8.最愛の(後)
「分かっちゃ、いたけどな……」
自分の前に現れるとしたら、ヴァイナマリネンのように仲間たち全員か、あるいはヴァルトルーデのどちらか。
それは予想していたことだったが、覚悟まではできていなかったようだ。
ユウトは無意識に呪文書を強く握り、精神世界に現れた透き通るように美しい聖堂騎士をじっと見つめる。
「ユウト、事情は概ね理解している。私がここに現れたのは、天命とも言えるだろう」
まだ討魔神剣を抜いてはいないが、ヘレノニアの聖女は闘気を溢れさせ、完全にその気になっていた。
麗騎士エルドリックがヴァイナマリネンへ言い放ったように、彼女もユウトと戦ってみたいと思っていたのだろうか。
その考えを、ユウトは即座に否定する。
ヴァルトルーデは、確かに戦士としての誇りを持っているが戦闘狂ではなく、あの二人のようにライバル関係にあったわけでもない。
(なら、俺と戦うことに理由がある)
「安心しろ。あの狂える全知竜なら、手出しはしない」
「しないのか、できないのか。それによって安心の度合いが変わってくるんだけどな」
それ以上は、なにも言わない。ユウトも、そこまで都合の良い話を期待していたわけではないので、とりあえず受け入れることにする。
彼女の背後で翼を大きく広げてこちらを見下ろし、威嚇しているようにも怯えているようにも見える狂える全知竜ダァル=ルカッシュの精神体。
それを眺めながら、異世界から来た大魔術師は確信した。
彼が知り、愛する彼女は、無駄な戦いをするような人間ではない。
そして、どんな意図があるにせよ、ヴァルトルーデと一騎打ちすることにユウトも異論は無かった。
やろうと思えば、あの大賢者のように精神的な揺さぶりをかけることで、障害を排除できるのかも知れない。
他にも、方法はあるかも知れない。
だが、再会した時、そんな報告はしたくない。
リ・クトゥアの時と同じだ。
どうせなら、正面からぶつかって、胸を張って土産話をしたい。
無意味な。それだけに重要な意地。
「やる気のようだな」
「ああ。ヴァルに付き合うぜ」
恋人同士と表現するには物騒な笑顔をかわし、二人は戦闘態勢を取る。
これから戦うのだと分かっていても、思わず見惚れるほど美しい所作で神から賜った神剣を抜き放つヴァルトルーデ。
それに対し、来訪者の少年は呪文書をめくって――途中、少しだけ眉をひそめたが――9ページ分切り裂いた。
「ただし、俺なりの正々堂々だけどな」
「くっ」
最短距離で駆け寄って一太刀浴びせようとした聖堂騎士だったが、大魔術師がどの呪文を発動しようとしているのか気付き、急制動をかける。
「《時間停止》」
精神世界にも刻の流れは存在する。
それをせき止め、ユウトは漆黒の空間を灰色の世界に書き換えた。音も動きも無い、彼だけの世界だ。
そう、彼だけの。
かつては共に刻が停止した世界で活動し、ユウトを恐慌状態に追い込んだ狂える全知竜は、介入はおろか身じろぎひとつしようとしない。
ヴァイナマリネンやヴェルガが規格外過ぎてそうは思えないが、あれだけの存在を呼び起こしたのだ。狂える全知竜も相当疲弊しているのだろう。あるいは、自らが喚起した存在にすべてを委ねているのか。
とりあえず、一騎打ちに手出しをしないというヴァルトルーデの言葉は信じて良いのだろう。
それに、今はそれよりも呪文書の内容だ。
「こいつは、どうなってるんだ?」
けれど、ユウトは刻を止めるなど些事だと言わんばかりに、呪文書に目を通す。先ほど覚えた違和感を確認するために。
「やっぱりか。準備してない呪文まで載ってるじゃねえか」
魔術師が操る理術呪文は強力だが、術者が知悉している呪文すべてを自在に発動することはできない。
その数は術者の力量により異なるが、その日の分を選択して準備をしなくてはならないのだが……。
「選び放題と言われると、逆に困るな」
意識体になっているせいではないだろう。考えられる可能性としては精神世界に侵入しているからというこの状況だが、検証をする時間もデータもない。
(なら、使えるのなら使ってやるぐらいに切り替えよう)
とはいえ、使用回数の制限もどうなっているのか分からない。選択肢が増えたせいで、最初考えていたプランも修正を余儀なくされる。
「……ここは、シンプルにいくか」
どうも、この空間だと独り言が多くなるなと苦笑しつつ、ユウトは次々と呪文を発動させた。
コンセプトは、一騎打ち。
ローブに対して、《魔装衣》。無限貯蔵のバッグに死蔵していた適当な長剣に《魔器》の呪文をかけていく。
どちらも保って一日だが、ユウトが使用すればその間は伝説に謳われる武具と同等の切れ味と防御力を与える。
次に発動した《大魔術師の盾》は、瞬間的な防御にも使用できるが、術者の周囲を不可視の盾で防御するのが本来の効果。
更に、術者に第六感を与える《本質直感》、筋力・耐久力・敏捷力を一時的だが大幅に上昇させる《猿の如く》といった呪文を次々と発動させていく。
いずれも、魔術師が近接戦闘を行う際に役立つ呪文だ。
《刀槍からの防御》は、さすがに討魔神剣には通用しないため諦めた。
ここで《時間停止》の効果時間が経過し、元の時間に復帰する。
「む。てっきり、後ろを取られているかと思ったが」
「まあ、そう思わせるのが目的だったんだけどさ」
読み合いで勝った……とは言えない。
今のユウトは――様々な呪文でスペックが強化されているため――各国の一線級の騎士を遥かにしのぎ、四年に一度ロートシルト王国の王都セジュールで開かれる剣闘武会で上位に入る程度の実力はある。
その彼が《本質直感》で察知したヴァルトルーデの隙を突き、《猿の如く》で得た身体能力を全開にして距離を詰め、《魔器》で強化した長剣を振るった。
「良い攻撃だ」
けれど、稽古をしているような気軽さで、聖堂騎士の幻は盾でしっかりと一撃を受け止める。
唯一とは言わないが、恐らく最大の勝機。
それがあっさりと潰えてしまった。
反撃が来るっ。
《本質直感》がなくとも分かる流れ。しかし、《本質直感》がなければ防御もままならない。
なにも考えずに長剣を引き戻し、それが幸運にも討魔神剣と衝突する。鋭い金属音、飛び散る火花、きしむ筋肉、全身を貫く衝撃。
防御の上から、精神を削る一撃。
ユウトは、本気で同情した。
今までヴァルトルーデと戦ってきた。そして、例外なく倒された悪に。
自分がその立場に立って分かる。こんな超人の相手をしてきたなんて、それだけで思わず同情と尊敬の念が芽生えてしまうではないか。
「なんつー無理ゲー」
直感に導かれるままユウトは飛び退り、ほんの少し前まで彼がいた空間を討魔神剣が抉る。
ユウトのように付け焼き刃でも身体能力に頼ったものでもない。長年の鍛錬に裏打ちされた、心技体の揃った斬撃。
完全にはかわしきれず、右腕がすっぱりと斬り裂かれた。分かっていたことだが、《魔装衣》による強化など、彼女の前にはほんの気休めに過ぎない。
それは意識体だけあってそれはすぐに修復されるが、斬られれば痛みは感じるし、無限に受け続けられるものでもない。
だが、これがユウトにできる精一杯。
《竜身変化》の呪文でドラゴンに変じる手もあったが、どうにも、それでヴァルトルーデに勝てるヴィジョンが浮かばなかった。意識体で、それは致命的だ。
(ひたすら距離を取って呪文を撃ち込みまくれば勝てるはず。けど、それは欲しい勝利じゃない)
理想に殉じようとするユウトだったが、現実に対処しなくてはそれも叶わない。
超一流の戦士からのプレッシャーを感じながら後ろに下がり、空いた左手で呪文書を開いて、右手に握った長剣でページを斬り裂く。
「《大魔術師の縮地》」
8枚の呪文書のページがふたつに分かれ、ユウトの足下へと吸い込まれた。虹色の輝きを放つ靴を打ち合わせる。
「瞬間移動か!」
「その通りだよ!」
来訪者の少年の姿がかき消え、今度こそ聖堂騎士の背後へ出現する。そのまま足下を狙って長剣を突き出すが、ヴァルトルーデは最低限の動きでこれを回避。
ユウトは深追いせず、再度靴を打ち合わせて右側へ大きく移動した。
《大魔術師の縮地》は、持続時間内であれば視界内の何処かへ瞬間移動が可能となる理術呪文。今のユウトなら、二十分程度は持続する。
「便利な呪文だな」
「なんで移動先が分かるんだよっ!?」
「ユウトの居場所なら、手に取るように分かる」
瞬間移動を終えたその時、魔法銀の鎧を身につけた、彼方の月よりも美しい聖堂騎士が目の前にいた。
機動力はこちらが上のはず。
それにもかかわらず、ユウトは徐々に追い込まれるような焦燥感に襲われる。
(状態感知の指輪かっ)
エンゲージリングを身につけてくれているのは嬉しいが、これは計算していなかった。
空気を裂くように――あればだが――して襲い来る神剣の刃を、なんとか長剣で受け止め、その膂力に膝を折りそうになる。
「逃がさないぞ」
「ぐっ」
ユウトが《大魔術師の縮地》を使おうとしたのを察知し、ヴァルトルーデが籠手と一体化した盾で殴りつけ、愛しい男を弾き飛ばす。
なんとか《本質直感》からの警告で直撃は避けられたものの、《魔装衣》の強化が無ければこれで終わっていたかも知れない。
紙一重とは言えないが、ユウトにとっては綱渡り。
「いってぇ……」
だが、意識体でまだましだったとも言える。
飛ばされながら、ユウトは何度か靴を打ち合わせて円を描くように短距離の瞬間移動を繰り返し、なんとか姿勢を制御した。
その終着点で当然のようにヴァルトルーデは待ち構えていたものの、その連撃は《大魔術師の盾》を文字通り盾にして受けきる。
しかし、それで《大魔術師の盾》は砕け散ってしまった。
悪の半神ヴェルガの秘跡によって生み出された《障壁》をも破壊した彼女だ。ある意味それも当然の結果だが、後が無くなったのも確か。
しかし、時間は稼いだ。
「《爆裂円陣》」
再び、器用に長剣で呪文書のページを斬り裂き、そのまま足下へ落下させる。
それに反応し、ユウトが先ほど瞬間移動した範囲が漆黒の中で輝く。
「私と心中するつもりか!?」
「それも悪くないけどな」
だが、この呪文ではヴァルトルーデは倒せないだろう。死ぬのは、ユウトだけだ。
爆風が吹き荒れるその寸前、ユウトはもうひとつの呪文を発動する。
「《鉄身》」
全身を鋼鉄に変え、著しく行動が制限される代わりに絶大な防御力を得る第八階梯の理術呪文。
漆黒の闇の中、爆炎が世界を紅に染める。
「くっ」
さすがのヴァルトルーデも無傷ではいられず、膝を折りかける。
再び訪れた。否、作り出した勝機。
ユウトは即座に《鉄身》をオフにし、《本質直感》に導かれるまま、伝説の武具と同等となった長剣を振り下ろし――途中でその手が止まる。
(勝つ? 俺が? ヴァルトルーデに?)
土壇場になって生じる違和感。
いや、最初からあったはずなのに、見落としていた。
爆煙の向こうで、サファイアよりも輝くヴァルトルーデの瞳が揺れる。それでためらったわけではないが、ユウトは敗北を悟った。
なぜなら、その聖堂騎士は討魔神剣を握っていなかった。
《本質直感》とは異なる予感に導かれ、ユウトは頭上を見る。
聖なる刃、不壊の神剣。
討魔神剣が、王を断罪する剣のようにゆっくりと落下してくる。
このままヴァルトルーデに剣を振り下ろせば、それに貫かれることだろう。
そこまで読んで手を打っていた彼女には、感心する他ない。
だから、ユウトは武器を捨てた。
そしてそのまま、頭上の刃をじっと見つめる。
「なるほど。元々、勝利も敗北も等価値だったわけだ」
討魔神剣に貫かれ、地にあって天を仰ぐ。
その状況でなお笑顔を浮かべたユウトの体が、泡のように消えた。