6.二人の夜(後)
「ユウト、話は終わったのか」
父の晩酌に付き合い、椅子を持って書斎から出たところで、パジャマに着替えたヴァルトルーデに出くわした。
ピンクのシャツパジャマというありふれた格好だが、彼女が身にまとうと、新鮮な味わいがある。率直に言うと、可愛い。
しかも完全に不意をつかれた遭遇だったため、ストレートにその愛らしさが脳に浸透してくる。
「どうした? 様子がおかしいぞ?」
「いや、大丈夫だ。なんでもない」
「そうは見えんが……」
「ああ。そういえば、ヴァルは母さんから解放されたんだ」
「うむ。なにか妙な薬を顔に塗られたりしていた。説明があったが、なにがなんだか分からなかったぞ」
「それはたぶん化粧品だ」
化粧水とか乳液とかそういうものだろう。ユウトに、両者の違いは分からなかったし、そもそも、このヴァルトルーデにそんなものが必要とは思えなかった。
アカネに知られたら、懇々とお説教をされそうな感想だが。
「化粧? なぜ寝る前に化粧をするのだ?」
「なぜってなぁ……。お肌のケアとか、そういうのだろ」
やはり、よく分からないと首を傾げるヴァルトルーデ。アカネに知られたら、彼女もまた懇々とお説教をされそうだ。
「まあ、それはどうでもいいのだ。実は、ハルコ殿から言われたことがあってだな……」
「なにを? まあ、どうせろくでもないことなんだろうけど」
ダイニングへ椅子を戻そうと移動しながら、ユウトが問う。
その後ろをヴァルトルーデがついてきたため、自然、視線は前を向く。その先には、リビングルームの窓際で横になっている愛犬の姿があった。
コロは、ユウトがずっと家にいることに安心したのか、それともはしゃぎ過ぎて疲れたのか。定位置で、白いお腹の毛を見せながら仰向けに寝る姿を見て、自然と顔がほころぶ。
「ろくでもないというか……。どうやら、一緒に寝ることになったようだ」
「母さんと?」
3LDKのマンション。一部屋は、ユウトのもの。もう一室は父の書斎。残った和室に、両親は布団を敷いて寝ていたはず。
もしかして、男女で分かれるのだろうか?
そんなユウトの予想は、無惨に打ち砕かれた。
「なにを言っているのだ。そ、その、ユウトとに決まっているだろう」
「なん……だと……?」
思わず、椅子を取り落としそうになった。
そんなことをしたらコロを起こしてしまうのでなんとか途中で持ち直したが、衝撃は変わらない。
「確かに、うちには客間なんて無いけど……。まずくないか?」
「まあ、野営中を考えればなんでもないはずだが……」
今は、二人きりだ。
いや、両親がいる。いるのだ。
「なんというか、うちの母がアレで本当にごめん」
「うう……。ゆうちゃんがいじめるわ……」
和室に引っ込んでいたはずの母が、唐突に会話へ参加する。ただし、パックをしているため顔は出さない。
「ナイスアシストって、ほめてくれると思ったのに」
「息子のリアクションを楽しんでるだけだろ」
ただ、まあ、こんな異境の地でヴァルトルーデを手放すようなことはしたくない。かといって、親子揃って寝るのもごめんだ。
「分かった。ヴァルトルーデは俺の部屋で寝させるから。布団は?」
「もう運び込んであるわよ」
「故意犯か……」
完全に、母親の手のひらの上だった。もやもやするが、同じベッドで寝るわけにもいかない。
「済まないな。もう、かなり眠たくてな……」
「いや、ヴァルは悪くない。それに、限界が近いのは、俺も同じだ」
無理もない。ダァル=ルカッシュとの戦闘と、地球に戻ってきてからの。緊張状態で感じなかっただけかもしれないが、時差ぼけに近い症状だって出ているはずだ。
だからといって、平然としていることは難しい。
それを、二人とも、ユウトの部屋に入って思い知ることになる。
「ここが、ユウトの部屋か……」
「まあ、面白いものは無いと思うけどな」
六畳ほどの洋室。
外廊下に面した窓際にはベッドが置かれ、壁際にはテレビとゲーム機などがしまわれたラックがある。ラックにしまいきれない漫画の類は、クローゼットのひとつを潰して、そこに収納していた。
勉強用のローテーブルは、もうひとつ布団を敷くため端へと追いやられている。
昔はサッカー選手のポスターも貼ってあったが、高校に入る頃には剥がしていて、本当に殺風景な部屋だ。
「いや、そんなことも無いぞ……」
床に直接敷かれた布団に、リビングにあるのよりも小さな薄型テレビや、箱のように大きなゲーム機などを興味深そうに観察する。
さらに、そんなヴァルトルーデをベッドに腰掛けて眺めるユウト。
アカネが勝手に入ってくることが頻繁にあったため、見られて困るようなものは置いていない。そのため、悠然と構えることができた。
今だけは、アカネに感謝して良いかもしれないと思う。今だけは。
「それに、この部屋も涼しいな」
「まあ、窓を開けるわけにもいかないし」
防音がしっかりしているマンションなので窓さえ開けなければユウトたちの存在を気取られる心配は無いだろうが、逆に言えば、暑くて仕方がない。
エアコンが無ければ、一晩も過ごすことはできないだろう。
「そういうことではないのだが……」
ヴァルトルーデは各部屋にエアコンがあることを言っていたのだが、ユウトには伝わらなかったようだ。
拘泥するようなことでも無いので、彼女は次の標的を見定める。
「おお。これが、アカネが言っていたマンガか」
かなり前に完結した、下部リーグからの昇格を目指すサッカー漫画を手に取り、輝くような笑顔でページをめくっていく。
「確かに、絵ばっかりだな」
「そういえば、言葉は通じるけど文字はどうなんだ?」
「……読めぬ」
ぐぬぬと本を近づけたり遠ざけたり傾けたりするが、結果が変わるはずも無い。
「ただの記号にしか見えん」
世界転移をする際に、言語の翻訳能力と言うべきものは付与される。ただし、それは
知能を増加させるものではない。
つまり、元々文字が読めないヴァルトルーデは、地球へ来ても日本語の読み書きができるようにはならない。
「理屈としては合ってるが」
「なんて残酷な結論だ」
そこでふと、沈黙の帳が降りる。
めぼしい物は一通り見て回ったし、テレビを見たり、ゲームをやったりという状況でも無い。
そして、寝るための準備はすでに終わっている。
「そろそろ、寝るか……」
「そ、そうだな」
「とりあえず、ヴァルはベッドを使えよ。床で寝るのは、慣れてないだろ?」
「そんなことはないぞ。野営で地面に寝ていた頃に比べれば……。だ、だが、ユウトのベッドを使いたいというわけではなく」
「俺のったって、何ヶ月も使ってないし、洗濯もしてるし……」
「そうなのだろうが、そういうことではなくな……」
再び、沈黙の帳が降りる。
「ならば、一緒に――」
「それは一番やっちゃいけない解決法だ!」
本当にまずいとユウトは全身全霊をかけて否定した。地球に戻って、なにをやっているんだとなってしまう。
「やっぱ、ベッドはヴァルな。いくらなんでも、女の子を床に寝かせて俺だけベッドというわけにはいかない」
「むう……」
納得はしていないが、これ以上の議論も無駄だとヴァルトルーデは受け入れた。
「じゃあ、電気消すぞ」
婚約者がベッドに入ったのを見届けてから、壁のスイッチで明かりを消し、ユウトも布団に潜り込む。
二年ぶりの我が家。
見慣れた天井。
さっきは、この地球においても誰よりも美しい聖堂騎士と良い雰囲気になったりもしたが、やはり、疲労が大きかったのだろう。
次第にまぶたが閉じ、意識を手放しそうになるが――
「ユウト」
そんな彼の手を、ヴァルトルーデが形の良い指でぎゅっと握った。
「……どうした?」
「ここは、良い所だな……」
意図の見えない話。
けれど、ユウトは婚約者の手を握り返して、続きを促した。
「ユウトのご両親も、アカネのご両親も、いい人だった。どう見ても怪しいだろう私を受け入れてくれたしな」
「美人は得だな」
「……いや、皆がいい人だったからだろう?」
「俺が初めてあっちに行った時も、やっぱヴァルが美人だから信頼した部分があったし」
「不本意だ」
そうは言いつつも、声は笑っていた。
「ここに来て、ユウトのルーツに触れられた。嬉しかったぞ。まあ、犬に構い過ぎな所は、どうかと思ったが」
「仕方ないだろ。無視するなんて、そんな外道なことができるか」
暗闇の中、笑い合う二人。
だが、そのれが落ち着くと、ヴァルトルーデの声が憂いを帯びる。
「けれど、ここはあまりに遠い。ヘレノニアの、神の声が聞こえない。時折、不安になる」
沈痛なその言葉。
滅多に聞くことが無い、ヴァルトルーデの苦悩。
「ユウトの存在が感じられなかったら、私は平常心を失っていたかも知れない」
ヴァルトルーデが、指輪をそっと撫でる。そう言ってもらえると、贈ったユウトとしても嬉しかった。
もちろん、口には出さないが。
「帰ろう」
代わりに、彼は自分の意志を口にした。
「《星を翔る者》が、どう作用するか分からないけど」
まだ状況は流動的だ。どうなるか、分からない。
それでも、思いは決まっている。
「仮に作用しなくたって、帰るよ。もう、俺の世界はブルーワーズだ、家はファルヴなんだから」
「ユウト……」
想い人から注がれる愛。
その人に故郷を離れる決断をさせた自分への憤り。
両立できない感情に、なにも言えず。ただ、体温を、存在を、想いを確かめるように手に力を込める。
「朱音やアルシア姐さんたちも、心配してるだろうしな」
「ああ、そうだな……」
二人はこのまま。
手を握ったまま、異世界での最初の夜を過ごした。
次回は、アカネたち残留組のシーンになります。
たぶん、1~2話ぐらい。