10.異変
「怪我はないか?」
「そっちは大丈夫……だけど……」
なにが起こったのかが分からない。正確には、なぜあんな爆発音がしたのか分からない。
今まで、あんな失敗をしたことはおろか、そんなことが起こるなど聞いたこともなかった。
「ちょっと隠れよう」
「ああ、そうだな」
姿隠しの指輪は装備したままだが、過信は禁物だ。
境内から、拝殿の陰へと移動する。しばらく二人で息を潜めていたが、人が集まる気配はない。
かなりの音量だったはずだが、単発だったことで騒ぎにはならなかったようだ。夏ということで、若い連中がはしゃいでるとでも思われたのかも知れない。
一緒にされたくはないが、迷惑をかけたのも確か。人目に付かないのであれば、その方がいい。
「とりあえず、発動は問題なさそうだ」
境内へと戻りながら、独り言のようにユウトはつぶやく。
さっきは初めてだったので戸惑ったが、しっかりと精神集中すれば、もっと上の階梯の呪文だろうと発動する分には問題はないようだ。
周囲の魔力の関係で、威力はやや落ちるだろうが……。
「問題はあの花火みたいな音だよな。なんで、あんな音がしたのか、さっぱり分からん」
「ユウトに分からないとなると、私にはお手上げだな」
「だよなぁ。なんか、逆流というか、そんな感じだったんだけど……」
目立ちはするが、音だけであれば実害はあまりない。
問題は、常に同じ現象が発生するのか。それとも、例えば、階梯に応じて変化などが起こるのか。
まったくの未知数だ。言えるのは、なにも考えずに家で実験しなくて良かったということぐらい。
「もっと山奥とか、いっそ無人島みたいなところで実験? いや、移動手段がな……」
最大の問題は、《星を翔る者》の帰還シークエンス。
その発動まで、あと50時間ほど。
それが起動したとき、どんな影響が出るのか、出ないのか。ユウトの意志ひとつで、持続を打ち切ることはできる。
「考える時間が欲しい。来たばっかりだけど、いったん、戻ろう」
「任せ……いや。待て、ユウト」
先に気づいたのは、ヴァルトルーデだった。
ブルーワーズに比べ、月は小さく星も少ない夜空。
そこに、黒い月が生まれた。
そう錯覚してしまう、真円の綻び。
空ではなく、ほんの数メートルほど上に開いた扉。
そこから、赤の緑の黄色の透明の黒の。ゲル状をしたなにかが、泥のようにこぼれ落ちてくる。
「粘液の化物どもか」
スライムやウーズとも呼ばれる、粘体のモンスターだ。
「まさか、俺が呼び出した!?」
「ユウトの世界にも、モンスターがいるのだな」
「いてたまるか!」
なぜ、どうしてこんなモンスターが現れたのか。
さっきの呪文に、関係があるのか。
《魔力感知》程度でモンスターが現れるのであれば、世界移動した際にはより大きな災厄が発生しそうなものだが、完全には否定しきれない。
「しかし、厄介な相手だな」
討魔神剣を抜きはなった凛々しき聖堂騎士が、わずかに顔をしかめる。
粘液の化物は、ただ有機物――主に肉――を取り込み、溶かし、それを養分として分裂し、増える。ある意味で生命の存在意義に忠実な、しかし原始的な生物。その姿は、ユウトに、理科の教科書に載っていた植物の細胞を思い起こさせる。
また、原始的だけに、駆除も難しい。
物理的な衝撃を吸収する粘液の体は、刃を通さないどころか、生半可な武器は溶解させてしまう。
しかも、居所を変える球体の核を潰さなくては、再生してしまうという厄介な敵だ。ラーシアなら、内臓がないと哀しげな表情を浮かべていたことだろう。
デフォルメされマスコット化したスライムなどとは異なり、吐き気を催すような醜悪さ。
そんな相手が十数体ほど解き放たれると、真円の綻びはただの空洞と化した。
「これで打ち止めか?」
「充分だろ」
実際は、充分どころではない。
粘液の化物との戦いで主力となるはずの魔術師の手足が、縛られているかのような状態なのだから。
「野放しにするわけにはいかんな。ユウトの行動は任す」
「すまん」
微笑みで応えて、ヴァルトルーデは敵のただ中へと斬り込んでいった。
粘液の化物も、姿は見えなくとも、獲物――つまり、肉――の気配を感じて、うぞうぞと向かってくる。熱は帯びていないが、まるで溶岩流のようだ。
そんなモンスターを相手にしても、彼女はひるまない。
「はッ」
神の剣が閃き、大気と共に粘体の肉体を裂いた。
姿隠しの指輪も万能ではなく、攻撃の瞬間にはその美しい所作を満天下に晒してしまう。
「外したか」
しかし、一撃で核を破壊するまでには至らない。粘液の化物は失った粘体を補うかのように他の個体と融合し、再び肉へと這い寄っていく。
「ヴァル、気をつけろ! 今は、鎧を着てないんだぞ!」
「分かっている!」
魔法銀の鎧を身にまとっていれば、粘液の化物の攻撃程度、すべて跳ね返すこともできただろう。今、そのつもりで相対したら、惨劇へ一直線だ。
粘液の化物たちが、触手を伸ばしてヴァルトルーデへと肉薄する。
これで掴み、引きずり込むのがやつらの常套手段。
正面から迫る無数の触手を斬りとばしながら、聖堂騎士は大きく下がって距離を取る。四方から囲まれるのを防ぐためだが、これでは攻撃に出るのも難しい。
粘液の化物たちは視覚ではなく地面から伝わる震動で獲物の場所を把握しているため、姿隠しの指輪もあまり効果がなかった。
絶体絶命の危機。
否、この程度で、それはあり得ない。
「異界にて御身の威光を示さん。ヘレノニアよ! 忠実なる神の下僕に、力を与えたまえ!」
魔を討つ神剣のみならず、聖堂騎士の全身までもが清浄な霊気に包まれる。
直角に剣先を向け、そのまま突進した。
何本もの触手を流麗な足さばきでかわし、粘液の化物へ切っ先を突き出す。それが触れた瞬間、粘体の肉体が、内部から爆ぜたかのように四散した。
赤い、巨大なコンタクトレンズのような核がドロップする。
それを飛行の軍靴で躊躇なく踏みつぶすのと、次の標的へ剣を振るう動作は、完全に一体化していた。
鎧袖一触。
その見本となるかのように、粘体を吹き飛ばしては核を破壊していく。
残った粘液の化物を全滅させるのに、それほど時間はかからなかった。
「おつかれ」
「うむ。回避しきれば、特に問題はないな」
「いや、それ普通は無理だから」
ヒュドラの首が再生する?
火なんていらない。再生しなくなるまで殴れ。攻撃は避けろ。
こう言っているようなものだ。
「まあ、それができるのがヴァルなんだが……」
「エグザイルやラーシアもできるだろう」
「基準がおかしいことになってるな……って、まだ終わりじゃなかったのかよ」
油断はしていない。
けれど、安心していたのは確か。
上空に浮かぶ真円の綻びから――先ほどのは、ただの様子見だったと言わんばかりに――大量の粘液の化物が、次から次へと流れ落ちてくる。
先ほどの数倍。早晩、境内を埋め尽くすほどの量だ。
「こいつは……」
「ふむ。少し数が多いな」
少しどころではない。
ヴァルトルーデは顔色ひとつ変えていないが、ユウトはこのモンスターたちが街へ、自分やアカネの両親、友人、知り合い住む街へと向かうことを考え、焦燥が抑えられない。
「ヴァル、俺が呪文を使う。下がってくれ」
「……分かった」
もしかしたら、力を振るうことで、より大きな災厄を呼び込むことになるかも知れない。
それは理解している。
だからといって、目前の小事を放置することはできない。それは、〝虚無の帳〟の残党が攻めてきた時にも実証済み。
もう、隠れていても意味が無い。
姿隠しの指輪を外し、呪文の威力を底上げする達人の指輪へと交換する。
「小出しにはしない。一発で決める」
ユウトは、準備済みの呪文の中から、広範囲に効果があり、殲滅できるだけの威力があり、かつなるべく目立たない理術呪文を検索し、呪文書を開いた。
ヴァルトルーデが後ろに下がったことを確認し、8ページ分切り裂こうとする。
「ユウト、誰か来るぞ!?」
「なんだって、こんな時に!」
そこにいち早く気付いた聖堂騎士からの警告が飛び、ユウトの手が止まる。姿隠しの呪文を外したのは早まったかと後悔するが、遅い。
「ようやく追いついた……けれど、なぜ妖異がこんなところに雲霞の如く現れているのですか」
いきなりの侵入者は、ユウトが見慣れた制服を着ていた。
タータンチェックのスカートと同じ柄のベスト。胸元の赤いリボンは、ユウトやアカネより一学年下である証。
ややつり目がちだが、整った顔立ちだ。長い黒髪をポニーテールでまとめており、その華奢でスレンダーな体型と相まって、子猫のような印象を与える。
神社の階段を駆け上がってきた少女は、彼女の手には大きなエメラルド色のタブレットを小脇に抱えていた。
「そんな極大呪文を使用したら、とんでもないことになりますよ。センパイ、止めてください」
呼び名も、なぜ止めるのかも、彼女の素性も気になったが、それでためらうユウトではない。
無視して、《七光障壁》を発動し、粘液の化物を囲み押しつぶそうとするが――
「仕方ありません。《冷気の矢》」
少女がタブレットをかざしてフリック操作すると、そこから複雑な文様が描かれた魔法陣のようなものが投射される。
闇夜に映写された魔法陣から、二条の水色をした冷気の矢が射出され粘液の化物を撃つ。
「やはり、駄目ですかっ」
悔しそうに、少女が言葉を吐き出す。
第一階梯の攻撃呪文程度では、粘液の化物の一体も倒すには至らない。
それでも、ユウトは動きを止めた。止めざるを得なかった。
「呪文……なのか?」
「どういうことだ、ユウト?」
ユウトは答えられない。
恐らく、根底の理論は彼がブルーワーズで学んだ理術呪文と同じだろう。別世界とは言え、魔術の理論は共通らしい。物理法則も大差なかったのだ。魔術だけ例外というのもおかしな話だ。呪文書を使用しないのは、簡単な流派の違いか。
そこまで考察して、ユウトは頭を振る。
「いや、そもそも呪文なんかが地球にあるのがおかしい……」
「天草勇人センパイ。私は、賢哲会議の一級魔導官、秦野真名です」
「ダニシュ……メンド?」
「はい。失礼ながら、監視させていただいていました」
そう、彼女は丁寧な口調で告げた。




