2.ふたつの問題(後)
今回、七千字を越えてしまいました。
前回の倍ぐらいありますので、ご注意ください。
ドゥエイラ商会の会頭、ヘルバシオ・ドゥエイラは美しいものを愛していた。
愛していたというよりは、美しいものはすべて自らの掌中にあるべきだと信じて疑っていなかった。
年齢のわりには豊かな髪を撫でつけた、背は高いが肉付きの薄い中年の男。
くぼんだ瞳は魚類のようにぎょろりとして、常に鋭い眼光を周囲に向けている。その相好が崩れるのは、彼が美しいと感じたものを見るときだけ。
大商会の会頭にもかかわらず未だに独身で愛人の一人もいないのは、それにふさわしい人間がいなかったからだ。
そう。いなかった。
今でも、昨日のことのように思い出せる。
見事な造りの鎧を身につけた、ため息がでるほど美しい、光り輝くあの女性との出会いを。
出会いは完全に偶然だった。
彼女は誰かに向けて、それだけ世界が明るくなるような笑顔を向けていたが、同行者のことなど憶えてはいない。色づいていたのは彼女だけで、自分も含め、他はすべて灰色。
商談に向かうためフォリオ=ファリナの街中を移動していたのだが、即座に予定をキャンセルして自宅へと舞い戻った。
そして、彼女が何者かはすぐに判明する。
ヴァルトルーデ・イスタス。
ロートシルト王国の最も新しく美しい女伯爵。世界を救った英雄。ヘレノニア神から奇跡を賜った聖女。
そのような評価は彼女の美しさに一切寄与することはなかったが、身元が分かりやすかったことだけは、美と芸術の女神リィヤに感謝した。
その日から、ヘルバシオ・ドゥエイラは今まで以上に事業へ意欲的に取り組み出す。今までは、商会の事業など美しい物を集めるための資金稼ぎでしかなく、死期が近づいたならすべて売却して収集品の購入に充てるつもりだった。
だが、ヴァルトルーデに出会った運命の日を境に、彼は変わる。
あの美しさを永遠にするため、様々な保存方法を模索すると同時に、少しでも近づこうとイスタス伯爵領の調査に乗り出した。
予想外に強力な妨害――ラーシアが率いる防諜組織の成果だが――にあったものの、ニエベス商会の存在にたどり着く。
そして、有り余る資金で、イスタス伯爵家と懇意にしているというニエベス商会の買収へ乗り出したのだ。
ここから徐々に近づき、自分の想いを理解してくれれば良い。そうでなければ、残念だが、折を見て強引に事を運ぶしかないだろう。
何年かかっても、構わない。あの美しさは、数年で朽ちるようなものではないのだから。
どうやら、このニエベス商会は近々、まったく新しい被服を売り出す予定だったらしい。それを知った秘書は彼の慧眼を褒め称えたが、ぎろりとにらんで黙らせた。
そんなものは、まったくなんの関係も無い。
意図したといえば、やり手と名高い家宰の大魔術師ユウト・アマクサの不在を狙ったぐらいか。
こうして順調にニエベス商会の買収が進んでいき――一週間ほどで、秘書の男が一大事と朝から焦った様子で報告をしにやってきた。
「会頭、傘下の商会や関連資産への買収が始まりました」
「そうか。かねてからの手筈通りに行え」
「はっ」
こうなることは予想している。
だが、相手にとってはこちらの身体など無用の長物。こちらの目的が達成されれば、二束三文で買い戻せるだろう。
すでに、買収計画は次の段階へと進んでいる。
ニエベス商会そのものでも、負債を購入するのでもなく、取引先を押さえる。原料がなければ、加工はできない。仕入れができなければ、売ることもできない。
後は、音を上げるのを待つだけだ。
――そのはずだった。
「なぜだ! ヤツらはなぜ手を引かない!」
理不尽に怒鳴られる秘書こそが、ラーシアとヨナの最大の被害者かも知れない。
イスタス伯爵家の資産はある程度調査をしている。世界一とも言える成功した冒険者の一団だけあって一貴族の財産を遙かに超えているが、限界まで投入するはずもない。
その判断が間違っていたとでもいうのだろうか?
おろおろするばかりの秘書を一瞥して見限ると、ヘルバシオ・ドゥエイラは自ら陣頭指揮を執るため、執務室を出る。
だから、彼は自身に伸びるもうひとつの手に気付かなかった。
ただ、焦るのも無理はい。
なにしろ、相手は対抗する買収資金が不足気味となったら――
「野良盗賊と野良ゴブリンと野良ドラゴンを倒してきた」
――と、ちょっとおかわりでもするかのように、資産が上積みされていくのだから。
常識で考えればあり得ない。
しかし、相手は非常識の塊のようであり、ヴァルトルーデという法と善の枷からも自由になっている。そんな相手に喧嘩を売ったのだ。
そしてなにより、ヘルバシオ・ドゥエイラ自身が最も常軌を逸していた。
「チェルノフだと?」
「はい。パベル・チェルノフ議員が至急面会を求めておられます」
「手が離せん」
「しかし……」
「やむを得ん。通せ」
不愉快極まりないと、フォリオ=ファリナの名家チェルノフ家の当主、であり世襲議員の一人パベル・チェルノフを応接室に通す。
ヘルバシオ・ドゥエイラの美へのこだわりとは正反対の、まったく飾り気のない部屋。
美とは、一人で愛でるものであり、ひけらかすものではないのだ。
「チェルノフ議員、お話は手短にお願いします」
「そうなることを、私も願っているよ」
ツートンカラーのベストとシャツを洒脱に着こなした、壮年の男。
ペトラの父親であれば目の前のヘルバシオと同年代だろうに、そうは見えない。若々しく、精力的な、議員に相応しい男だった。
「では、聞こう。君の別邸で、複数の白骨化した人間の死体が発見された理由をね」
「私の眼鏡違いだった。それだけのことだ」
「……なんの目利きをするつもりだったんだい?」
「言っても、理解はできないだろう」
ヘルバシオ・ドゥエイラは、それっきり沈黙を守った。説明する理由も、意義も感じられないと。
彼にとっては単純な話だ。
人の内面にこそ美が在るのだという。ならばと、老若男女様々な人間に、亜人種を集めて解体した。
けれど、そこに美など一欠片もなかった。ただそれだけの話。
だから、眼鏡違い。
罪の意識など。いや、罪に当たるなどとは露程も思っていない。
「そこに罪があるのは明白だ。しかし、君は認めない。否、それが罪だとすら思っていないのだろうね」
当然すぎて、返答をする価値も見いだせない。ヘルバシオ・ドゥエイラは、この世襲議員をいかに退場させるか。それだけを考えていた。
「だから、一言だけ伝えよう」
協力者から渡されたメモを、美に狂った男へ向けて読み上げる。
それを耳にしたヘルバシオ・ドゥエイラの反応は劇的だった。
「はっ、はははっははっっはっ、うひゃあふふえふ」
文字で書き記すのが困難な笑い声。眼球がこぼれ落ちるのではないかと心配するほど目は大きく見開かれ、口はだらしなく開き、泡を吹いている。
静かに狂った男は、誰の目からも分かり易く狂った。
パベル・チェルノフは、こう言っただけなのだ。
「ヴァルトルーデ・イスタスには婚約者がおり、彼女の笑顔は彼にだけ向けられる」
だが、それはヘルバシオ・ドゥエイラの精神の均衡を崩すに充分だったようだ。無理もない。欲した美は、決して自分へ向けられない。永遠に手に入らない。
それに、気づいてしまったのだから。
そんな事情までは知らぬ世襲議員は、報告書と収集物で彼の異常さは充分に理解していたつもりだったが、まだ不足していたかと反省する。
「いや、完全に理解できるようでは、私もばかげた人間になってしまうか……」
役割は終えたと、扉の外で待機していた衛兵に後事を委ね、世襲議員は建物を出る。そのまま、協力者が待つ馬車へと乗り込んだ。
「協力に感謝する。なんとか、内々に処理できそうだ」
「いやー。こっちこそ、助かった助かった」
「めんどくさいところ、任せただけ」
豪華な内装の馬車――もちろん、《灰かぶりの馬車》に敵うはずもないが――で待っていたのは、ドゥエイラ商会を担当していたラーシアとヨナの二人だった。
「寝室に、毎晩毒を塗ったナイフでも置いてれば手を引くと思ってたのに、なんか調べるとそんな玉じゃなさそうだったんだよね。んで、不正の証拠でもないかなって忍び込んでみたら死体があるわ、ヴァルで気持ち悪い妄想してるわだよ」
不死の怪物を前にしてもいつも通りだった草原の種族が怖気をふるう。
「ドン引き」
ユウトから教わった表現で、アルビノの少女も不快感を表明する。
「私としても、あんな男が同じ街に住んでいたと思うと気を失いそうになる」
一歩間違えれば、呪いを受けて昏々と眠り続けていた妻が標的になっていたかも知れないのだ。彼の感想ももっともだろう。
「ところで、ひとつお願いがあるんだが」
「なに?」
パベル・チェルノフは、馬車を出発させてから続きを口にした。
「このまま、ドゥエイラ商会を買い取ってもらえないだろうか? もちろん金額は勉強するし、できれば、ほとぼりが冷めてから買い戻させてほしいのだが」
「なるほどー。買収のショックで死んだってことにしたいんだ」
即座に筋書きを読み取ったラーシアが、内容の重たさを想像できない声音で言う。
「どうしよっか? まあ、資金はまだあるけど」
「がんばった」
「そこは、ユウトが戻ってきたら、報告しないとね」
「そういうつもりじゃないから、いい。でも、この街のでっかい商会を安値で買い叩いたんだから、ユウトもほめてくれる」
「そうだね。ボクらは悪くない。むしろ、悪を滅ぼしたよ」
「ん。だから、商会のことは、ユウトが帰ってきたら丸投げ」
そう結論づけて、ひとつの問題は解決した。
すでに、二人の視線は百層迷宮へと向いている。
なぜならば、二人の中では、もうひとつの問題が解決するのも、既定事項となっていたから。
思いがけず大事件となったフォリオ=ファリナ組に対して、予想通り、メインツでの問題はあっさりとした解決を迎えた。
メインツにある、外からの来賓を歓待する宿舎。
かつて、ユウトが馬車鉄道の構想を初めて語ったこの建物で、イスタス伯爵家とプレイメア子爵家との会合が持たれた。
出席者は、アカネとアルシア。それにメインツの街を束ねるドワーフのミランダ族長。
プレイメア子爵家からは、子爵本人と数名の従者が席についていた。
会場となった宿舎の談話室は、この人数となるとやや手狭。しかし、家具も調度も職人の心意気を感じさせる丁寧な逸品ばかり。ドワーフの里の施設としては、実にふさわしい空間。
そんな室内に、牛がいた。
もちろんそれは比喩であり実際には人類なのだろうが、一度そう認識してしまうと、牛にしか見えなくなってしまう。
角張ったというよりは長方形の頭。妙に離れた両目。当然、角などないが、頭頂部の両端からは髪が角のように盛り上がっていた。
体つきは普通だが、ブルーワーズでは初めて見た大きな水玉の服は、ホルスタインを連想させて仕方がない。
「その契約書を見れば、この鉱山の。いいや! この街の所有者が誰か犬でも猿でも理解できるであろう!」
さらに、尊大な語り口に嫌らしい笑顔。
それが、プレイメア子爵だった。
アルサス王子の爪の垢を飲ませたい――煎じる必要はない――と、アカネが思ってしまうのも無理からぬ事だろう。
「確かに先代族長の名が記されておるが、このような話は聞いたことがないのぅ」
困惑気味に、ドワーフの族長が契約書を確認する。彼女にはこちらの――つまりユウトの――計画は伝えてあった。そのため、演技なのだが、プレイメア子爵は疑念に思うことがない。
「それはそうであろう。ドワーフが鉄鉱山を借りているなど、なかなか言い出せることではないからな!」
(理屈と軟膏はなんにでも塗れるって言うんだっけ?)
その我田引水ぶりに辟易したアカネが、滅多に使われないことわざを思い出す。本人もすっかり忘れていたが、国語のテストで出たから憶えていただけだ。
「それでもまだ、この書類の真偽を――」
「分かりました」
「うたが……なんだと?」
「それが本物だとして、話を進めましょう。子爵閣下がまさか、詐欺師のような真似をするはずがありませんから」
「お。う、それはそうだ。それはそうだ」
感情感知の指輪を持たずとも分かる、むき出しの欲望。
それに晒される不快感を顔には出さず、アルシアは淡々と話を進めていく。
「しかし、ここまで開発を進めたものをあっさりお譲りすることはできません」
ここが分岐点。
「原状回復という意味で、他の土地で採掘権を買い上げますので、それを譲渡するということではいかがですか?」
「承服できかねますなぁ」
あっさりと、牛、いやプレイメア子爵はそれを越えた。
その着地点に、財貨が存在することを疑いもせずに。
「そうですかでは――」
金貨五万枚。
それだけあれば、借金をすべて返済してもあまりある。いや、返済などするものか!
女・物・権力。その甘美な輝きが、手の届くところにある。
「玻璃鉄の鉱山をすべて、そちらに引き渡しましょう」
「なんだと!?」
「なにか?」
「あー。いや、なんだ。それが要求ではあったわけだが……」
それを騙し取ろうとしておいて、今更なにを言うのか。沈黙を守っているアカネが、心の中で舌を出す。
(さぁて、私たちの婚約者は意地が悪いわよ?)
「なにかご不満が?」
「いや、だから両者の妥協点として、金貨を――」
「子爵閣下は、正当な権利を有しておられるのでは? それなのに、妥協を?」
「だから、そのだな」
「正当な権利であれば、行使するのになんの問題があるのでしょう。私どもも、もちろん、そういたします」
酷薄な愉悦。
獲物を追いつめる猫科の肉食獣のような微笑みで、アルシアは退路を断っていく。
「玻璃鉄の鉱山をお譲りした後、玻璃鉄の鉱石及び加工品を当領外へ持ち出す際には、価格の百倍の関税をかけるようにいたします」
「法外な!?」
「自主的な関税の設定は、領主の正当な権利ですので。宰相閣下から許可もいただいています」
退路を断つどころでは無かった。四方八方を取り囲み、撫で斬りにしようとしている。
「それから、残念ですが、鉱山の所有者には資産税として年間に金貨五万枚ほどの税が課されることでしょう」
「そんな巨額を――」
「払えるはずがない? では、差し押さえるだけですね」
にっこりと。
真紅の眼帯のため顔は半分近く隠れているが、それでも分かるほど満面の笑みを浮かべてアルシアが告げた。恐怖ではなく、畏怖を感じる笑顔。
関税も課税もユウトのアイディアだが、それがここまで威力を持つとは、考えもしなかっただろう。
「ここここ、こんな無茶な話があるか!」
だが、借金を抱え、後がないプレイメア子爵には通じなかった。牛ではなく鶏のような鳴き声を上げ、席から立ち上がって抗議する。
アルシアにはおろか、アカネにすらなんの感銘も抱かせることはなかったが。
「天罰が降るぞ!」
「それは、メインツ周辺に伏せた兵士のことでしょうか?」
「ばっ」
牛のような外見だが、なかなか牛のようには鳴かない。
そんなプレイメア子爵を哀れむように、その実、確実にとどめを刺すため、アルシアは言葉を重ねていく。
「そちらの思惑は、すべて神託により露呈しています」
プレイメア子爵が放蕩三昧の末借金が膨らみ、魔術師に依頼して書類を偽造させて詐欺を働こうとしたことも、ただ金が欲しかっただけであることも、とっくに判明していた。
だがそれでも、なるべくなら穏便に済むよう妥協案を提示したのだ。誰も、それで解決するとは思っていなかったが、筋は通した。
主に、クロニカ神王国へ。
もはや、プレイメア子爵の生殺与奪の全権は、母国ではなくアルシアが握っている。
そのことを、彼だけが気づいていない。
「失礼します」
「待っていました」
そんな状況で、最後のカードが登場した。
応接室に入ってきたのは、エグザイルの義妹にして妻であるスアルムだった。
若手の岩巨人を従え、その岩巨人たちは、漁でもしてきたかのように網を引きずっている。
ただし、獲物は人間だ。
「メインツ周辺にいた山賊どもを捕縛してきました」
魔化されて魔法の武器と同様の状態になっているため、頑丈で滅多に壊れることはない。
そして、捕縛された山賊は、装備も立派で健康状態も良好。
「まるで、どこかの騎士や兵士のような山賊じゃの」
「ぐっ」
白々しい、ミランダ族長の演技。
だが、この場ではこれで充分だった。
交渉が不調に終わった場合、実力行使してから再交渉。
そんなプレイメア子爵の目論見は、岩巨人の戦士団により文字通り粉砕された。
「双方、死者は出ていません」
「確かに、切り傷じゃなくてなんかで叩いたみたいな怪我だわ」
「はい。エグ……族長が指揮を執って、投石だけで戦いましたので」
しかも、縛りプレイで完勝したらしい。
そのことよりも、順調にエグザイルとの仲が進んでいるらしいことに、アカネは顔を綻ばせる。
「スアルムさん、そのエグは?」
「物足りないので、調練代わりにモンスターを狩ってくると」
「そう……」
ミランダ族長もすべて聞いていたが、乾いた笑いしか出てこなかった。このイスタス伯爵家に組み込まれたのが幸せなのか、そうでないのか、判断も難しい。
ただ、退屈しないのは確かだ。
「さあ、お座りください。これからの話をしましょう」
ただ一人、アルシアだけは口元にたたえた笑みを変えず。
死と魔術の女神の愛娘と呼ばれるにふさわしい気品をたたえて。
当然のように、死刑を宣告した。
この後、無茶苦茶請求した(慰謝料とか)