2.祭典の夕べ(前)
その日、ハーデントゥルムの空気は、朝からやや落ち着きを欠いていた。
ここ数日は過ごしやすい気候だったが、六月も半ばを過ぎいきなり気温が上昇したのが理由のひとつ。
もうひとつは、少し前から至る所に設置された看板や張り紙で告知されていた“朱色”の披露イベントが今夜に迫っているからだった。
更に、賑やかな音楽と共に芸人たちが街を練り歩き、歌に乗せて開催を知らせていく。これは、ユウトの発案にラーシアが乗っかったものだ。
聡い者は、これが再興しつつあるニエベス商会が、領主に奇異でいて魅力的な服を着せるなどして以前から仕掛けていた、パブリシティの集大成だと気付いただろう。
更に聡い者は、ニエベス商会が今回売り出そうとしている衣服は、衣服の概念そのものを覆す革命的なものだと興味と同時に恐れすら抱いていた。
だが、レジーナたちがターゲットとする大多数の人々は、なにか出し物をやるらしいという認識でしかない。
まずは、それで良いのだ。
いつもなら、屋台や料理屋で夕食を買い込み家路を急ぐものが多い夕刻。けれど、今日は人の動きが異なっていた。
もちろんすべてがではないが、港湾地区へと多くの足が向けられている。
なにか出し物があって、珍しい物を売るらしい。
その程度の情報でも、人は動く。そんな娯楽を求める心と金銭の余裕が、この街の多くの人々にはあった。
一方、それを眺めるだけで参加しない者もまた一定数存在する。
「ふんっ。気楽なもんだな」
大通りに面したとある酒場。暑さに耐えかね外にテーブルを持ち出してぬるいエールを呷っていた男が、不愉快そうに鼻を鳴らした。
商売は順調だが、忙しさに比例して最近白髪が目立ち始めている。それに気づいたとき以来の不機嫌さだ。
「だが、成功するだろうな」
「そうか? かなり強気な値段だと聞くが」
テーブルを囲む、残る痩身とでっぷりとした男が会話を引き継ぎ、ニエベス商会の活動へ論評を口にする。
規模は違えど、ここに集った三人は皆商売に携わる者。一家言あるのも当然だろう。
「そうだぜ。倍どころじゃねえって話だ」
庶民が新品の服を買うということはほとんど無く、普段着は自分で縫うか古着を買うかというのが一般的。
そんな中、ニエベス商会――いや、ヴェルミリオは金貨一枚前後で服を売ろうとしている。
「それは、考え方が違っているのだ。ただの服なら、どこでも買える。だが、そこでしか買えないという価値、美しくなりたいという願望。それに金を払うとなれば、話が別だ」
同じ商会に同時期に入り苦楽を共にした、朋友とも言える三人。
その中でも、この痩身の男の見識は際立っていた。こいつがそう言うのであれば、事実なのだろうと信頼される程度には。
「普通に売り買いするだけでも、下手を打たなければ、それなりの成功はする。けどな、大成功をするのは、欲しいと思わせるものを作ったやつだ」
「けっ。俺だって、ニエベス商会ぐらいのコネと資金がありゃ、いくらでも成功させてみせるぜ」
「そうか。それは良いことを聞いた」
白髪交じりの友人が発した負け惜しみを、痩身の男は口の端を上げて拾った。
「ああ、なにがだよ?」
「行商から帰ってきたばかりでは、知らなくても無理はないが――俺たちでも、大商会の会頭になれるかも知れないチャンスだ」
そう言いながら、痩身の男は懐から数枚の羊皮紙を取り出した。
それは、ユウトが布告させたドゥエイラ商会の会頭を公募する事業計画提出に関する要綱だった。ハーデントゥルムやフォリオ=ファリナの行政機関で、無料で入手できる。
「こいつは……」
提出された事業計画や最低で数年間の成長プランを精査し、最も優秀と判断した者にドゥエイラ商会の運営を任せる。
そこまでには至らずとも、有望な事業計画であれば、融資をする。
現実とは思えない。独立志向を持つ商人にとっては、本当に夢のような布告。
「運が回ってきたな」
「てめぇ」
正直なところ、さっきのは負け惜しみだ。嫉妬だ。現実には、なんの裏付けもない。
だが、男も商人の端くれ。やりたい事業、夢に見た計画。そんなものはいくらでもある。
「行くぜ」
「おい、どこにだよ」
「まずは、ニエベス商会のお嬢ちゃんたちがどんなもんか、この目で確認してやる」
白髪交じりの男は立ち上がって残ったエールを一気に飲み干すと、人波をかき分けて駆け足でイベント会場へと向かっていった。
六月の晴れた夜――雨が降ったら、ユウトが《天候操作》でどうにかしただろうが――ハーデントゥルムの港湾地区は、昼間をも超える人が集まっていた。
昼間は荷の積み卸しが行われ、威勢の良いかけ声が響く港。逆に、夜は人気の無い寂しい場所だったが、それはつまり、大勢の人間を収容するのに都合が良い場所でもあった。
メインステージとモデルが歩くキャットウォークは、ユウトが《石壁》の呪文を応用して五分もかからずに作り上げた。
キャットウォークの周りには、これは事前に作っておいたベンチが並べられている。舞台を見ることができるのは、この観客席と港に停泊している船の上からだけだろう。
ファッションショーということでなにも考えずに作った舞台だが、当然、この世界では初めての形式だ。そして、演出や音響もすべてこの大魔術師が担当する。別の意味でコストのかかった舞台だ。
だが、開演を間近に控え、一番人を集めているのは周囲に配置された屋台だった。
言うまでも無くラーシアとその配下が出店しているブースは、ケチャップではなくマスタードで味付けをしたホットドッグ、ヨナとエグザイルが遥か北方の流星湖から切り出した氷で冷やしたワインや果実水、アンズなどの果実に水飴を絡めたものなどを販売していた。
いずれも発案者にとっては身近だが、この世界では物珍しい品で、飛ぶように売れていた。
「今回、一番得をしたのはラーシアだろ」
ステージ袖から、その光景を眺めていたユウトがあきれたように言う。
彼自身は出演することはないが、演出担当として詰めている。側には、責任者のアカネとレジーナもいた。
ただ、この後使用する大道具や小道具のせいで、スペースは狭い。自然と密着しそうになるのだが、鉄の意思力で吐息や体温を意識からシャットアウトする。
ちなみに、ヴァルトルーデやアルシア、ヨナは、別の場所で待機中だ。
「シナジーを狙ったんだけど、今のところはちょっと劣勢ね」
アカネも、あっさりと負けを認めてしまう。
それも無理は無いと感じるほどの盛況ぶりだった。下手をすると、なんのイベントなのか分からなくなる。
「大丈夫です。開演が迫ったら営業を終了するよう、搬入量を規制させましたから」
「さすがレジーナさん」
「もっと厳しくしてやってください」
それはユウトがラーシアへは甘くなると言っているのと同じなのだが……とにかく、ラーシアとその配下が屋台の店じまいを始めるに従い、ステージの周囲には人が集まり始めていた。
全体的には女性が多く、カップルや家族連れも目に付く。
ヴェルミリオの従業員たちが一部を除き揃っているのは当然として、評判を聞きつけたハーデントゥルムの住人や商人。人間の他に、エルフ、ドワーフ、草原の種族などの異種族の姿も見える。
性別や年齢が千差万別であるのと同様、イベントへの期待度や熱意も上下で開きがあった。
偶然、街中でヴァルトルーデやアルシアの姿を見かけて以来この日を待ち続けた熱心な少女もいれば、なんだか騒ぎになっているからよく分からないけど来てみたという男性もいる。
そんな中、ユウトが《風が運ぶ声》の呪文を使用して開演のベルを響かせた。
同時に、ステージ周辺にいくつもの《踊る燈火》が舞い、観客の視線を集める。
闇の中、光が蛍のように舞う幽玄の趣すら感じる光景。
それが周囲を何周もして充分観客の目を釘付けにしたところで、ステージの中央へと集まり、闇を駆逐した。
「おおー」
「ずっと、あそこにいたのか?」
「気付かなかったぞ」
一部の《踊る燈火》がステージ中央にかけていた《闇影》の呪文を相殺し、残りの《踊る燈火》が《闇影》の中で息を潜めていたモデルたちを照らし出す。
一番手は、ヴェルミリオの従業員。その中でもスタイルや歩く姿勢が良い女性を三人選んで、舞台に立ってもらった。
観客席の一部から笑いも含んだ歓声が上がり、それを合図にしたかのように、三人はキャットウォークへと移動する。
先頭は、アルシアが恥ずかしそうに身につけていた体の線が出る毛織物のワンピースを着た黒髪の未亡人。
美人と表現して万人の賛同が得られるかは微妙なところだが、不思議な色香がある。
それに続くのは、白と水色のワンピースを身にまとった娘たち。それだけなら然程珍しいものではないが、ブーツを合わせた自由なファッションに、ワンピース自体のデザインも洗練されており、この世界の物とは一線を画している。
そんな彼女たちの周囲を《踊る燈火》が跳び回り、見るものに催眠をかけるかのように魅力を強調した。
もう、ざわめきも聞こえない。観客は皆、彼女たちに、彼女たちの衣装に見惚れていた。
彼女たちの出番はほんの数分だったが、もっと長く感じたことだろう。
一番手の三人がステージ裏へと戻ると、入れ替わりにレジーナとアカネが現れる。
「さあ、行け」
ただし、その姿は観客にはまだ見えない。
見えているのは、ゴーレム馬に引かれた《灰かぶりの馬車》だけ。
滑るようにステージ上を一周してから、乗降口をキャットウォークにぴたりと合わせて停まると、真紅の絨毯が飛び出て通路を華麗に飾る。
続けて降りてきたのは、メイド服姿のアカネ。
黒地のロングドレスに腰で絞った白いエプロンをあわせ、今はホワイトブリムまで身につけた正統派のスタイル。
そのアカネが傅くのは、肩をむき出しにしたノースリーブのドレスを身にまとったレジーナだ。
繊細なレースで装飾された白いドレスは、彼女の豊かな胸を強調し、それでいてすっきりとしたウェストラインを実現し、ふんわりと膨らんだスカートは可愛らしい。
アカネからするとクラシカルな――それはそれで悪くないとも思っているが――正直、野暮ったいブルーワーズの被服。
そこから数百年は先を行く、モダンどころか未来のデザイン。
そんなドレスのお嬢様と、彼女に仕えるに相応しい衣装の使用人。
それが、たったこれだけで表現されていた。
ユウトもアカネも驚いたのだが、まだこのブルーワーズでは制服という概念が充分に浸透していなかった。
つまり、ある職業や立場の人間が必ず着る衣装というものが、一般的に存在しないのだ。
ならば、その概念を作ってしまえば良い。
それが、この組み合わせのコンセプトだった。
レジーナが絨毯に降り立つと同時にゴーレム馬がいなないてミニチュアへと変わり、《灰かぶりの馬車》は煙を出して消えた。
それをバックに、レジーナとアカネの主従が堂々とした足取りで赤絨毯をその終点まで進み、優雅にターンをして折り返す。
好きな人の見せ場だ。
ゆっくりと目に焼き付けたいところだが、ユウトはそれも叶わない。
「ああ、忙しいな……《火球》」
突如、ステージの舞台袖から上空へ向けて火球が放たれ、大きく爆発した。
観客席の誰もが、驚き、そしてその美しさに感嘆する。
その間に素早く舞台裏へと引っ込んだ二人に代わって、ステージに魔法銀の鎧を装備した聖堂騎士と真紅の眼帯と黒い法衣、トラス=シンクの聖印を身につけた大司教が姿を現した。