7.最愛の(前)
「さて、次は妾か婿殿か。どちらかの?」
「賭けなら乗らないぞ」
「おや。それは残念なことよ」
自ら生み出した玉座から、赤毛の女帝が淫靡に笑う。
「これ以上、ヴェルガに負債を持ちたくない」
ユウトは大きく息を吐き、周囲を見回した。
先ほど確かめたとおり、ダァル=ルカッシュの精神世界は負の夢の領域からの侵蝕を打ち破り、正常な状態を取り戻しつつある。
「今の状況を整理しよう」
実体ではないとはいえ、かつての仲間を――平和的にではあるが――消し去ったのだ。ヴァイナマリネンがどう思っているかは分からないが、ユウトには先を急ぐことなどできなかった。
その場に止まり、玉座に座るヴェルガへ話しかける。
精神体のヨナに重さをほとんど感じないのは幸いだった。
「俺たちが進む先に、狂える全知竜ダァル=ルカッシュの核とも言える精神体が存在するはずだ。俺たちがそこにたどり着き、排除されることを恐れているのだろう。全知竜はこっちの記憶を覗いて、最も恐れているか親しいものを選び出し、守護者にして妨害者とした。ただし、ある程度は意志を縛れても強制まではできないようだな」
「弱ければ妾たちの相手にならぬ。強ければ思い通りには動かぬ。ままならぬものよの」
「夢魔など負の夢の領域の存在が現れぬのも、無意味だから。女帝の言葉はその通りだと、ダァル=ルカッシュは肯定する」
「おおうっ」
いつの間に――恐らく、たった今なのだろう――現れたのか、ユウトたちの側に女性型の人形のようなものが存在していた。
いや、人形と表現するのは不正確か。
身長は、ユウトの胸の辺り。全身は皮膚や衣服ではなく虹色に輝くエネルギーそのもので構成されていた。なだらかな曲線を描く全身のフォルム。目も鼻も造形として存在してはいるが、感覚器官としては働いていないはずだ。
その有り様は六大の精霊に近いように思える。
なにより、その理知的な顔つきには見覚えがあった。
「ダァル=ルカッシュ!?」
「この精神世界に狂える全知竜が存在しているのなら、まともな方も同居しとっても不思議ではない。むしろ、当然のことだな」
あっさりといつも通りに戻った――そもそも落ち込んでなどいないのかも知れないが――ヴァイナマリネンが、その存在を肯定する。
「大賢者の言葉通りだ。狂気の支配力が弱まり、ダァル=ルカッシュが出てくることができた。天草勇人らには感謝に堪えない」
「それは良かった……んだよな?」
「ダァル=ルカッシュがサポートする」
やや得意げに言う全知竜に、ヨナがユウトの背中で威嚇するようにうなる。ユウトにはどういうことだか分からなかったが、とりあえずあごを撫でて黙らせた。
「まず、次は女帝ヴェルガ。貴女の記憶から構成された妨害者が現れる番だ」
「ほう。主役は婿殿ということかえ」
「直接殺した俺が、恨まれてるだけじゃねえかなぁ」
未来に起こる事象なら、狂っているとはいえ全知竜であれば知っていて当然だ。
「その点に関して、ダァル=ルカッシュは感謝している」
そこを感謝されてもなと、ユウトは苦笑を浮かべる。
死者から感謝されることなどあり得ない――と言い切れないのが、ブルワーズの奥深いところなのだが。
「それで、全知竜のまともな方よ。妾の相手は、いつ現れるのじゃ?」
「別に、自分で片づける必要は無いはずだがな……」
「ほう。婿殿は、妾との協同作業を希望か」
「語弊があり過ぎる!」
玉座に座ったままのヴェルガの淫蕩な姿から目を離し、天を仰ぐ。
闇しかなかった。
「今、現れる」
「えっ?」
ダァル=ルカッシュの唐突な言葉。
それがトリガーになったかのように、空間に歪みが生じた。
漆黒の世界を圧する霊気。
闇しか存在しなかった場を切り取り、そこに現れた偉大なるもの。
片目の無い、熟す直前の実のように青く、背徳的な美少年。風になびく黒髪が、また異質な美しさを強調する。
トーガのような薄い衣服を身にまとい、宙にあって徒人を睥睨する。
「悪神ダクストゥムだな」
ヴァルトルーデが奉じる“常勝”ヘレノニアの兄弟神にして、不倶戴天の大敵。力による支配を肯定し、博愛や自己犠牲を唾棄する悪なる存在。
悪の相を持つ亜人種族や悪に堕ちた人間たちからも厚く信奉され、特にその教団は密かに村や町を支配し、悪政を敷くこともあった。
ヴァイナマリネンのようにその名に思い至ったわけではないが、その圧力にユウトは思わず膝を折りそうになる。
知識神ゼラスにも感じた畏怖。神々に共通なのだろうが、悪神ダクストゥムから放たれる重圧はそれ以上だ。蜘蛛の亜神イグ・ヌス=ザドなど問題にもならない。
「婿殿が現れたら、どうしようかと思うたわ」
だが、赤毛の女帝は余裕を崩さない。
「さて。妾の記憶から現れし父上と久闊を叙する必要が、果たしてあるのかどうか」
「そこは心配しなくて良いさ。同一の存在と考えて間違いない」
「それはそれは。では、実際にお目にかかるのは、随分と久々となりますな」
「うん。会えて嬉しいよ、ヴェルガ。元気そうでなによりだ」
意外とどころではなく気安い悪神。父娘の会話そのものだ。
ただし、その威圧感は尋常ではない。別の場所でやってくれというのがユウトの偽らざる本音だった。
「ちょっと、ユウトに似てる?」
「そうかぁ」
ダクストゥムの意識がヴェルガへ向き、多少の余裕が生まれる。
盗み見るかのように観察するが、ユウトには黒髪であることぐらいしかダクストゥムとの共通点は見つからない。
「天草勇人と悪神ダクストゥムが似ているからヴェルガが求婚しているわけではないと、ダァル=ルカッシュは請け負う」
「嬉しく――」
そう軽口を叩いたところで、唐突に舌が凍った。
「黙っていろ、下郎」
どこが悪神の怒りに触れたのか。単純に、娘との会話の側で雑音を発したことが気に障ったのかも知れないし、他に理由があったのかも知れない。あるいは、特に理由も無かったのかも知れない。
それはまさに神のみぞ知る。
古代竜さえ射殺す、片目の魔眼。その視線を、ユウトへと向けた。
息が詰まり、指一本動かすのにも苦労する。
「まずは、取り巻きを殺すか。私は寛大だ。大人しくしていれば苦しまずに逝かせてやる」
「……お断りだ」
苦労して、それでもはっきりと聞こえるように、ユウトは神へ反逆の意志を伝える。
それを聞いたダクストゥムは目をむき、笑い、この精神世界の闇よりもなお昏い剣を取り出した。
「父上、婿殿は関係なかろう?」
「そりゃ、擁護になっとらんぞ」
大賢者の指摘は正しかった。
「ヴェルガ、黙って見ているんだ」
片目にむき出しになった憎悪を宿し、悪神は異世界からの来訪者を見下ろす。
ダクストゥムの神剣ダーク・ワンがユウトに向けて突きつけられた。
「父上、それはできぬ相談よ」
しかし、赤毛の女帝は真っ向から父神に反旗を翻す。淫猥さを感じさせる所作で玉座から立ち上がると、淫蕩な笑顔でいたずらをしかけるような表情を浮かべ秘跡を発動する。
「《創生》」
漆黒の世界に、白い光が現れる。
闇の中で広がっていった光は徐々に集束し、人の形を取った。
現れたのは、妙齢の美女だった。
ヴェルガと同じ情熱的な赤毛。その髪は美しいウェーブを描き、くるぶしまで達する。目鼻立ちがはっきりとした整った顔には穏やかで優しげな微笑が浮かんでいる。
物腰はしとやかで優美。黒地に金糸があしらわれた法服を着こなす様は、それだけで神の恩寵を感じ、膝を屈したくなる。
「全知竜と同じ所行、妾にできぬ道理は無いわな」
悪の半神は満足そうにうなずき、再びしどけなく玉座に腰を下ろす。
ヴェルガの秘跡によりダクストゥム同様産み出されたのは、悪の愛妻ベアトリーチェ。
ダクストゥムを地上へ呼び出すため数万の命と魂を捧げ、百年に亘り神を地上に監禁し、その子を宿した希代の悪女。
そのベアトリーチェは嬉しそうに、溢れんばかりの愛情を全身にみなぎらせ、しゃなりしゃなりと愛する夫神へと近づいていく。
感極まって、喋ることもできないようだ。
ヴァルトルーデが奉じる“常勝”ヘレノニアの兄弟神にして、不倶戴天の大敵。力による支配を肯定し、博愛や自己犠牲を唾棄する悪神ダクストゥム。
その上位神が、顔をひきつらせた。
ダスクトゥムとベアトリーチェ。
共に大いなるものだが、そういった装飾をすべて取り去れば、美少年に迫る美女にしか見えない。
「父上の相手は、母上に任せるのが適当であろう」
「そ、それは……」
確かに、そうなのだろう。
釈然としないが、ユウトは重圧から解放され行動の自由を取り戻す。
彼がまず行なったのは、ヨナの目と耳を塞ぐことだった。
「女帝ヴェルガの行いは、実に効率的だとダァル=ルカッシュは評価する」
「正直、俺は狂える全知竜に同情しかけている」
相手が悪かった。
そう言ってしまえばそれまでだが、コンセプトがまったく機能していないのはどういうことなのか。
やはり、相手が悪かったのだろう。
「世界中の純文学に謝るべきだろ」
「婿殿の言っている意味はよく分からんが、父上と母上が仲睦まじゅうて、妾も嬉しい」
「その定義はおかしい」
情報を遮断されたヨナは首を傾げ、ヴァイナマリネンは愉快だと言わんばかりに笑っている。
この場に、まともな神経を持つ者が自分以外いなかった。
それが狂える全知竜の敗因なのだろうかと、更に闇が縮小した精神世界でユウトは思う。
「安心していい、天草勇人」
「……なにをどう、安心しろと?」
「天草勇人の心配は、最後で取り除かれる」
「それはどう――」
どういう意味なのかと言いかけて、ユウトはそれを果たせなかった。
理由は、至極簡単。
目の前から、ダァル=ルカッシュのみならずヨナたちまで消え去ったからだ。
いや、正確にはユウトの方が消えたのだろう。
書架も存在しない、一切が闇に閉ざされた空間。
その中で赤々と光る真紅のドラゴン。
狂化した狂える全知竜ダァル=ルカッシュが、ユウトの前に屹立していた。
(俺だけここに転送されたのは、各個撃破したかったから? いや、今までも協力なんかしてないしな。もしかしたら、みんなも同じように――)
しかし、その思考は中断を余儀なくされる。
「……やっぱ、そうくるよな」
なぜなら、狂える全知竜ダァル=ルカッシュの足下に、ユウトがこの世で最も愛する人物がいたから。
この世界で初めて見たものが、この世界で最も美しい物だった。
それは、幸運なのか不幸なのか。
実物と寸分違わぬそれを見て、ユウトはそんなことを考えていた。
千差万別であるはずの美という概念をねじ伏せ、万人を蕩けさす美貌。
その外見だけでなく、魂が信条が心が美しく、それが魅力としてにじみ出る。
ヘレノニアの聖女。
最高の聖堂騎士。
大魔術師の宝物。
ヴァルトルーデがそこにいた。
シリアスシリアスシリアス。
というわけで、じ、次回こそはシリアスになります。