトから言われると、非常に説得力がある。
「……そうね」
「でもその前に、真名への連絡を頼む」
ユウトの携帯電話を受け取りつつ、アカネは発信履歴から後輩の少女を選んで耳を押し当てた。
「お久しぶりですが、思ったよりも遅いお越しですね」
自宅の玄関で出迎えた賢哲会議の第一級魔導官にしてユウトとの交渉役である後輩の少女、秦野真名は、にこりともせずそう質問を切り出した。
不思議なことに、ビジネスライクであろうとするこの態度は逆に安心感がある。
「ああ。次はだいたい一ヶ月後としか伝えてなかったからな」
「あのときは、ばたばたしていましたから」
「だから、期日より遅いほうが、そっちも待ちかまえているだろうし、準備万端で貿易できるからさ」
確かに、真名に連絡をしてから5分も経っていなかった。
しかも、ユウトたちから要望されるだろう物資も検討し、近くの倉庫にストックしてある。今すぐにでも、運び込める態勢だ。もちろん、対価は要求するが。
「なるほど。見事に乗せられたようです」
ポニーテールの魔導官は納得したように言って、鋭い目つきを大魔術師へと向ける。
というよりはむしろ、犬を抱いたまま出迎えにきたというその行為に対して疑問を呈したというべきか。ユウトとしては、来客に興奮して走り回らないようにしているだけなのだが、それが真名へ伝わることはないだろうし、そもそもそれは彼がやらなくてはならないのかという疑問は残る。
「世話になる」
「お互い様ですから」
リビングで待ち受けていたヴァルトルーデとも挨拶をすませ、そろってソファに腰を落ち着けたところで交渉が始まった。
コロは、ユウトの足下で大人しくしている。
「それではセンパイ。時間もないことですし、早速取引を始めましょう」
「話が早くて助かる」
ユウトの両親とアカネには、隣の三木家へ移動してもらっていた。この場にいるのは、ユウトが愛するヴァルトルーデとコロだけだ。
「これが、今回の希望のリスト。次回以降で構わない物には、注記をしてある」
「これはなんとも、時代がかっていますね」
羊皮紙など、初めて手にするのだろう。
ユウトが取りまとめた数枚のリストに目を通しながら、真名は別の意味で憂鬱になる。下手をすると、いや、しなくても。この紙をめぐって、各支部で駆け引きが起こるのは自明の理だった。
「石鹸、シャンプー、調味料に、ゲームですか。眼鏡? これは次でいいんですね。ですが、度を合わせる必要があるのでは?」
「伊達眼鏡でいいんじゃないかな」
疑わしげな視線をユウトへ向けるが、これ以上追及しても仕方がない。新調したタブレットを操作して、こちらで準備済みの交易品リストとつき合わせていく。
「……だいたい、こちらの予想通りですね。あまり無茶を言われなくて助かります。なにしろ、トラックで直接搬入なんてできませんから」
「そうだね」
ユウトはポーカーフェイスで受け流すが、隣のヴァルトルーデは少しだけ嫌そうな顔をした。
真名には、次元扉を開く場所は固定ではなく、ユウトがイメージできる場所であればある程度自由になるとは伝えていない。
彼女を信用していないわけではないが、用心をするに越したことはなかった。自分のせいで、現代兵器とファンタジーの大戦争……なんて事態を引き起こしたくはない。
ただ、毎月これでは両親に迷惑をかける。その点だけは、後悔をしていた。
「しかし、お酒ですか。センパイは飲みませんよね? なにかイベントでも?」
「ああ、それな」
とてもさわやかな笑顔を浮かべて、ユウトは告げる。
「今度、神様が来るんで歓迎用に必要なんだ」
「はぁ……」
あきれたような怒ったような瞳で、「なにを言っているんだこいつは」と言わんばかりの視線を向ける。
当然と言えば、当然の反応。
むしろ、こうやって常識を突き付けてくれるのは嬉しいぐらいだ。
「それより、代価の話をしようか」
「そうですね。ですが、先に搬入の指示を出します」
「しかし、忙しないことだな」
残り時間は、90分程度だろうか。ヴァルトルーデが言う通り、あまりにも余裕がなかった。
「そっちが良ければ、一人だけなら異世界旅行を受け入れてもいいけどね。調整や調査やなんやかやの建前で」
「本気ですか?」
「わりと」
「それ、とてつもなく嫌な予感がするのですが……」
「俺……かどうかはともかく、最低でも魔導師クラス……第四階梯や第五階梯の理術呪文の使い手から指導を受ける機会も作れるけど」
「……一応、上には伝えます」
もし派遣が決まったなら、その第一候補は真名だろう。
枠の奪い合いになるのは目に見えているので、先方から指名されたということにして。
彼女には学校があるといっても、今までも任務優先だったのだ。大した障害になるとは思えない。
「それで今回の支払いだけど」
「はい」
雑念を振り払って、真名は交渉に集中する。上役からは、なんらかの魔法具の類を引き出すように言明を受けている。
とはいえ、最初から物欲しそうにもできない。
まずは相手の出方を待った。
そのユウトは、ぎゅっと口を結んだポニーテールの後輩を正面から見据え、無言でいくつかの革袋を無限貯蔵のバッグから取り出した。
ひとつは、貨幣。
ひとつは、宝石。
そしてもうひとつには、魔法薬。ゴドランに使ってストックが切れかかったところ、レンにお願いして用意してもらったものだ。
革袋ひとつに、金貨数百枚の価値を持つ品が詰め込まれている。
日本円に直せば同じく数百万円といったところ。ユウトたちが求めた品々に比べれば高額だが、手間賃や保管料を考えれば妥当なところか。
中身を軽く説明したうえで、ユウトは問う。
「なにがいいか分からないから、代価になりそうなものをいくつか持ってきた。どれがいい?」
「センパイはずるいです。むしろ、鬼畜です」
選択肢は、ひとつしかない。
神なき世界――ということになっている――地球には、神術呪文は存在しない。そして、傷を治し病を癒やす呪文は、理術呪文には存在しない。
ゆえに、ブルーワーズではありふれた魔法薬が、この地球では千金の価値を持つ。
「ふむ。しかし、こんな物でいいのか? そこまで強力な魔法薬でもないのに、いろいろと貴重な品を譲ってもらうのは、だましているようで気が引けるのだが」
ユウトから事前に説明は受けていた。
けれど、彼女の正義感が待ったをかける。
「確かに、なんか昔の貿易みたいで、気分的に納得いかないってのは分かる」
「これがいいです」
身も世もなくというのは大げさだが、話が妙な方向へ行かないように、真名はひったくるようにして魔法薬が入った革袋を胸に抱いた。
薄い胸板は――ヴァルトルーデ同様――潰れようもないが、決して放さないという強い意志は伝わってくる。
「……なるほど。確かに、こっちへ来てもらった方がいいのかもしれんな」
ユウトは正しいと、ヴァルトルーデはうなずく。
その後は、次回の期日の取り決めなど事務的な話を進め、あっという間にタイムリミットを迎えた。
「しかし、神様ですか……」
一息ついた真名が、先ほどの言葉を反芻する。神秘の世界に身を置く彼女にしても、おとぎ話の領域だ。
よく考えれば、ユウトたちの能力だって、充分神懸かっている。そんな彼らが畏れ敬う存在を歓迎するなど、いったいどうすればいいのか。
それに、どんな神がいるかは知らないが、その信者も多くいるだろう。彼らは、どんな気持ちなのか。
「どこにいても、センパイは相変わらずのようですね」
「え? なにが?」
「なんでもありません」
声音はいつも通りだったが、真名は珍しく澄み切った笑顔を浮かべていた。