4.幼なじみの関係
アルシアは、ユウトやヴァルトルーデと別れた後、城塞内の自室へ戻り瞑想を行なっていた。
瞑想といっても、大それたものではない。
ただ、跪き神に祈る。それだけだ。
彼女が仕えるトラス=シンクは死と魔術を司る女神である。
しかし、権能にない願いを聞き届けてくれぬほど、狭量でもなかった。そうでなければ、《悪相排斥の防壁》の呪文を信徒に授けるはずがない。
故に、彼女は安寧と領地の発展とかけがえのない友人たちの無事と幸せを祈る。
それが、聞き届けられたという確信。そして、未来への警告はなかったという安堵。
次第に外界の情報は遮断され、自身の内へと深く深く潜っていく。生来目が見えない彼女には、造作もないことだ。
やがてアルシアという個は希薄となり、深く深く潜った先にある大いなるものへとつながっていく感覚に支配される。
神との交感。
大いなるものの意志に触れ、自らを大いなるものと同一化する。
安心感と恐怖。
そんな相反した感情に包まれ数時間が過ぎた頃、アルシアは不意に息を吐くとゆっくりとした動作で立ち上がった。今まで硬直していた影響を微塵も感じさせない滑らかな動き。
「ヴァル、入っていいですよ」
「う、うむ……」
少し前から扉の前で所在なさげにしていた幼なじみを部屋に招き入れながら、アルシアはどうしたものかと細く長い指で唇をなぞる。
やってきた華やかなヴァルトルーデに比べ、飾り気のない質素な部屋だ。
窓際に置かれた簡素なベッド、小物を入れる戸棚、中身が充実しているとは言えない服飾箪笥。それに、瞑想用の敷物程度しかなかった。それも、すべて地味なものだ。
ユウトからはもっと金を使うように言われているが、必要でない物に浪費するのは気が引ける。王都セジュールにある家から持ち込まなかっただけ、まだましだと思っていた。
「とはいえ、やり過ぎたかも知れませんね……」
「どうした?」
いえ、なんでもと軽くかわしながら、アルシアは椅子のひとつもない部屋に少しだけ後悔をのぞかせた。伯爵様と大司教がベッドに二人で座って相談事とは、様にならない。
「それで、どうしたの?」
「私は愚かだ」
肩を落とすヴァルトルーデの要領を得ない返答に、しかし、アルシアは急かしもいらだちもせず、じっくりと続きを待った。
(昔は、もっと素直に話してくれたわね。脈絡もなかったけれど)
それが成長の証しなのかは分からないが。
アルシアとヴァルトルーデは、同じオズリック村に産まれた幼なじみだった。
生まれつき視力に障害のあったアルシアが生き残れたのは、早くから神との交感を果たし、神術呪文の使い手としての才能を見せていたからに他ならない。
しかし、それ以外はなにもできなかったという意味でもある。
一方、ヴァルトルーデは生まれながらにして掛け値無しの天才だった。
幼くして、筋力・敏捷力・耐久力・判断力のいずれも大人を遥かに凌駕し、聖堂騎士に必要な素質をすべて兼ね備えていた。
同じ村に産まれたということ以外は、接点のない二人。
そんなアルシアのもとへ毎日やってきては、外の世界のあれこれを楽しそうに語る幼いヴァルトルーデ。
たいていは、村の中の出来事や、同年代の子供たちとどんな風に遊んだかといった他愛もない話。だが、稀に起こる子供同士の諍いや、近くの森に住むゴブリンたちとの争いについての話もあり――中には、アルシアの何気ないアドバイスで解決した事件もあった。
やがて、ヴァルトルーデの存在がアルシアにとっての光になっていく。
ヴァルトルーデにとっても、話を聞くだけであっさりと問題を解決してくれるアルシアは、頼りがいのある姉のような存在だった。
二人の関係が決定的になったのは、共に十二才になったある冬の日。
はにかみながら――アルシアには見えないはずだが、なぜか分かった――ヴァルトルーデが差し出した、深紅の眼帯。
擬似的な視覚を与える魔法具を身に着け、文字通りアルシアの世界は一変した。
どうやって手に入れたのか、ヴァルトルーデは今でも決して語ろうとしない。だが、二人の住むオズリック村は、人口千人ほどの村だったが、元冒険者だった戦士と魔術師が協力して統治していた。そのことと、無縁ではないだろう。
つまり。
(この子を不幸にするのであれば、ユウトくんでも許しはしませんよ……)
ということになる。
「私は、ユウトに酷いことをしていた」
「心当たりはありませんが……。また、ヴァルの勘違いでは?」
世間で言われるような聖女ではないが、仲間に対して理不尽な行いをしたこともない。良くも悪くも公明正大なのがヴァルトルーデという少女だった。
「またとはなんだ」
露骨に不満そうな表情を浮かべて、ヴァルトルーデが抗議する。
その雰囲気を感じ、アルシアは心の中で微笑んだ。さっきまでの暗く沈んだヴァルトルーデよりも、ずっと良い。
「ついさっきのことだ。ユウトから、準備が整ったら元の世界に帰ると言われた」
「そう……ですか」
アルシアの声は重たい。
予想はしていたが、実際に言葉にされると胸の奥に重たいしこりのような物が生まれるのを自覚する。頭が冷え、顔から少し血の気が引いているかも知れない。
「その時、ユウトの故郷の話を聞いたのだが――」
彼の出身世界は、このブルーワーズよりも数段発展した世界だったようだと、ヴァルトルーデが説明を始める。
それを聞いて、アルシアも驚きに言葉を忘れた。
「そんなユウトを私は一緒に〝虚無の帳〟と戦わせ、それが終わってもこの世界に残ってほしいなどと願ってしまったのだ」
「ヴァル一人ではありません。望んだのは、私たちですよ」
共犯者が増えたところでヴァルトルーデの負担が軽くなるとは思わなかったが、それでも言わずにはいられなかった。
「つまり、ヴァルはユウトくんを私たちの事情に巻き込んだことを気にしているのですね。今更」
「今更……。まあ、確かにそうなのだが……」
「それに、ユウトくんだって私たちと一緒にいて嫌だったとは思っていないはずです」
「そう……。そうだな」
少しだけ浮上するヴァルトルーデに手応えを感じながら、アルシアは急速に思考と話をまとめていった。
「そういうことなら、話は簡単です。ユウトくんが帰りたくなくなるようにするというのはどうですか?」
「ユウトが、自分の意志で残る……?」
自分で帰ると決めたユウトが、そう簡単に前言をひるがえすだろうか? そう疑問を抱くヴァルトルーデへアルシアが夕食のメニューでも告げるかのように言った。
「例えば、子供ができるとか」
「子供!?」
「孕ませておいて、それでも帰ろうとするのであれば、それはクズ野郎ということで、あっさり諦めもつくでしょう」
「いやいやいや、待て」
思わず立ち上がったヴァルトルーデが、頭痛をこらえるかのように額に手をやる。
「なんで、子供なんだ」
「ユウトくんの故郷だと、子はかすがい――子供が夫婦仲を保ってくれるということわざがあるとか」
一理ある。
そう頷きかけて、これがアルシアの巧妙な罠だとヴァルトルーデは気付いた。
「そ、それでは脅迫同然ではないか。それに、その前にやるべきことがあるだろう?」
「ありますね」
涼しい顔で、アルシアが首肯した。
「まず、押し倒しますか」
「違うからな!?」
この辺りで、からかわれていることにも気付いたのだろう。ヴァルトルーデが頬を膨らませてアルシアに抗議する。
ユウトが見ていたら、あまりの可愛らしさに信じてもいない神に祈りを捧げていたかも知れない。
「まあ、最悪、私がユウトくんを押し倒しても良いのですが――」
「アルシア?」
「適任者がいるので、私はヴァルの次で良いですよ」
「次など、必要ないからな!」
「まあ、それはそれは……」
失言だったと後悔しても遅い。
顔を真っ赤にしたまま、ヴァルトルーデはぼふんと勢いよく俯伏せにベッドへ倒れ込んだ。キュロットスカートのままなので、特に支障はない。まあ、覗いている人間などいるはずもないが。
「いや、違う。だから、その、要は、ユウトが私と離れたくないと思ってくれれば良いわけだな?」
それがヴァルである必然性はないですが――とは、言わない。話が進まないからだ。
「まずは、少しはユウトくんにアピールしましょう」
だだっ子のようにベッドで暴れるヴァルトルーデ。その月の光のように美しい髪を撫でながら、アルシアが言った。
意外にも、その機会は翌日訪れた。
残念ながら、アルシアとヴァルトルーデとでは、ユウトに見せたい良いところが違っていたのだが。