1."素敵な出会い"
深く昏い地の底。
そこは、地上の神々の眼すら届かぬ異形の王国。
『陽ノ世界ヘノ道ガ ヒトツ 破壊サレタ ヨウダガ』
『ナニモ 問題ハ無イ』
四足で直立したオオアリのような蟻人間が、蠍人間へ短く返答する。
と言っても、他の生物――人間、ドワーフ、エルフ、悪魔、巨人、ドラゴン――が聞いたところで、ただの擦過音としか認識できなかっただろうが。
昆虫人の発する声は普通の生物の可聴域を超えており、更に顎や翅などを擦り合わせた音までも混ぜて表現するため、微妙な差異で意味が変わってしまう。
異なる種族同士で意思の疎通ができるのが奇跡的なほどだ。
昏く深い地下洞窟の中。
地上では遭遇するはずも無い雑多な昆虫の姿をした人間たちがひしめき合っている。
巨大蟷螂は両腕の鎌を振るって戦意を示し、ぶくぶくと肥えた女王蜂は黙して語らず会議を睥睨していた。
不気味で、根源的な恐怖を誘い、怖気をふるうような光景。
あまりにも異質。理解が及ばない存在。
『方針ニ 変ワリハ無イ』
その場を取り仕切るかのように、蟻人間が強引にまとめる。
『ムシロ アノ竜トノ遭遇ハ 想定外ダッタダケ』
そう。地上を目指す昆虫人たちだったが、無軌道に蹂躙することが目的ではない。いや、蹂躙はするのだが、それはもっと秩序立ったものでなくてはならない。
反撃の余地も与えぬほど、一気呵成でなくてはならない。
〝虚無の帳〟との遭遇戦――その名は知らぬのだが――のような泥沼の戦いでは強みが発揮されないのだから。
その時までは、身を潜め続ける必要があった。
『塔ノ建設ハ 順調ニ進ンデイル』
『道ノ整備モ 予定通リだ』
直立する蜂人間が、女王蜂に代わって報告する。
居並ぶ昆虫人たちは、それに静かな歓喜の声を上げた。冷静な昆虫人にしては情熱的な喜びの声。
しかし、人の身では、キチキチキチキチキチキチという、不気味な虫の声にしか聞こえない。
徹頭徹尾、相容れぬ両者。
その激突は、そう遠いことではなかった。
イスタス伯爵領の西、山間のドワーフの街メインツを草原の種族が、好奇心の赴くままにふらふらと歩き回っていた。
赤茶色の癖毛を強引に帽子の中に収め、大きな瞳を見開いてあちこちを見て回っている。道往くドワーフたちも、その革鎧を身につけた草原の種族を見て、自らの財布の在処を確かめてからは、興味を失ったように意識を払うことは無かった。
ここはドワーフが多くを占める街だが、草原の種族はそれこそどこにでも――ヴェルガ帝国の帝都ヴェルガにすら――いる。気にしても仕方がない。
逆に、彼女が落ち着きのある草原の種族だったならば、慌てて家に帰って家族の無事を確かめに走っていったかも知れない。
そんなドワーフたちの反応など気にした風もなく、彼女は立ち止まって空を見上げた。
ドワーフの里だけあって、そこかしこの煙突から煙が上がっている。しかし、それは黒煙ではなく白い煙で、煤もほとんど出ていないようだ。
街中を歩いていても、不快感はほとんど無い。
ドワーフの街と言えば熱と煤煙とアルコールがセットになっているというのに、このメインツでは市場で鮮魚すら売られている。
「気に、なるわね」
彼女は、この街の噂を聞きつけ遠くから旅をしてきた。
別に用事があったわけではない。玻璃鉄を欲しがったわけではない。ただ、珍しいと聞いていても立ってもいられず、気付けば足を向けていた。
もちろん、それだけが理由ではないのだが……草原の種族としては、標準的な動機でもあった。
とにかく、気になるものは仕方ない。
不意に、彼女の姿がかき消える。
いや、草原の種族が子供のような体躯とはいえ、人が一人消えるなど、それこそ魔法でしかあり得ない。
その不可能を可能にする隠密の技術。ラーシアにも匹敵する盗賊の技だ。
気配を消して物陰に隠れ、人の視界と意識の死角に潜り込み、まるで消失したかのように姿を消す。
猫のような足取りで物音ひとつ立てずに彼女が向かったのは、とある工房だ。
休憩中なのか、なにか用事があったのか。内部は無人で、鍵もかかっていなかった。もちろん、鍵がかかっていてもどうにかしてしまっただろうが。
直接販売は行なっていない純粋な作業場のようで、住居とつながった工房には金槌や金床が置かれ、炉の火も完全には消えていなかった。
どうやら、ここは武器職人の工房のようだ。
完成品の長剣などが壁に飾られ、床には部品や未完成品が放置されている。
「へえぇ。これが噂の玻璃鉄」
工房の片隅に積み上げられていた、青みがかった黒い鉱石。草原の種族の女盗賊はそれを手にとってまじまじと見るが……。
「アタシには、違いが分からないなー」
すぐに興味を無くしてぽいと投げ捨ててしまった。
次に工房の他の場所を観察する――のではなく、断りもなく住居スペースへ侵入すると、目ざとく調理場の地下収納庫にエールの樽を見つけた。
「ふんふん。どんな感じかな」
遠慮なく蓋を開け、背伸びをして中をのぞき込むと、少し赤みがかった美しい琥珀色の液体が飛び込んできた。芳醇な香りも、実に良い。
「ごくり……」
我慢しきれず、草原の種族の女盗賊は自前のカップを取り出して、不作法にも樽からエールを掬いだした。
そのまま一気に喉へ流し込む。途端に、芳醇な風味が広がる。ドワーフが飲むだけあって酒精が強いが、不思議と飲みやすい。
「ふふふふ~ん」
美味い酒に途端に上機嫌になって、鼻歌が出る。さすがに大声で歌い出すのはまずいと思っているのか、控えめだが陽気だ。
そのまま何杯か琥珀色の水を飲み干すと、最後の一杯とジョッキに掬い、工房へと戻る。
軽い、しかし、足音を発しないステップで工房の物色を始める。
作りかけの刃や、鍛造用の金槌、完成品の玻璃鉄の短剣にテーブルの上に置き忘れた銅貨などを、まるで元から自分の物だったかのように自然に懐へしまっていった。
「ん~。この煙突に秘密があるのかなー」
次に玻璃鉄を溶かす炉へ、なんの躊躇も無く頭を突っ込み、帽子が落ちそうになってやや慌てるが、帽子もジョッキも落とさない。
「ほうほう。ほうほう。普通、こんなところに《大気浄化》とか魔化する? すごーい。すごいバカ?」
《大気浄化》はその名の通り、大気中から有害な成分を取り除く理術呪文だ。本来は、その臭気で吐き気を催させ行動を阻害する《悪臭の雲》のような呪文への対抗手段として開発された。
それを煙突自体に魔化して有害な成分を取り除くという発想自体普通ではないし、それを実行できる資金力は、はっきり言ってしまえば異常だ。
それに、環境にここまで気を使う時点で、頭がおかしいと言われても反論は難しい。
「あんまり、ボクの友達をバカバカ言ってほしくないなぁ。まあ、部分的には同意しないでもないけど」
――身内でも無ければ。
「あちゃー。このアタシが気付かないなんて」
「そっち何者かは知らないけど、ちょっと自信過剰だったんじゃない?」
不法侵入者の背中に短剣を押し当てながら、にこやかに話すのはラーシア。ヘレノニア神殿がこのメインツにも進出するということで先に裏社会を掌握しようとやってきたところ、偶然、不埒な同族に出会ってしまったところだ。
「アタシはリトナ」
「ボクは、悪の首領だよ」
「それは是非お近づきになりたいね」
「悪いけど、手癖の悪い同族はお断りだよ」
「手癖? この程度で?」
「だから、ボクらの評判が悪くなるんだよなぁ」
草原の種族は、別に生まれながらの盗賊という訳ではない。
ただ、私有財産という概念が希薄で、自分の物と他人の物の線引きが曖昧だ。そのため、ラーシアとしては苦々しいのだが、リトナが懐に入れたものぐらいでは、草原の種族としては窃盗をしているという自覚は無い。
後にその説明を聞いたアカネは、「ああ、借りぐらしみたいな?」と、彼女なりに理解はしたようだ。
要するに、ラーシアの方が種族全体では少数派。
「でも、ボクらは地域住民に愛される悪の組織を目指してるんだよ」
そう言い切ったラーシアは、相手の腕を取って足を引っかけ、鍛冶場の地面へ押し倒した。木製のジョッキが盛大に転がり、辺りにエールをまき散らす。
「ああっ、もったいないっっ」
「同感だけど、大人しくしな」
草原の種族にとってはなんともなくても、罪は罪。それに、なにか目的を持ってこのメインツに侵入した可能性だってある。防諜の面からも、このまま見過ごすことなどできない。
もみ合いながら、それでもラーシアは有利なポジションを確保する。だが、接近戦とはいえ、ラーシアと互角にやり合えるこの腕前。ただのこそ泥とは思えない。どこかの密偵ではないかとの疑いが濃くなる。
だが――
「なぁっ」
「ん? よく分からないけど、チャンス!」
一瞬、呆然としてしまったラーシアの戒めを解き放って、草原の種族の女盗賊――リトナが脱出する。
「次は、もうちょっと平和的な出会いをしましょ」
ラーシアの拘束状態を解除したリトナは、侵入した戸口へと素早く移動し、街の雑踏へ消えてしまった。
「参ったなぁ……」
いつの間に取り返していたのか、リトナが懐にしまっていた玻璃鉄の短剣と落としていった帽子をもてあそびながら、ラーシアが心底困ったとため息を吐く。
思わず拘束の手を緩めてしまったのは、彼女の容姿をまともに見たから。
赤茶色のくるっと丸まった髪。
くりっとした大きな瞳。
愛らしい笑顔。
きゅっと引き締まった肢体。
「すげー好みなんだけど、これがタイロン神の素敵な出会いってこと? 困ったなぁ……」
そう言いながらも、ラーシアの表情は緩んでいた。
いっそ端的に表現すれば、にやにやしていた。
「――ってなことがあったんだよ!」
「お、おう」
冷えたエール片手に惚気――まではいかないが、リアクションに困る――話を聞かされ、ユウトはその圧力に仰け反ってしまう。
ここは、エグザイルが神の奇跡で生み出してもらった"温泉旅館"。その宴会場に当たる部屋で、諸々の慰労会を仲間内だけで行なっているところだった。
外観は、和風ホテルというべきか、洋風旅館と表現すべきか。日本で泊まった賢哲会議の宿泊施設に、瓦屋根や和風庭園、温泉が追加された不思議な建物になっていた。
ただ、違和感を憶えたのはユウトとアカネだけのようで、他のメンバーには比較的好評だった。
そうなると現地の人々も同じ感想を抱く可能性が高く、来訪者二人はなにも言えなくなってしまう。
「いやー。運命の出会いだよ、これ。困っちゃうなー」
「た、楽しそうでなによりだな」
浴衣――ちょっと変わったバスローブということで、特に問題なく現地生産できた――を着たラーシアが、更に絡んでくる。
そんな格好で、お膳が並ぶ畳敷きの宴会場。ここがどこなのか、一瞬分からなくなった。
リ・クトゥアにも畳はあるのだから知っていてもおかしくないが、神々もわざわざそれを用意しなくても良いのではないかと思ってしまう。
「でも、話を聞く限り再会の約束とかしてないみたいだけど、どうするんだ? 《伝言》でも送るのか?」
本来、決めなくてはならないことがいくらでもあった。
今日はアカネが手料理を振る舞ってくれたが、本格的にオープンするのであれば、料理はどういうコンセプトで、誰を調理長にするのか。どこから従業員を雇うのか。値段はどうするのか。名前だって決まっていない。
けれど、ヨナは料理に夢中になり、ヴァルトルーデ、アルシア、アカネはこちらをちらちら確認しつつも、なにか深刻そうに話し合っている。
エグザイルは、豪快な微笑を浮かべているだけ。
「おっさん、他人事みたいにすんな」
「いや、オレにアドバイスなんてできんぞ」
「まあ、エグは向こうから勝手に口の中に入ってきたようなもんだもんね。参考にならない」
そう言うラーシアだが、楽しげに笑っている。
「俺としては、次にもう一回出会ったら、運命だと思って良いと思うんだが、どうよ?」
「なるほど。それは確かにそうだな」
「それ以前に、そのリトナという女がスパイかなにかだったら、どうにかしてまた会わなくてはならないのではないか?」
とりあえず、エグザイルのもっともな指摘は聞かなかったことにしたようだ。
ラーシアは二度三度うなずきながら、脳裏にリトナの姿を思い浮かべながら、冷たいエールをあおった。