4.告白
「慌てなくても大丈夫ですよ。ユウトくんがどんな格好をしているか、私には分かりませんから」
「いや、ここでどんな格好かなんて、分かり切ってるでしょ」
「それもそうね」
そう言って、鈴を転がしたような笑声をあげた。
「私も手足以外は隠しているのだから、なにを見られているわけでもないし」
とんでもないと、ユウトはぶんぶん首を振る。
珍しく――というより初めて見る、髪を上げたアルシア。白いうなじがむき出しになり、比べるわけではないが、ヴァルトルーデにもアカネにも無い色気を感じてしまう。
しかも、建て売りマンションの浴室など、大人が複数で入ることは想定していない設計だ。そんな場所に、柔肌を晒したアルシアと二人きり。
(いや、外には父さんと母さんがいる。父さんと母さんがいる)
そうなんとか平静を保つのが、精一杯。
「恋人や夫婦はこうするものだって、アカネさんから教わったのよ」
そう言って、持ち込んだタオルを濡らしてボディソープを垂らしユウトの背中にあてがう。
イメージよりもしっかりとした、しなやかな筋肉の感触。瑞々しい肌。大きな背中。
我ながら、大胆な。
アルシアも内心羞恥を感じ心臓も高鳴っていたが、顔色は変えない。変えたとしても、今のユウトでは鏡越しに気づく余裕はない。
彼も感情が高ぶっているのだろう。
エンゲージリングが無くとも伝わるその実感に、妙な嬉しさを覚えてしまう。
一方、ユウトは混乱の極致にあった。
反射的に、出ていくべきか追い出すべきだと結論を下す。しかし、その決定に異論を述べるユウトもいる。
向こうから入ってきたんだ、俺は悪くない。
善悪の問題じゃない。道義的な問題だ。
でも、朱音も同意なんだろ?
だからって、親もいるのに。
思考が螺旋状に積み重なり、結果、ユウトはされるがまま。
「ユウトくん」
「は、はぃっ?」
「今日は楽しかったわ。あなたも、気晴らしになった?」
「ああ……」
言われて気づく。
昨日抱いた鬱屈は、もう消え去っていた。正確には、忘れていた、だろうか。完全になくなったわけではない。折に触れて思い出すこともあるだろう。
だが、もう過去のことになっていた。
「でも、話というのは、そのことではないの」
「……それは、ここでないと、できない話なんでしょうか?」
アルシアはすぐには答えず、タオルを背中から肩、腕へと移動させた。そうすることによって一層密着し、声も吐息も近くなる。
「ヴェルガと、なにがあったの?」
「なっ……。え? どうして……」
単純な鎌かけ。普段なら平然とごまかしていただろう問い。
緊張と弛緩を繰り返したことで隙ができた精神は、それに抗することができなかった。
「分かるわよ。私だけじゃないわ、ヴァルもアカネさんも、どれだけあなたのことを見ていると思っているの?」
そんな風にストレートに言われると、なにも言えない。風呂場の蒸気のせいでなく顔が赤くなり、呼吸も乱れる。ただ、浴室内の換気扇が稼働する音だけが聞こえ、それも徐々に遠くなっていく。
もう、ごまかすことはできない。
ためらいながらも、ユウトは背後のアルシアへと告白をする。
「ヴェルガから言われたんだ。俺はブルーワーズに戻るつもりだけど、ヴァルやアルシア姐さんたちみんなと、地球で暮らしたって良いじゃないかって」
なぜ、ユウトが両親や友人と離れて異世界へ行かねばならないのか。犠牲になろうとしているのか。
どうして、優れた生活環境を捨てて不便な世界で過ごすことが既定となっているのか。
ずっと思い悩んでいたからか、言葉はすらすらと出てきた。
「一理あるところが、憎らしいですね。あの女狐は……」
ユウトの屈託に納得がいくと同時に、女帝への憎しみも湧いてくる。
まったく性質が悪い。正論であるところが、特に。
「それで、悩んでいたんですね」
「まあ、そんなところ」
それさえ分かれば、ユウトがどんな悩み方をしていたかも推測できる。
「そうですね……。スアルムさんのこと、領地経営のこと、戻るべき理由はいくらでもある。けれど、領地に関しては絶対に私たちが必要というわけではありません。そもそも、半分は押しつけられたようなものですし。それに、スアルムさんだけなら、こちらへ呼ぶこともできるかも知れません。もちろん、戻る手段があるという前提ですが」
床に膝をつきユウトの体を洗いながら、言葉が淀みなく出てくる。
大魔術師と呼ばれる少年が、良いように翻弄されていた。
「そして、神との交神の問題が解決できれば、戻る理由はなくなりますね」
大きな所では、ですが。
そう付け加え、答えを待つかのように手を止める。
「でも、リ・クトゥアから連れてきた人たちもいるし、色々やりかけだし……」
「故郷を両親を捨ててまでそれに殉じろとは、誰も言えません。いいえ、言わせません」
「アルシア姐さん……」
「それに、アカネさんのことも考えれば、悩むのも分かるわ」
「朱音は言い訳にしたくない」
「まったく……」
頑固な。
だが、それを好ましく感じるのは、あばたもえくぼということなのか。
「そもそも、ユウトくん。あなた一人で思い悩むことではないわ」
「……これは、俺の問題だし」
なんとなく、拗ねたように口をとがらせていることが分かる。長年の付き合いのお陰だ。
「そうね。でも、ユウトくんだけの問題でもないわ」
「……それは……そう。確かに、そうだ」
ユウトが地球で暮らそうと言っても、みんなが受け入れてくれるかは分からない。そんな当たり前のことに気づかなかったなんて。
「俺はバカだな……」
「でも、実際はみんな一緒でしょうけどね」
恐らく、いや確実に、ヴェルガはユウトと同じ世界を選ぶだろう。確認したわけではないが、確信がある。
ヴァルトルーデも、アカネも、もちろんアルシアも。そしてヨナも、この二人だけを残すことなどできない、したくない。
そうなれば、エグザイルとラーシアも、この未知の世界を新たな冒険の舞台とするだけ。
「はぁ……」
みんな、どんな場所でもそれなりに上手くやるだろう。だから、こっちで暮らすこともできると思った。
けれど、そうではない。
例えば、地球ではなく別の世界、ラーシアの名目上の妻であるエリザーベトのいる『忘却の大地』でも同じこと。
どこではなく、誰と。
そして……。
「なんだ。結局は、俺がどうしたいかなんじゃないか」
水でもかぶって反省したい。
そんな気持ちが伝わった訳ではないだろうが、アルシアが頭からお湯をかけてくれる。
「ヴェルガに、きっちり落とし前を付けてくるよ。借りも清算しなくちゃならないし」
「正直、あまり認めたくないところだけれど……」
「大丈夫だって。警戒する気持ちは分かるけどさ」
強がりのようにも聞こえたが、彼の言うとおり。
もう、いつも通りのユウトだった。
「良かったわ。お風呂に乱入して押し切っちゃえなんてアカネさんは言っていたけれど、必要なかったわね」
「……そうかな?」
「だって、そうでしょう? 私なんかがこんな格好をしても、ユウトくんは喜ばないでしょうし」
「とんでもない」
口にしたつもりはなかった。
だが、気づけば声に出していた。
「そう……なの?」
「だって、アルシア姐さんに迫られたら、そりゃねえ……」
言えない。具体的には言えないが、嬉しくないはずがない。
「ヴァルやアカネさんではなく、私よ?」
「いや、自己評価、どんだけ低いの……」
ヨナの《マインド・ボンド》で、彼女自身の容姿がどれだけ魅力的か、知らせることはできないだろうか。そんな方策を、半ば本気で検討する。
「でもだって、私なんか嫁き遅れの年増よ?」
「……はい?」
どういうことなのか。わけがわからない。
「いやいやいやいや。精々、俺の二個か三個上でしょ? それが嫁き遅れって」
例えば、江戸時代では十代で結婚が当たり前。二十を過ぎれば年増扱いだったが、つまり、そういうことなのだろう。
「地球の……というかこの国だと、めちゃくちゃ若いです。アルシア姐さんの年齢で結婚とか、若すぎて珍しいレベル」
「なっ……」
文化が違う。
それで済ませて良いものか分からないが、お互いにカルチャーショックを受けているのは確か。その結果として、アルシアの余裕の仮面がはがれ落ちる。
「実は、このタオルの下は、今度泳ぎに行くからってアカネさんが選んだ水着というのを身につけているのだけど」
「そ、そうなんだ」
「その……ユウトくんは、興味があったりするのかしら? 私でも」
「それはもう」
口にしたつもりはなかった。
だが、気づけば声に出していた。
「そ、そう……なの」
アルシアの顔は、先ほど彼女が《祝宴》で生み出したリンゴよりも真っ赤に染まっていた。羞恥よりは、照れている成分の方が大きい。
しかも、それはユウトに気づかれていないと思っているはずだ。
彼女には、ユウトが見ている鏡の存在など分からないのだから。
「わ、私はこれで失礼するわ」
可能な限り平静を装って、アルシアが浴室を後にする。
ユウトは、無言でそれを見送った。
そのまま粛々とシャンプーを泡立て、洗い流し、浴槽に身を沈める。
「まあ、その、なんだね……」
この後、同じ部屋で寝るんだよな……。というか、それ以前に顔合わせ辛い。なんだこれ。どうしてこんなことになったんだ。
「おのれヴェルガ……ッッ」
ユウトは新たな悩みに身悶えする。しかも、今度は誰も助けてくれない。
けれど、それは実に甘美な悩みでもあった。




