1.準備の夜
夕闇が、ハーデントゥルムの街を覆いつつあった。
そして、それを駆逐するために、玻璃鉄へ《燈火》を封じた街灯のシャッターが上げられていく。
ハーデントゥルム。
ブルーワーズ最大の都市フォリオ=ファリナと南方を結ぶ寄港地として発展してきた海運と商業の街。
積極的にではないにせよ事実上の自治を許されていたこの街が、イスタス伯爵家の支配下に置かれると聞いた時、現在の発展を予想できた者は誰もいなかった。
それも無理はない。伯爵という高位貴族に抜擢されたヴァルトルーデは、英雄であるが冒険者。つまり、内政手腕は未知数どころか絶望的だと判断せざるを得ない。
最良で現状維持。普通に考えれば、まず徴税で対立が起こる。そして、それを引き金に様々な問題が発生し、混乱が生じるはず。
それが大小を問わず、このハーデントゥルムで商売に携わる者たちの共通見解だった。
それをあっさりと、しかも宛てがいから一ヶ月も経たずに覆したのが、家宰である大魔術師ユウト・アマクサだ。
彼は、ハーデントゥルム随一の商会だったエクスデロ商会の不正を暴き、同時に長年頭を悩ませてきた海賊たちを文字通り一掃した。
さらに、港湾の修復工事で公共事業を推進して金を落とし、税制も変更して商会から金を市中に吐き出させた。
収入の増加が物価の上昇に勝り、制限はされているものの人口は増えている。
また、海賊の排除による海運の改善と、馬車鉄道による輸送革命でメインツとファルヴという新たな消費地を得た。メインツでは、玻璃鉄という新たな特産品も誕生する。
ついでだとばかりに、生鮮品を輸送するための氷まで大量に用意してしまった。
ここまで至れり尽くせりにされて、好景気にならないはずがない。
過去に類を見ないほどの繁栄を迎えつつあった。
有力商人や神殿関係者などから構成される評議会での自治は継続されたものの、こうなると伯爵家に。正確には、家宰に逆らうことなどできるはずもない。
露骨な飴と鞭の使い分けだと揶揄するものもいたが、現実に利益は出ているのだ。反抗する理由もない。また、基本的には温和なイスタス伯爵家の家宰も、理由もない反抗を許すほどお人好しでもない。
そして、この政策に歩調を合わせるかのように、ある夜を境にしてハーデントゥルムの裏社会が穏健派に塗り変わった。
これにより、交易自由都市ハーデントゥルムは安全と法の支配とを手に入れる。真っ当な手段で手にした財貨を禿鷹のように横からさらおうとする勢力は、綺麗に消え去った。
ある草原の種族を頂点とする新たな裏社会は組織自体を合法的なものへと切り替えを進め、健全で新しい娯楽すら提供を始める。
表向き、彼らとイスタス伯爵家は関わりがないことにはなっていた。だが、裏社会を牛耳った首領を知る者は、当然、その関連に気づかざるを得ない。むしろ、察しろと言わんばかりだ。
先を見通していたかのように的確な政策。
それは明らかに過大評価であり、タイミングはたまたまだったのだが、余人からそれが分かるはずもない。
そうでなくとも、イスタス伯爵家からの惜しみない投資で好況に沸く現状。
本人にはまったくそんなつもりはなかったが、この街では、ユウトはもはや生き神にも等しい存在になっている。
――そしてまた、新たな産業がハーデントゥルムに生まれようとしていた。
「みんな、休憩にしましょう」
ユウトの執務室で、神々に願った報酬を報告し合ってから二週間。
調理場から出たばかりのため制服にエプロンという格好のアカネが、トレイにお茶とお菓子を満載にして、その作業場へと入っていく。
以前、レジーナが用意した工房は手狭になったため、新たに倉庫を改造して作った服飾工場。
学校の体育館ほどの広い空間に大きめの作業台が並び、上は四十代、下はローティーンまでの女性が集中して針仕事に励んでいた。
アカネの一言でふっと空気が弛み、きりの良いところまで終えた工員たちが三々五々休憩スペースへと集まってくる。
「今日は、ドーナッツをあげてきたわよ。夕ご飯までのつなぎにして」
「やったー。お嬢のお菓子、大好き!」
「ちょっとは遠慮しなさいよ」
そうたしなめた娘も、甘い誘惑からは目が離せない。まずは若い娘が殺到し、かごに山ほど盛ったドーナッツが見る見る数を減らしていった。
一方、比較的年かさの工員たちは「お嬢」と呼ばれたアカネが数を見誤るはずがないと、先にセルフサービスでハーブティを淹れ、休憩スペースの席を確保する。
しばらくすると全員へ行き渡り、仲が良い者同士が固まって座って、一気に姦しさが急上昇した。
「ああ……。これだけで、お勤めして良かったって思えるわ……」
「エイミーは給料いらないってさ」
「いるわよ! あと、エイミーって呼ばないで!」
夜食には早いが、夕食を取る暇もない従業員のために用意したおやつ。
普段は残業などさせない健全経営がモットーの職場だったが、お披露目が近い今となっては、そうも言っていられない。
細かい作業だけに疲労の色は隠しきれないが、雰囲気は明るかった。
(文化祭の準備みたいね)
と、アカネはこの場では誰にも分からない感想を抱く。さすがに、夏冬のイベント前みたい……と言い出さないだけの分別はある。そこまで殺伐としていないからかも知れないが。
「お嬢、でも、こんなに砂糖と油を使ったお菓子、ただでいいの? 売れるよ」
「私が満足する味じゃないと売らないし、その場合、高すぎて売れないわよ?」
「うひゃー」
ここ数ヶ月ですっかり仲良くなった工員たちとアカネ。ちなみに、レジーナはアカネが言い出した「社長」と呼ばれている。偉い人程度の認識で、言葉の意味は分かっていないだろうが。
「はぁ……。こんな良いものを振る舞ってもらって、そのうえ、給金に住む場所まで用意してもらえるなんて。ここに来るまで、想像もしてなかったよ」
「ちょっと、バーバラさん。それ何度目よ」
「これだから、年増は……」
「若かろうがおばちゃんだろうが、需要があれば良いんだよ」
「くっ」
そう言って、バーバラと呼ばれた年増の女が胸を張る。それを見て、対面の娘が悔しそうにうめき声を上げた。
彼女らは、ハーデントゥルム周辺やイスタス伯爵領から募集したわけではない。
王都セジュールを中心に集められた、北の塔壁で防人として散った兵士たちの家族だ。
戦死時にそれなりの額の一時金を支払われているし、生活が立ちゆかない者には年金も支給されている。それでも寡婦の生活は苦しく、王国側の福祉政策にも予算の制約という現実が存在していた。
そこに、金に糸目をつけたことがない――さすがに誤解なのだが――イスタス伯爵家から、彼女たちの移住と雇用の提案があった。
仕事は、仕立てだが簡単な針仕事ができれば受け入れる。
同時に提示された条件も日当銀貨4枚に衣食住は提供すると破格で、編み物や靴作りの技能があれば、さらに優遇。家族一緒に移住も可。
この好条件に応募が殺到する――どころか、最初は大いに怪しまれてしまった。確かに、人さらいではないかと誤解されても仕方がない。
最終的に王家からの保証もあり予定人員は確保できたのだが、彼女たちは自らの選択の正しさと巡り会いとに感謝することとなった。
待遇が良いだけに仕事はきついかと思いきや、一日八時間労働で休憩もあり、しかも週に二日も休みがある。もっと働かせてくれという意見が出たほどだ。
仕事内容も、レジーナはアカネと相談の上、分業化を徹底した。
ある部分の縫いつけや裁断のみを担当させるようにし、様々な負担を軽減。そのうえ、大魔術師の全面協力により、失敗しても資材は修復される――つまり、本番で失敗できるのだ。
嫌でも、スキルは上がっていく。
とはいえ、これほどの無茶をしなければ、ほんの数ヶ月で新ブランドの立ち上げなどできはしなかっただろうが。
「ううー。あまいー」
「おいしー」
「しあわせー」
比較的若い娘たちが集まった一角は、お喋りよりも食い気が勝っているようだ。まだ温かなドーナッツを両手で確保して、順番に口に運んでいる娘までいた。
「……別に、変なものは入ってないわよ?」
彼女たちの知能指数が下がっているかのような不安に襲われ、おかわりを運んできたアカネがとりあえず言っておかないとと、口を開く。
「だって、おいしいんだもん」
「それは良いんだけどね……。でも、食べ過ぎちゃダメよ?」
若干あきれたようなニュアンスで言うアカネだったが、内心では快哉を上げていた。試行錯誤の末、こちらの人の口に合うよう密かに改良を続けた甲斐があったというもの。
こちらの人間の好み。それを端的に言うと、味の濃さと甘さが正義。ストレートと言うべきか、単純と言うべきか。
かなり身も蓋もないのだが、地球の味を押しつけても仕方ない。ただ、彼女たちの体のサイズを採寸した平均値から型紙を作った経緯もある。できれば体型は維持してもらいたいところだ。
「お嬢、お嫁に来てください。私、幸せになります」
「あんたがなるの?」
「良いけど、稼ぎがないとこんな贅沢できないわよ?」
「きっと払います! 後払いで!」
「それは聞きたくなかったわ……」
「というか、お嬢は旦那のものでしょ?」
「でも、あの旦那はお嬢だけでなく美人ばっかり侍らせてるのよね」
「うらやましい……」
「え? それって?」
もはや、姦しいどころの騒ぎではない。
他のテーブルからも注目を集めているが、残念ながら、いつものことでもあった。
「アカネさん、お任せしてごめんなさい」
そこに、ややウェーブしたブロンドを揺らし、レジーナが姿を見せた。“社長”の登場に、弛緩した空気が一気に張りつめる。
気さくな人物だというのは分かっているが、雇用主が相手では緊張せざるをえない。
「あ、勇人っ」
彼女の向こうに婚約者の姿を見つけ、エプロンを外しながらアカネが駆け寄っていく。物言いたげな数十の視線が集中するが、無視。それくらいの度胸がなければ、ヴァルトルーデやアルシアと一緒に彼の婚約者などできはしない。
「お疲れ。こっちの準備はだいたい終わったよ」
「はい。リハーサルもばっちりです」
ユウトとレジーナが並んで、そう報告をした。傍目にも、二人は良い関係に見える。それは、アカネも否定できない。
「そういえば、社長が旦那の愛人だっていう噂を聞いたことが……」
「ありえる」
聞こえてはいるが、ユウトは咎めなかった。
そんなことをしたら、横で少し照れているレジーナがどうなるか。そして、尾鰭がどれだけ巨大になることか。
ユウトは、藪蛇の真の意味を知ることになるだろう。
それ以上に、正直、この空間は気後れする。
女性に囲まれているという意味では、領地経営の補佐を頼まれた一時期はそうだった。美しさという意味では、ヴァルトルーデやアルシアに比べるまでもない。
しかし、数は暴力だ。
圧倒的アウェー感。下手なことは言えず、愛想笑いしかできない場所がそこにはあった。
「当日は、照明係としてがんばるよ」
「今更ながら、勇人を演出に使うとか許されるのかしらね?」
「ほんとに今更だな。でも、俺に声をかけなかったらヴァイナマリネンのジイさんが出しゃばってくるぞ」
「あー。それは困るわね」
ヴァイナマリネンとは、あの大賢者様のことだろうか? まさか……と、レジーナと工員たちが同じ疑問を抱く。同時に、あの大賢者様を近所の口うるさい老人のような扱いをするなどあり得ないとも。
確認するのもはばかられ、レジーナは別の疑問を口にした。
「それでアカネさん。こちらの準備はどうです?」
「計画通り進んでいるわ。作業の進捗も大丈夫そうよ」
「よかったです。間に合いそうですね」
そう微笑むレジーナだが、声は少し弱々しく、目の隈も化粧で隠し切れていない。
けれど、それ以上に充実感で溢れていた。
アイディアを出し実際に作業も手伝ったアカネだが、レジーナの組織運営がなければ絵に描いた餅で終わっていたに違いない。
予定外の妨害もあったが、それを乗り越えたことで、逆にドゥエイラ商会の在庫を使用できたという恩恵もあった。
ゴールは近い。
休むのは、それからでも良いはずだ。
「さ、休憩は終わり。みんな、もう一頑張りしましょう」
「はい!」
ブルーワーズの歴史上初となるファッションブランド、“朱色”のお披露目は一週間後に迫っていた。