5.二人の夜(前)
ユウトが知る限り、三木家の夫婦――つまり、アカネの両親――も、普通とは言いがたい人たちだった。
まず、アカネの父である三木忠士は、主夫。しかも、デイトレーダーを兼ねている。
この時点で一般的という言葉の範囲から逸脱しているが、外見は、黒縁眼鏡にやや太めの体格。適当に伸ばしてぼさっとしたボリュームがあり重そうな頭髪と、うだつの上がらない中年男性にしか見えない。
ただ、面倒見が良く子煩悩で、ユウトは昔からあれこれと面倒を見てもらっていた。
一方、アカネの母、三木恭子は心臓外科の女医と、夫とは別の意味で普通ではない。
すらりとした長身にベリーショートの髪をした彼女は、怜悧なキャリアウーマンといった印象を与える。
かなりの姉御肌で、「この人は、人が良すぎて私が守ってあげないと死ぬから」と夫にプロポーズしたという逸話を持つ。
それを楽しそうに語るアカネもどうなのかとユウトは思ったが、親子仲が良好なのは天草家・三木家で共通だった。
そんな二人が、天草家に招かれ、頼蔵の書斎で困惑の表情を浮かべている。手元の資料と同席しているユウトとヴァルトルーデの姿を交互に見ては、どうすべきか考えあぐねているようだ。
ユウトの両親に説明したのと同じく、ユウトとアカネは異世界にいたこと、婚約したこと、ユウトに婚約者が三人いること。すべて伝えた。
ある意味、二人を信頼して打ち明けた格好だ。
この場の主導権は頼蔵が握っているが、決して結論を急かすようなことはしない。
非常識すぎて信じられないという相手の思いに理解を示しつつ、ひとつひとつ論理立てて説明し、証拠を提示しながら巧みに誘導していく。
その手腕もあって、比較的短時間で三木夫妻はユウトの失踪については納得をしたようだった。もちろん、全面的にではないが。
一番効果的だったのはやはり、ブルーワーズという異世界、つまり、地球の常識で計り知れない地があるという証拠を、魔法具で見せたこと。
ただし、今回は空飛ぶ絨毯ではない。
「神の意志が薄弱なこの地だ。こちらの方が分かり易いだろう」
「いや、だからって無茶苦茶な……」
意志を固めたヴァルトルーデを止めることはできず、ユウトにできたのは、新聞紙を敷くことだけ。
そのうえで、予備武器として隠し持っていた短剣を取り出すと、なんのためらいも無く手首の辺りを掻き斬った。
「ユウト」
眉ひとつ動かさず、冷静に垂れ落ちる血液を眺める。
一方、大人たちは――頼蔵でさえも――唖然として声も出ない。
「勇人くん、なにをさせているんだね!?」
「大丈夫ですから」
医者だけあって真っ先に立ち直った恭子が非難の声と共に立ち上がるものの、ユウトはそれを軽く制した。
「なんか、俺が変な影響を与えたような気がするな……」
そうぼやきながら、ユウトはビンの中に入った魔法薬を、病人に水でも飲ませるように口元へ持っていく。
「やはり、あまり美味い物ではないな」
それを嚥下したヴァルトルーデは、自傷を行なった時にも見せなかった苦い表情を見せる。
けれど、ユウト以外にそれを見た者はいなかった。
「治っていく……」
それは誰から発せられた言葉か。
そんなことは気にならなくなるぐらい、彼らにとって衝撃的だった。
瞬時に血が止まり、肉が皮膚が再生していく。あり得ない回復速度。
「これが、あっちでは一般的……とまでは言えないけど、月収ぐらいで買えちゃう魔法薬です。なんなら、今度は俺が飲ん――」
「……分かった」
一番初めに反応をしたのは、職業柄やはり恭子だった。
なにかのトリックとしか思えないが、医療現場にいた彼女の理性がそれを否定する。信じざるを得ない。
「だから、もう、それのことは忘れさせてほしいところだね」
さばさばとした口調とは裏腹に、普段はクールな相貌に懊悩を乗せて言った。
「そんな物を見せられたら、後悔で押しつぶされてしまう。そして、万難を排してでも、悪魔に魂を売ってでも、手に入れたくなる」
妻にここまで言われては、三木忠士の方もなにも言えない。
ユウトが異世界にいた、ヴァルトルーデもその住人であるというほら話にしか聞こえない前提は、こうして受け入れられた。
次なる障害は、アカネの行方に関してだが、意外にもこれはあっさりと受け入れられた。
「朱音ちゃんは、勇人くんを探しに行くって出かけたからね。そういう意味では、目的を達したってことになるよね?」
「最悪の事態も考えていたのだ。それに比べたら、かなりましな部類だよ。勇人くんが、いずれ連れてきてくれるんだろう?」
「はい。絶対に」
証拠は無いが、信じたい。
恐らく、そんな心理が働いたのだろう。
ユウトにできることは、ブルーワーズと地球を往復する呪文を開発する。それしか無い。
「後は、勇人くんがその、ファンタジーな世界で重婚をして、その中に朱音ちゃんが含まれてるっていう件かな?」
「正確には、まだプロポーズしただけですが……」
「充分、問題だ」
「……まあ、良いんじゃないの」
「そうだね」
信じられないぐらいあっさりと、認められてしまった。殴られる覚悟はしていたし、それで済むとも思ってはいなかった。理解がありすぎて、逆に戸惑う。
「良くはないと思うんですが……」
「むしろ、僕としては奥さん三人も持つ勇人くんの方が心配だ。ストレスを抱えないようにしなよ?」
「そこの超美人さんも、そうなんだろう? なら、うちの朱音は、負け試合をなんとか引き分け以上に持ち込んだわけだ。ゲーム理論としても正しい」
アカネはユウトのことが好きという大前提。しかし、ユウトはヴァルトルーデと深い仲になってしまった。
そこに割り込むのも奪うのも難しいのであれば、配偶者が増えても構わないという理屈。
「あれだな。パンが無ければ、お菓子を食べれば良いというのと同じだ」
「恭子さん、それ、マリー・アントワネットは言ってないからね。とある中国の皇帝は、粥が食べられなければ、肉を食べれば良いじゃないって本当に言ったらしいけど」
そんな具合に、話し合いはなんとかまとまった。
結局は、大人たちのユウトへの信頼が大本にあるのだが、とりあえずでも信じてくれたのは彼にとっても嬉しいことだった。
また、「よく戻ってきたね」声をかけられた時は、泣きそうになっていた。もちろん、誰にも気付かれないようにだが。
その日、三木夫妻はそのまま天草家で夕食も摂り、久々に明るい表情が食卓に並んだ。
そして、その夜。
ユウトは、再び父の書斎に足を踏み入れた。今度は、父と二人きりで。
話し合いの時はリビングから椅子を運んでいたが、食事会に伴い、元の場所に戻した。一脚だけまた運ぶ羽目になったが、コロが騒いで運びにくかった。
「まあ、座れ」
「うん」
父は、秘蔵のウィスキーを二人分のグラスに注ぎ、息子が来るのを待っていた。
「未成年だけど?」
「あっちでは、飲んでいたんだろう?」
「まあ」
「水が悪いと、酒を水代わりに飲むというからな」
夕食時のヴァルトルーデのうわばみっぷりで見当を付けていたのか、顔色も変えずに父は言った。
ちなみに、ヴァルトルーデは初めて飲む日本酒も豪快に杯を干して場を沸かせていた。
舐めるように蒸留酒を飲みながら、まず父が口を開く。
「正直なところ、犯罪に巻き込まれていない限り、お前がどこでなにをしていたかというのは、それほど問題にはしていない」
「ありがとう……」
「だが実のところはな、お前をどこかへやりたくはないこれは、本音だ」
「……父さん」
当然の言葉に、自然とユウトの肩が落ちる。
「けれどな、あの怪我の後、私たちは、勇人が望むことをやらせよう。そう決めたのだよ」
息子のグラスに琥珀色の液体を注ぎながら、そんな台詞を口にする。
「お前が、怪我の後、私たちを心配させないようにサッカーから離れたのは分かっていた。分かっていて、なにも言わなかった。いや、言えなかった。なにより、安心したからだ。あんな心配を、リハビリで苦しむ子供の姿を見ずに済むからだ」
「そんな……」
そんなことを思っていただなんて、気付かなかった。どれほど深く愛されていたか、理解していなかった。
「次は、勇人。お前が、わがままを通す番だ。決めたなら、最後までやり通せ」
「うん」
「まあ、海外に移住でもすれば、滅多に会えなくなるだろうし。そんな家族もいるだろう。それに、そうだな……」
これを言うべきかどうか、迷うようにグラスを傾けながら、結局は、口を開いた。
「失敗したら、嫌になったら逃げてこい。私は逃げることは間違いだとは思わん。それに、ここは、お前の帰るべき場所だ」
「…………」
ユウトは、なにも言えなかった。
ただ、無言でうなずくことしかできなかった。
この胸の中にある思いを口にしたら、その瞬間に、すべてが偽りになってしまうから。