5.はじめての通学(後)
「ほう……」
次の授業のため最年少クラスへ足を踏み入れたテルティオーネは、教室内の微妙な雰囲気を感じ取った。同時に、面白いことになってやがるなと口の端を上げる。
前の時間を担当していた同僚であるドワーフのニィラーから概略は聞いていたが、実に良い展開だった。
その微妙な空気は、主に教室の奥に無表情でそっぽを向くアルビノの少女と、中央に座るドワーフの少年から中心に発せられている。
ヨナは言わずもがなだが、ドワーフの少年――ドワーフの建築作業員をとりまとめるトルデクの甥――ハマルがいらついているのは、今まで保ってきたクラス首位の座が脅かされそうだからに他ならない。
勉強だけではなく、ユウトが広めようとしているボール遊びも上手いらしいとなると、プライドも高そうだ。
だが、トップといっても所詮このクラスでのこと。
そこまで重要な問題とは思えず、井の中の蛙にしか見えない。けれど、海どころか井戸の広さも理解していない蛙だっていただろう。例えば、今のハマルのように。
「ガキにはガキなりの世界があるか……」
「先生?」
「なんでもねえ」
前列に座る人間の生徒からの訝しげな問いを、凶暴な笑顔で退ける。気の弱い子供なら、泣き出しても不思議ではない。
実際、今声をかけた少女も最初はびくついていた。今は、もう慣れたようだが。
「今までは説明ばかりだったがな、今日は簡単な理術呪文を見せてやる」
そのぶっきらぼうな宣言に、教室全体が色めき立つ。
このファルヴの土台は呪文で造成した。馬車鉄道も呪文が重要な役割を果たしている。村々の土壁も、一瞬で作り上げた。
そんな噂は子供にも聞こえてきており、アルシアが診療所で腕を振るうこともあるため、他の土地よりも呪文は身近な存在だ。
しかし、実際に使用されるところを見る機会は少ない。
それは使い手が数少ないというのもあるし、呪文が使われるケースのほとんどが、なんらかの危機的状況だというのも大きかった。
「よく見てやがれ。だが、動くなよ」
取り出したのは、枯れ木やぼろ布といった可燃物を金属の器に入れたもの。それを教卓の上に、どんと置く。
万が一――起きるはずもないが――念のため、近づかせることはしない。
「3、2、1」
ゼロとは言わず、テルティオーネは指を鳴らす。
それと同時に、炎が生まれた。
「うわー」
素直な子供たちが歓声を上げる。一方、当然だがヨナは見向きもしない。
小魔法で着火した炎が、燃料を糧に燃え盛る。ちょっとした焚き火というレベルを超えようとしたところで、テルティオーネは呪文書から3ページ分切り裂いて炎にかぶせた。
「《焼尽》」
火を鎮め、魔法の炎の威力も弱める第三階梯の理術呪文。その効果により、一瞬にして炎が消える。本来、この程度の炎に使う呪文ではないが、水を用意するのも面倒だった。
煙だけが教室内に残るものの、窓を開けてしまえばその痕跡もわずかな時間で消え去る。雨は、もう止んでいた。
「すげー。火が着いたり消えたり」
「便利そう」
興奮気味に感想を述べる子供たち。その中に、つまらなそうな顔をしている者が二人いた。
「ハマル、大したことねえなと思ったろ」
「おう。火なんて、火打ち石で着ければいいじゃん」
「そうだな。手間暇かけてな」
「火の扱いが苦手なドワーフなんていないぜ!」
得意そうな顔でドワーフの子供が胸を張る。ドワーフの若者は陽気でよく笑うが、ハマルもその例に漏れないようだった。
「なるほど。俺の敵は、こういう手合いか」
「は? 敵?」
教師から、味方であるはずの教師から「敵」と呼ばれて困惑を隠せない。
だが、テルティオーネがフォローなどするはずもなく、視線を教室の奥へやった。
「ヨナ、理術呪文を憶えるメリットを教えてやれ」
「…………」
「アルシアに言いつけるぞ」
「……いろいろできること」
外を見ながら、しかもぼそぼそとした声だったが、その答えはテルティオーネを満足させた。
「ハマル、意味が分かるか?」
「いろんな呪文があるのは、知ってる」
つまり、理解してはいなかった。
「この小魔法は、火を着けるだけじゃねえ。逆に凍らすこともできるし、ちょっとした物の押し引き、簡単な幻影やら音を出すこともできる」
テルティオーネは教室を練り歩きながら、説明していく。
「後、違う呪文だが、灯りを作ったり、簡単な物の修理もできるようにしてやる。この程度なら、誰にだって憶えられるからな」
「全部、呪文なんて使わなくたってどうにかなるじゃん」
「ヨナ、反論してやれ」
「テュル先生! なんでその白いのばっかり!」
「ヨナ」
ハマルの抗議も、テルティオーネは意に介さない。他の生徒たちが息を飲んで見守る中、ヨナは嫌々口を開いた。
「歩けるから、馬は必要ない。手があるから、ハンマーが無くても問題ない」
同じことを言っているのだと、遠回しに告げる。それは、皮肉以外の何物でもなかった。
「できるに越したことはねえ。意味がないなんてのは、できねえ奴の言い訳だ」
「別に、できなくてもいいし」
「ユウトがいるからか?」
ヨナはなにも答えない。けれど、それこそが答えだった。
「まあ、ヨナは別にそれで良いけどな」
「なんでだよ!」
「他に特技がいくらでもあるからだな」
「そんなヤツが……っ」
ハマルがいきり立って席を立つが、テルティオーネは薄い笑いを浮かべるだけ。その笑顔は、娘のレンには似ても似つかず、弟子のユウトにこそ似ていた。
「例えば、ヨナはお前なんかより強いぞ」
思ってもみなかった話に、ハマルは口をぱくぱくとさせ言葉が出ない。頬は紅潮し、短い髪がぷるぷると震える。
怒り、屈辱、悲しみ。
自分でもよく分からない感情に突き動かされる。
「やってやるよ」
「…………」
ドワーフの少年がアルビノの少女の前に立つものの、当然のように無反応。
「はっ。トルデクおじさんは領主が巨人を倒したって言ってたけど、そんなのうそっぱちだ。それに、領主の腰巾着の魔法使いだって、なにやってんだか分からない」
だから、白いお前だって、大したことなんか無い。
ハマルがそう挑発するが、内容を理解しているとも思えない。おそらく、大人の受け売りなのだろう。恩知らずだが、非難の無い政治もまたあり得ない。
「外」
それだけ言って、ヨナは立ち上がった。ハマルは一顧だにせず、教室の隅に置かれていたサッカーボールを持って、運動場へと無言で移動する。
これで勝負をつけてやる。
静かだが雄弁に、白い少女が語る。
「じゃあ、行くか」
実に気楽に、テルティオーネが生徒たちを促し校庭へと出た。自由過ぎるが、咎められる人間はどこにもいない。
かつて悪の半神が訪れ、ヘレノニアの聖女と対峙した場所。
その運動場の中心で、二人が対峙する。
雨は止み、しかし、薄雲が天を覆っていた。生徒たちは、固唾を飲んで二人を見守る。止めるべき、テルティオーネも口出しなどしない。
ヨナが足下にボールを置き、対決が始まった。
「ボコボコにしてやるぜ」
ドワーフの少年は、自信とやる気に満ち溢れていたが――すぐに現実を知ることとなった。
「遅い」
「くっそ」
雨でぬかるんだ運動場。
水で濡れて重たくなったボールを、ヨナが爪先で器用にコントロールする。
そこに向かって、ハマルは短い足――ドワーフだから仕方がない――を伸ばすが、まるでからかうようにボールを引き、ドワーフの少年の横をインサイドキックでボールを通して置き去りにした。
「ちっ、くしょう」
ボールには追いつけない。
だから、ハマルはボールではなくそれを追うヨナに肩から体当たりをする。
足が短くとも、体の頑健さはドワーフの誇り。
吹き飛ばされ、泥だらけになるアルビノの少女を思い浮かべるが――
「……甘い」
だが、それも通用しない。
逆に下から体を押し当てて、ドワーフの少年を弾き飛ばしてしまった。
この重たいグラウンドだからこそ、身体能力の違いが如実に現れる。
「どうして……」
尻餅をつきながら、呆然とするハマル。
泥で汚れていることなど、気にならない。ただ、現実を受け入れることができない。
想像もしていなかったのだろう。
見た目は華奢なこの少女が、屈強な大人顔負けの体力を誇っているなどと。
理解していなかったのだろう。
彼女が、最後まで〝虚無の帳〟と戦い抜き、世界を救った一人であることを。
彼が――無意識にせよ――自覚していたのは、ひとつ。
このままでは、すべてを失ってしまう。
「うおおっっっ」
もう、こうなったらボールなど関係ない。相手が誰だと考える理性もない。
ただ保身のために、ハマルが拳を振り上げてヨナへと突進する。
二人の決闘を見ていた生徒たちから悲鳴が上がる。だが、テルティオーネは動かない。
問題はなかった。ヨナにとってはどちらも眼中にないから。
ドワーフを赤い瞳で見つめるヨナは、特に慌てるでもなく考えていた。
蹴り飛ばす。殴りつける。超能力を使用する。
どれが最も簡単に、事態を収拾できるのか。
泥をはね飛ばしながら、泥まみれのドワーフが近づいてくる。
この瞬間から観察する者がいたならば、白い少女が吹き飛ばされる未来を予想するはずだが――現実は異なる。
軽く乾いた音が運動場に響き渡った。
「え?」
結局、ヨナが選んだのはそのどれでも無い。平手でドワーフの頬を叩き付けることだった。
自分がなにをされたのか理解できないと、目を丸く見開く。
じっとこちらを見つめる赤い瞳。
なにひとつ感情の揺らぎが存在しない表情。
所々泥に汚れていても、なお白さが際だつ髪。
ここに至って、ハマルはようやく自分が誰に反抗したのか気がついた。
そして、心がぽっきりと折れる。
そのまま、膝から崩れ落ちた。
泥が跳ね、粘着質な音が運動場に響く。
アルビノの少女はそれで終わったと、ハマルのことなど見もせずにその場を立ち去ろうとした。
「待てっ」
ヨナは止まらない。
「待って下さいっ!」
止まらない。
「子分にしてくれ。いや、してください!」
その意外な言葉で、ようやくヨナは立ち止まった。そして、心底不思議そうな顔で、膝をついたままのドワーフの少年を見つめる。
決着が着いた。
それは、ヨナが考えたとおり。
一方、ハマルとしては完膚なきまでに叩き潰され、恨む気持ちもない。そうなれば、残された道は服従だ。
これは、ヨナは想像もしていなかったこと。
「お願いです、ヨナ。ヨナさん、ヨナ姐さん」
「…………」
最後の呼び名が、心の琴線に触れる。
それに気づいたのはテルティオーネだけだが、確かに効果はあった。
力の差による上下関係。そこから生まれる友情めいたものもある。
少女は、今、それを知ることになった。
???「ああ、トルデクくん? いや、用って程じゃないんだけど、キミの甥御さんのことでね、ちょっと話をしたいななんて」
――なんて展開にならずに済んで、一番ほっとしているのは間違いなく作者です。