2.露天会議
辺りを煌々と照らしていた月が、群雲に隠れてしまった。
無理もない。
地上に、己よりも美しい存在が現れては、隠れてしまいたくもなるだろう。
神秘的ですらある白い肌。引き締まった、しかし女性らしい丸みを帯びた曲線。それを大した価値などないと振る舞う聖堂騎士の姿は、もはや嫉妬の感情すら湧き起こらない。
「なかなか、本格的ではないか? いや、私が言って良いものか分からぬが」
輝くような裸身の要所をタオルで隠しながら脱衣場を出て露天風呂へと姿を現したヴァルトルーデは、辺りを見回しながらそうつぶやいた。
高台に作られた、石造りの露天風呂。
周囲には木が植えられ、海が一望できる絶景のロケーションだ。
「良いと思うわよ。意外なほどちゃんとしてるじゃない」
続いて入ってきたアカネが、胸を反らしながら感心したように言う。確かに、彼女の目から見てもそれっぽくなっている。
逆に、この世界の神さまはどこからこんな知識を仕入れたのかと感心するぐらいだ。
ヴァルトルーデと同じようにタオルで隠しながら見て回るものの、一部が完全にはガードできていない。同性で、しかも気心の知れた"同志"しかいないからと、少しガードが緩くなっているのかも知れない。
それは構わないのだが、その隠しきれていない部位が問題だ。歩く度に揺れる胸をヴァルトルーデが情けない表情で見つめるが、最後の人物が入ってきた瞬間、諦念に達する。
分かっている。無い物ねだりをしても仕方がないことは。あっても、戦闘の邪魔になるだろうことも。
それでも、同じ村で生まれ育ったアルシアとの格差はなんなのだろうかと考えずにはいられない。
「どうかしましたか?」
長い黒髪をまとめてうなじを露わにしたアルシアが、じめじめとした気配に気付いて幼なじみへと小首を傾げて問いかける。
真紅の眼帯はそのままだが、そんな異相は関係なく、同性から見ても煽情的な仕草。
(いや、待つのだ)
マナーとして最初に教えられた通りかけ湯をし、タオルを外して浴槽へ入りながら比類なき美少女は考える。
(この二人を見る限り、ユウトは胸の大きな女性を好んでいるのは明らかだが……)
別にそういうわけではないのだが、彼女の中ではそれが事実となってしまった。
(それなのに私の事を好いているということは、つまり、あれか。あれだな)
ふんふんと上機嫌で納得しつつ、ヴァルトルーデは温かな湯を楽しむ。手足を伸ばして温かな風呂に入ると、それだけで疲れと緊張が抜けていく。
しかも、海と空を同時に眺められるなど風情もあり、温泉自体に効能もあるとはなんとも贅沢な話だ。
「なんだか、ヴァルが凄まじく残念なことを考えているようですが……」
「私には、世界の行く末を憂いてるようにしか見えないんだけど」
そんな二人の言葉も耳に入らず、世界の平和を祈念するかのような真剣さで、ヘレノニアの聖女は湯に浸かっている。
ラーシアが妙な精神状態で婚約者へ絡み酒をしているのに巻き込まれないうちに、三人は露天風呂へとやってきていた。
もちろん、本格オープンするに当たって問題点を洗い出し、今後の展開に役立てるため――ではあるのだが。
「アカネさんは、お疲れ様でした」
「ありがとう。これからも大変だけど、まあ、一段落ね」
そもそもは、ブルーワーズ初のファッションブランド、ヴェルミリオの立ち上げがひとつの区切りを迎えたことに対する慰労の意味が強かった。
大人数の受け入れ体制が整ったら、レジーナを始めとする従業員たちも招待する予定だ。恐らく、ブルーワーズ初の社員旅行として歴史に名を残すことになるだろう。
あのファッションショーの翌日、店舗で販売を始めたものの、客が押し寄せ開店を前倒ししても捌ききれなかった。ユウトが指摘したとおりになったわけだが、売れれば良いというものではない。
在庫の問題、追加生産、周辺への迷惑。マイナス要素を指摘すれば切りはないし、それに、もう秋・冬の製作に入らなくてはならない。
本当に、一段落だ。
「それよりも、ユーディット様からの無茶振りの方が大変だわ……」
アカネは嫌なことを思い出したと肩をすくめ、やや白く濁った湯に深く身を沈める。浮力を持つ部分がわずかな抵抗を見せるが、それをヴァルトルーデが見ていないのは幸いだった。
「このままだと、服やら料理だけでなく、結婚式のプロデュースまでさせられそうな勢いだわ」
ウェディングドレスもどきをプレゼントしたところ、結婚式でも着たいから新作をあつらえてほしいとアカネへ直接打診されていた。
しかも、初めて会った時に一緒に読んだ源氏物語のテイストが入った花嫁衣装という希望までされている。
「仮にも、王子様との結婚なんですから、伝統的な衣装みたいなのがあったりするんじゃ……」
「わたくしたちが、伝統を作れば良いのです」
と、遠回しに断ってみたものの、あっさりと返されてしまった。しかも、ファルヴへやってきた時の夕餐会もお気に入りだったようで、披露宴の食事まで任されそうな気配だ。
どうも、アルサス王子が百層迷宮へ赴いた件とおあいこということにしているのか、ストップがかからないらしい。
そうなると、このまま押し切られる可能性が高い。食材は、調味料はと、今から考えるだけで頭が痛かった。
地球から仕入れる手もあるのだが、せっかくだから、この世界で新しい料理を広める機会にもしたい。
そうなると、こちらで手に入る材料にするか、それとも、新たに作るか。
順調に、アカネの双肩にも重荷が積み重なっていくようだ。
ただ、その話を聞いたユウトは、悪い予感がすると警戒を強めていた。
アカネからするとユーディットを危険視する幼なじみの気持ちは理解しがたいのだが、無茶振りが重ねられそうな流れには危機感を持たざるを得ない。
「まあ、良いのではないか? 予行演習のようなものだろう」
「予行演習って」
そのヴァルトルーデのなにげない指摘を受けて、温泉の温かさとは違う理由でアカネが頬を赤く染める。
言ってから気付いたのか、並ぶ者のない聖堂騎士や大司教も似たような反応を見せた。
ユウトには見せられない。恥ずかしすぎて。
「ただ、今はそれよりも検討しなければならない問題があります」
乙女の憧れは脇に置き、アルシアが真剣な口調で議論の開始を宣言する。
温泉とも先ほどの想像とも違う理由で興奮に頬を赤く染めるその態度は、冷静な死と魔術の女神の愛娘にしては珍しい。
「ヴェルガのことね?」
「ええ」
「あの女か……」
尋常ではない様子で唇を噛むヴァルトルーデ。悪そのものへの憎しみは抱いても、特定の個人への敵愾心は無縁と思われていた彼女だったが、色々と我慢ならないことが積み重なっているヴェルガにだけは例外。
「ユウトを勝手に婿殿などと呼び、私たちの目前で唇まで奪い、あまつさえ拉致し破廉恥な行為に及ぼうとし、私たちを差し置いてダァル=ルカッシュの精神世界で共闘するなどとは、まったく許しがたい」
「そこまで列挙されると、まあ、全面戦争もやむなしって思っちゃうわね」
穏健なアカネですら、いくつか腹に据えかねる行為がある。
「ですが、それは過去のことです」
許していないことは、その固い声と湯の下でぎゅっと握っている手で分かるのだが、アルシアはあえて未来に目を向けた。
「ユウトくんとヴェルガのフォリオ=ファリナでの逢い引き。それをどうするか、です」
まだ相手から具体的なアプローチがないため執行猶予状態だが、いずれは行われるはずだ。
「そうよね。ヴァルは私がこっちに来る前に、私はこっちに来た直後にデートしてるけど、アルシアさんは全然じゃない。なにやってんのよ、勇人」
やや白い湯に拳を叩き付けて怒りを露わにするアカネだが、他の二人は困り顔だ。
「なぜか友軍から攻撃を受けている気がするのだが」
「私は良いのです、私は」
それに、ラーシアに半分はめられたようなものだが、ハーデントゥルムでデートのようなことはしている。プロポーズも受けている。
問題ない……はずだ。
「問題は、ヴェルガがどのような強硬手段に出るか分からないことです。私たちがそれとなく見守ることができたなら、まだ安心なのだけど……」
「私の力不足だ」
「いやいや、話を聞く限り無理でしょ」
ヴェルガだけでなく、あのヴァイナマリネンが言い出したことだ。抵抗は無意味とまでは言わないが、無駄だっただろうことは想像に難くない。
「しかし、ユウトとヴェルガのデートね……」
大問題だというのは分かるが、では具体的にどうなってしまうのか。アカネには、今ひとつ想像しづらいところだった。
「冷静に考えると、勇人って大魔術師なのよね? それなら、自分でなんとか――」
「――できると思いますか?」
「うん。話を進めましょう」
たった一人の幼なじみにまで信用されていないユウト。ある意味で自業自得ではあるが、さすがに、ここにいたら抗議の声をあげていたはずだ。
もちろん、この場で理性を保てていたらという仮定の上であるが。
「ただユウトくんと楽しい一時を過ごすというだけであれば、一歩譲って認めたくは……ありませんね」
「アルシアさん、話が進まないわ」
「私も、認めたくはない。認めたくはないが、助力を得ておいて交換条件を反故にするわけにはいくまい。だが……」
「悪いヤツとの約束なんて、守る必要なんてないわーってわけでもないのね」
「……ん?」
なるほど、その手があったかと言い出しかねない聖堂騎士の反応に、アカネは慌てて話を逸らす。
「とりあえず、勇人とヴェルガがデートしなくちゃいけないのは分かったということにしましょう。その時、穏便に済むようにすればいいわけよね」
「うむ」
「そういうことですね」
温泉は気持ちいいが、長時間浸かっていては疲れてしまう。結論を出すなら、早めの方が良いだろう。ゆだった頭で出した結論がどうなるか、分かったものではない。
「とりあえず、どんな約束をしたわけ?」
「そうだな……」
繊手を悩ましげな相貌に当てて、ヴァルトルーデは回想する。
ヴァイナマリネンはこう言った。
「その時、そこの伯爵の嬢ちゃんや眼帯の嬢ちゃんたちの尾行も監視もなしにしてやろう」
――と。
「だったら、ヨナちゃんや私だったらセーフ?」
「それはさすがに詭弁だろう」
善と法の守護者らしく、その抜け道は否定する。アルシアも、それは気乗りしないようだ。
「となると、代わりに誰かに頼むってわけにもいかないのね……」
「下手な人間では、あまりにも危険であるしな」
思案顔でヴァルトルーデが言うものの、解決策が出てこない。アカネは、そんな彼女に見とれそうになって、慌てて我に返りパシャパシャと温泉で顔を洗う。
「どうしたのだ?」
「なんでもあるけど、ないわ」
「そうか……」
納得はいかないが、深追いしても意味はなさそうだ。そう、何度も命を救われた勘に従い。それ以上の追及はしない。
「仮に適任者が見つかったとして、ヴァイナマリネン老に排除される可能性もあります」
「あー」
「なるほど、それは考えてもみなかった」
先ほどの約束をしたのは、ヴァイナマリネンだ。ならば、執行まで請け負っても不思議ではない。
「そうなると、あれよね」
「そうだな」
「そうですね」
温泉の中で顔を見合わせ、ひとつの結論が形成される。
「勇人を、教育するしかないわね」
「ユウトに、油断しないよう諭すとしよう」
「ユウトくんに、しっかり誘惑をはね除けてもらいましょう」
この瞬間、ユウトが寒気を感じたかどうかは定かではないが――曲がりなりにも、三人の結束が固まったのは確かだった。