5.ツァリーヌ
ユウトは指定されたビルの階段を上り、目の前の重厚な扉を躊躇なく開いた。
以前なら、場違いだと気後れしていたはずだ。けれど、ブルーワーズでの経験で、そんな遠慮はなくなった。良いことなのかは判断がつかないが、今回は招かれざる客というわけではない。
控えめなベルの音に導かれ、店内へと足を踏み入れる。
落ち着いた照明と、シックな内装。
十にも満たないカウンター席に、いくつかのテーブル。カウンターの向こうには壁一面に様々な酒瓶が飾られている。典型的なスタイルのバーだ。
今はまだ昼間。営業時間外のため、店員の姿はない。
だが、女主人は存在した。
「よう来たの」
最も奥のスツールにしどけなく腰掛ける、小さな悪魔。燃えるような赤毛は彼女の情熱を示し、全身を覆う闇よりも深いドレスはその性質をこの上なく端的に表現する。
生来の支配者である彼女は、どのような姿であろうとも、やはり君臨する者であった。
否、幼き姿であるからこそ、それが鮮やかに浮き彫りになる。
女帝ヴェルガは、異世界でも変わらぬ威厳と魅力をたたえていた。
「婿殿のために、妾の隣は空けておるぞ」
「空いてるのは、隣だけじゃないように見えるけどね」
そんな言葉を投げかけながらも、ユウトは素直にヴェルガの隣に座る。
カウンターの上には、誰が用意したのか二人分のグラスが置かれていた。ヴェルガの前には、煌めくグラスに注がれた琥珀色のウォッカベースのカクテル。
ユウトには、一応未成年だと考慮してか、アイスティーのグラスが置かれていた。
二人で会いたいと伝えたところ、指定されたのがこのバーだ。賢哲会議が手配したのか、それとも悪の半神が徴発でもしたのか。
後者であれば、彼女にしてはかなり控えめだ。実に良いことだと、ユウトは思う。
「こういう時、こちらの人間はこの後ホテルを予約しているんだと言うのであろう?」
「まだ早くねえかなぁ」
がっつきすぎだろと、ユウトは笑った。
その屈託のない微笑に、ヴェルガは意外そうな。それでいて楽しそうな表情を浮かべる。
「妾の呪いを解いてしもうたようだの」
「呪い? 嫌がらせだろう?」
「好きな相手には、構ってほしいものよ」
「普通に迷惑だからな、それ」
「本当に、ただ迷惑だっただけかえ?」
「いや、自分を見つめる良い機会になったよ……」
お陰で、アルシアとあんなことになった……とは言わない。同じことをされでもしたら、死ぬしかなくなる。社会的に。
「それで、結論は?」
「ブルーワーズへ帰るよ。高校も留年だしな」
「ほう……」
予想外ではない。
同時に、期待外れでもなかった。
小さなヴェルガは、背格好にそぐわぬ蠱惑的な微笑を浮かべ、グラスに一口だけ口を付ける。地球の酒も悪くないどころか、大いに気に入っていた。
優雅な香りが鼻孔をくすぐり、強い酒精が喉を灼く。
ツァリーヌ――女帝。
彼女のために作られたようなカクテルだ。
「よく考えて、そして分かったよ。俺がいるべき場所が。それに、やりたいことがあれば、親元から離れなくちゃならない。両親には悪いけど、それは当然のことだ」
「随分と、吹っ切れたものよ」
「おかげさまでな」
皮肉げに唇を歪め、隣で婉然と微笑む小さなヴェルガをにらむ。そんなことをしても喜ばすだけだと知っていたが、抗議をせずにはいられない。
「だいたい、俺が帰りたかったのは、両親に会いたかったから。俺の身になにがおこったのか説明したかったからだ」
「では、それが済んだ今は未練はないと?」
「あるさ」
ないわけがない。
生まれ育った場所なのだから。
「実際こっちで暮らすことはできたと思う。でも、色々と不自由になっちまった」
警察には手を回してもらい、友達にも会えた。
けれど、元行方不明者であることは変わらない。
ヴァルトルーデの魅力、アルシアの美貌と異相、ヨナの白髪赤目、エグザイルの巨体、種族が違うラーシア。
いずれもごまかすことはできるが、それがずっととなると苦痛を感じかねない。
「だから、地球には、たまに帰ってくるぐらいで良いのさ」
振り返ってみれば、これしかない。当たり前の結論。
随分と遠回りしたものだと、苦笑してしまう。
「ふむ。まあ、その辺りはあの忌々しい大賢者の領分であろ」
自らの版図ではない土地で、力を振るったヴェルガ。
その代償として一時的に半神としての力を失い――いずれ回復するだろうが――十歳にも満たぬ幼女の姿になってしまった。
コーエリレナトを送り返し、さあこれからどうしようかというところで、そんな彼女をヴァイナマリネンが襟首掴んで引きずり回し、ユウトたちとは引き離した。
単純に様々な調査に女帝の力を必要としたのか。それとも、なにか配慮をしてくれたのか。
感謝してもしきれないが、普段の迷惑と差し引くと、まだ貯蓄が残っている。
「それでは、婿殿。お待ちかねの妾の願いじゃが」
「待ってねえよ」
無貌太母コーエリレナトを百層迷宮へと送り返す。その困難なミッションを完遂するため、ユウトは――条件付きだが――なんでもするとヴェルガに約束をし、協力を取り付けた。
反故にするつもりはないが、忘れてほしかったのも確か。
「子種――」
「却下」
「――が欲しいとは言わん」
「俺が認めてたら、そのまま通してたろ?」
「まさか。今の体で言われても嬉しくはないからの。だが、妾は婿殿に対して閉ざす扉を有しておらぬのも確か」
「どっちなんだよ……。いや、どんな格好でも、認めないけどな」
「乙女心は複雑怪奇ということよ」
思わず話の腰を折ってしまったが、先送りになるだけ。なんら問題解決に寄与していないことに気付き、ユウトは改めて先を促す。
「妾と共に、この世界に帝国を築かぬか?」
そして、後悔した。
「……俺はブルーワーズへ帰るって言ってたよな?」
「聞いたぞ。じゃが、それとこれとは話が別であろ?」
「その通り。その通りだけど……。いや、そもそも建国なんて無理だろ」
「あの聖堂騎士ではなく、妾が相手であれば嘘を吐いても構わぬと?」
それはそれで、悪くはないがの。
そう、姿は変わってもいつも通りの淫靡な微笑みで、女帝はユウトを挑発する。
「婿殿が得意な《反転の矢》。あれで銃弾も反射できぬか、考えたことがないとは言わせぬぞ」
「……無理だろ。威力が違う」
「確かに、この世界の兵器の破壊力には目を見張るものがあるのぅ。矛に対するには盾ではなく、また別の矛を揃えねばならぬとは、実に妾好みよ」
呵々と笑い、そのままヴェルガは続ける。
「じゃが、呪文の前に威力が関係あると? どちらもただの飛び道具であろ?」
「試す気には、なれないね」
ヴェルガの言葉を暗に肯定するユウト。
実験をする気は本当に無かったが、考えたことがないとも言えなかった。
「後は、《刀槍からの防御》もあったかの。まともな魔術も知らぬこの世界の軍では、まさに無人の野を征くが如きであろう」
「呪文を駆使して核でも手に入れて、世界を脅迫でもするつもりか?」
不可能だというニュアンスを込めて吐き捨てるが、女帝はそうは思わなかったようだ。
我が意を得たりと婉然と微笑む。
「この世界は広い。妾が統治した方がマシになる国ぐらい、いくらでもあろう」
「否定しづらい……」
「無論、妾であれば選挙とやらで勝ち抜く自信もあるがの」
「これもだ……」
思想や行動は相容れないが、ヴェルガの能力はユウトも認めているし、高く評価している。
それを知って、この半神はこう言っているのだ。
「妾の隣にいれば、この力を正しき方向へ向けられるかも知れぬぞ」
と。
「最悪だな」
「気に入らぬか。なんなら、一夫多妻を認める法律を作るのもやぶさかではないぞえ」
「……分かったよ」
「ほう」
「お遊びはこれくらいにして、本当の希望を言ってくれ」
「そちらか」
いたずらを見抜かれ、残念そうに嬉しそうに幼きヴェルガは笑う。童女のように、毒婦のように。
「では、妾はデートを所望しよう」
「……デート?」
それだけ? と言い掛けて、ギリギリでなんとか踏み止まった。
デート? ヴェルガとデート?
問題だ。大問題だ。
「場所は、そうの。中立地ということで、フォリオ=ファリナが良いかの。エスコートは任せるぞえ」
「待った。まだ、受け入れるとは――」
「だめかえ?」
上目遣いで――今の状況なら、そうならざるを得ないが――甘えるように言うヴェルガに、ユウトは動揺する。そして、それに気付いて、さらに狼狽は深くなる。
アイスティーのグラスを両手で掴み、そうすることで赤毛の幼き女帝から視線を外して、強引に思考を切り替えた。
最初に受け入れがたい要求を突きつけ、その後、本来の条件を提示する。
陳腐だが、それだけに常道。
しかも、物騒な世界征服の話に比べたら可愛いものだ。もちろん、そう思った時点で負けなのだろうが。
ふと目を横にやる。
幼くも淫猥な女帝から返ってきたのは、愛でるような視線。
こうして悩んでいる時点で、喜ばせている。
結局、借りを作った時点で負けなのだ。
「分かった。ただし、デートだけだからな。それ以上は、無しだ」
「くふふ。こちらに来て知ったぞ。それは、前振りというのであろう?」
「ちげえ」
誰だ、教えたヤツ。責任者出てこい。
そんな言葉を飲み込むため、ユウトはグラスを一息であおった。
「ぶはっ。酒じゃねーか」
「おやおや。妾はアイスティーを用意したつもりだったのだがの。確か、ロングアイランド・アイスティーとか言うたか」
紅茶はまったく使用していないが、見た目も味もそっくり。紛うことなく酒だった。
「酔いつぶれても構わぬぞ、婿殿。ホテルの部屋は予約してあるからの」
「マジだったのかよ……」
本当に油断できない相手だ。
そのうえ、ヴァルトルーデたちにも説明しなくてはならない。
「一難去って、また一難か……」
そう思い悩むユウトを肴に、ヴェルガはツァリーヌを飲み干した。