6.最大の異変
再び、世界に真円の綻びが出現し、異界の生物が地球を、現実を侵蝕しようとしている。
針のような口吻を備え、猟犬ほどもある蚊の怪異。
両の眼窩には暗い炎が灯り、骨の上をコールタールのような肉が次から次へと流れていく、小人の群。
丸太のように太い両腕をした、毛むくじゃらの猿のような怪物。
「真名、秦野真名! しっかりしろ!」
「……はっ、はい!」
真名はその存在のおぞましさに、初めて見る怪物の冒涜的な霊気に怖けづいていた。そのことに、ユウトの叱咤で気付かされる。
「とにかく、俺たちでやるしか無い。援護を」
「分かりました。――《道化師の領域》」
真名が素早くタブレットを操作し、悪魔たちの直上に淡い赤の魔法陣が投影された。
「《火球》」
続けてユウトが呪文書のページを三枚引き裂いて《道化師の領域》の下に展開。魔力が薄い状態での発動にもとっくに慣れている。なんの問題も無い。
呪文書のページがひとつに混じり合って、サッカーボール大の紅蓮の塊となった。
だが、まだそのまま。
「――拡散せよ!」
一拍遅れて、ユウトの命に従い火球が炸裂する。いつもと同じ、数多の命を狩り取る灼熱の炎を、より広範囲へ。
「ちっ。やっぱ無理か」
《火球》自体は、思惑通り。蚊の悪魔ダブレルグスをまとめて焼却し、他の悪魔たちにも損傷を与えている。
けれど、ユウトの顔色は優れない。
今の《火球》が現在使用できる最大級の攻撃呪文であり、それで他の悪魔を倒しきれないことが分かったから。
因果の反動が恨めしい。一応、第五階梯以上であれば攻撃呪文の準備は万端なのだが、宝の持ち腐れ状態だ。
それに、連戦明けでもあり、今の一発で《火球》のストックも尽きた。
他の生き物に卵を産み付け爆発的に増える蚊の悪魔ダブレルグスを放置はできないのだから判断に誤りは無いはずだが……手詰まり感は否めなかった。
「センパイ、どうします?」
「ヴァルが来るまで逃がさない。それしか無いな、情けないことだけど」
二人とも、手持ちの武器は理術呪文しかなく、決定打にならない。
魔化されていない武器――刀剣、銃器、落下の衝撃を問わず――は、どういう理由からか著しく威力を削られてしまい、これも決定打にはならなかった。
「《道化師の領域》、《蜘蛛の糸》」
「くっ、《蜘蛛の糸》」
ユウトは、まず呪文書を1ページ切り取って魔法陣を展開してから、真名はタブレットをフリック操作し、タップして同じ呪文を発動させる。
真名の方は一部範囲がかぶってしまったが、悪魔たちの頭上から粘着質の蜘蛛の糸が覆い被さり、行動の自由を奪う。
とはいえ、第二階梯の呪文だ。そこまで強力なものではない。
今も、猩猩の悪魔エイポヌリスたちがでたらめに両腕を振るって蜘蛛の巣を払いのけようとし、火小人の悪魔ヒュムーエムオスは眼窩の炎をコールタールのような肉体に移して点火し、焼き尽くそうとしている。
「気を強く持ってくれ。慣れないと、まず心が挫ける」
「センパイがいた世界には、あんなバケモノが……」
今まで目にしてきた、粘液の化物や不死の怪物、ゴブリンたち悪の相を持つ亜人種族。
脅威という意味では、変わりは無いはず。それなのに、幼少期から訓練を受けている真名が、悪魔にだけおびえる理由は、悪魔が存在するだけで放たれる、見るものの心を恐怖で覆い尽くす霊気にあった。
「悪いな。俺がいた世界のせいで苦労をかけて」
「そういう意味ではありません。むしろ――」
「飛べっ」
真名の謝罪の言葉を最後まで聞かず、ユウトは警告を発した。
突然の要領を得ない危険を知らせるメッセージ。それでも真名は、咄嗟にジャンプをするが――間に合わない。
そんな彼女を肩で突き飛ばし、それとは比べものにならない衝撃を、ユウトはわき腹に感じる。このローブを身につけていても感じるほどの打撃。
(サッカーの試合思い出すなぁ)
のんきな感想は、余裕からではなく、安堵から出ていた。
「センパイッ!」
戦場に立つには小柄な彼女が、ポニーテールを振り乱して悲鳴を上げる。
無理もない。自分をかばったユウトが、猿のような悪魔の下敷きになっているのだから。
あの悪魔が《蜘蛛の糸》に開いた穴から味方を投げ飛ばした――と気づいたのは、後の話。予想を超える事態に、パニックを起こしかける。
「やられたのは、君じゃない。落ち着くんだ」
のしかかられ、息をするのも困難で、にもかかわらず呪文書は守っている。こんな時でも、ユウトは冷静だった。
空に、星が瞬いた。
否、確かに星のように美しかったが、もっと身近で大切なもの。
「遅くなった!」
空――夜間飛行のヘリコプター ――から飛び降りたヴァルトルーデが、剣を突き下ろしながら華麗に着地する。
その一撃で絶命した悪魔が、力を失いユウトを押しつぶす。
「うげっ」
その密着したくない体から這いだしつつも、彼は笑顔だった。
彼女が。世界で最も愛し、信頼する彼女が、来ないはずがないと信じていて、その通りになったのだから。
「ユウト、無事か!?」
「大丈夫だよ。婚約者残して死ぬわけが……って、死亡フラグかよ」
自分で言っておきながら、これはヤバイと苦笑する。
よく分からないことを言うユウトには慣れっこで、元気な証拠と判断する。
「なら、すまぬが先にあっちを片付けさせてもらおう」
「ああ……。頼む」
二人の視線の先には、蜘蛛の巣から抜け出ようとする悪魔たちの群れがいた。
「本当に大丈夫なのですか? それと、先ほどはありがとうございます」
腑甲斐なさと心配をミックスした声と表情で真名が言う。内容はとりとめがなくなっているが、それも真面目さ故かと笑ってうなずいた。
その間に、ヴァルトルーデは臆する様子も逸りもせずに、悪魔たちへ向かっていく。
「まあ、見ていれば分かるよ」
その無条件で信じる態度に、真名の心がわずかに疼く。その感情の正体には、彼女自身ですら気付かなかったが、戦場に降り立った気高い女騎士の戦い振りを見れば、うなずく他はない。
ヴァルトルーデも神から聖堂騎士に与えられた神術呪文の能力は失っているが、その剣技と討魔神剣は健在。
まるで無人の野を征くかのように斬り込み、すべて一刀のもとに屠っていく。
空から警戒するヘリコプターの駆動音も忘れてしまう、芸術作品のような殺陣。息を飲む美しさ。
ユウトたちの仕事は、その断罪の刃から逃れようとする悪魔たちに照準を合わせて攻撃をするだけ。
あの程度の下級悪魔の群れなら、殲滅は容易い。それを、実際に証明してみせた。
そう、あの程度の下級悪魔の群れならば。
「まだ終わりではないか……」
「まったく、どうなってるんだ」
悪魔たちの死体が転がる公園。その中心で、魔法銀の鎧に身を固めたヴァルトルーデが憂い顔で天を仰ぐ。寄り添うように立つユウトも同じ。
天に闇が広がっていた。
星の光も街灯の人工的な光も、すべてを覆う闇だ。
それは、次元の綻び。
真円を保ったまま、さらに巨大に広がっていく異世界からの侵入路。
「うっ、くっ……」
まだ、なにも見えない。
なにも現れてはいない。
けれど、真名はいきなり膝を折り、手に口を当てて吐き気をこらえた。魔導官の象徴でもあるエメラルドグリーンのタブレットを取り落とし、アスファルトに落下する。
「現れるぞ」
それが呼び水になったかのように、真円の綻びはさらに広がった。
その円周いっぱいにぎちぎちと詰まっていた。窮屈な道を通り抜けるかのように、強引に生まれ落ちようとしている。
巨大。
20メートルを超えるそれは、肉の塊だった。のっぺりとした病的なまでに白い肌。産毛も見えない肉体はしかし、血管も確認できない。
脂肪に包まれているからだ。
次に、より大きな部位が出現することで、最初に出てきたのが頭部だったのだと気付く。今は、肩の部分が出ようとしているのだろうが、たるんだ皮膚が何段にも連なっているため、判別はできない。
その頭部も、形からそうだろうというだけで、顔は分からない。
鳥山石燕が描いたのっぺらぼうのようだ。
真名は更なる吐き気に襲われながらも、目が離せない。それなのに、座学で学んだ知識を無理やり引き出されたかのような感想しか出なかった。
もう、根本から違う。
対抗しようという気すら起きない。
「ユウト、あれが何ものか分かるか?」
「確証は無いけど……」
「推測でも構わん」
「コーエリレナト。無貌太母の名を持つ、悪魔諸侯の一柱。その特徴と一致している」
「確かに、顔は無いようだ」
真円の綻びから肩が抜け、するりと現出していく。
ついに、無貌太母が、異世界に産み落とされた。
真円の綻びは徐々に縮小し、ブルーワーズとのつながりが断たれようとする。
「ルウオオォォォンンッッッ」
それを喜んでいるのか哀しんでいるのか。
口も無いはずの無貌太母コーエリレナトは、背筋が凍り魂が消え失せるような産声を上げる。
ほとんど体と一体化している手足をばたつかせ、胎児のように踊る。
「あっ、ああ、ああ……」
壊れていく。大切ななにかが壊れてしまう。
醜悪な肉塊を目の当たりにして、真名は知らずに涙を流していた。制御を失ったヘリコプターが落下し、炎上する光景も、遥か遠くに見える。
「まあ、やるしかあるまい」
「いや、伝承通りだと、それはまずいんだ」
さすがに、彼女をケアする余裕はない。ユウトの脳裏には、かつて迷信と笑い飛ばした伝承の一節が思い浮かんでいた。
そもそも、無貌太母コーエリレナトの存在自体が怪しまれていたのだ。
「どういうことだ?」
「まあ、真実かどうかは分からないけど――」
しかし、更なる異変に説明を続けることはできなくなった。
石畳が敷かれ、整備された公園の通路。手入れが行き届いた芝生。街灯やベンチ、噴水といった設備。転がったままだったエメラルドグリーンのタブレットも――
それがすべて消え、荒野に変わった。
奈落のような荒野に。
世界が書き換えられてゆく。
無貌太母コーエリレナトがあまりにも非常識で、あまりにも強大で、あまりにも邪悪だったが故に、世界法則は屈した。
ここは、もう、地球ではない。
悪魔諸侯が住まう、奈落の一部となったのだ。