4.とある聖女の異世界衣食住
「ヴァルトルーデさん、ヴァルトルーデさん。これなんて、どうかしら?」
「いや、ユウトの母君。さっきの服で良いと言ったはずでは?」
「やだわ、そんな他人行儀に。お母さんって、呼んで」
「それは……」
リビングに隣接する和室から、聞こえてくる嬌声。たった二人でも、かしましい。分厚い鎧下では暑いだろうと、そして、可愛くないと、ヴァルトルーデに服をあてがっているところだった。
当然ふすまは堅く閉じられ、声しか聞こえてこない。
それでも、彼女がどんな表情をしているかは、容易に想像できた。
ユウトから衝撃的で非現実的な話を聞いた両親は、しばらく絶句していたが……すぐに心を切り替えた。
「今すぐに行っちゃうわけじゃないのよね?」
と、息子の言葉を前向きに解釈し直した母は、未来の義娘の手を強引に取って衣装タンスへと連れていった。
年甲斐もなく若々しい服が多いから問題ないだろうと余計な言葉を加えて折檻された父は、書斎に閉じこもってなにか作業をしている。
それを邪魔するわけにもいかず、ユウトはリビングにシートを敷いて愛犬のブラッシングをしていた。
久々に戻ってきたのだ。自分の部屋でやりたいこともあったし、色々と確かめたいことは残っている。
だが、どこへ行ってもとことことついてくる愛犬を、見捨てることはできなかった。まあ、いなかった間のニュースチェックや向こうで役立ちそうな情報収集は後でもできる。
魔法関連の確認は、人目のない夜にするつもり。
だから、ブラッシングだ。
ポメラニアンという犬種は、世話にあまり手間がかからないが、夏場の抜け毛は例外。毎日でもブラッシングしなければ、そこかしこに毛が抜け落ちて大変なことになるのだ。
それはそれとして、気持ちよさそうに目を細めているコロを見ているだけで充分報われる。
ラーシアに見られたら指をさして笑われそうだが、笑わば笑え。でも、見なかったことにされたら最悪だな……などと考えて手を止めていたら、苦しうない、続けよ。と、身をよじりブラッシングを催促された。
エアコンの利いた室内。蛍光灯の光。フローリングの床。身長と同じぐらいの窓ガラス。その向こうには、母の趣味の鉢植えがいくつか並んでいた。
つけっぱなしにしているテレビからは、ケーブルテレビのドキュメンタリーチャンネルの吹き替え音声が流れている。
どれも、文明の薫りがする……というのは言い過ぎだろうが、とにかく快適なのは間違いない。
ブルーワーズでの生活も、それほど不満はなかった。無かったのだが、地球と同程度の生活をするため、普通では考えられないほどのリソースを注ぎ込んでいたのは間違いない。
魔法具と金貨に支えられた非常識な生活だったんだなと、今更気づく。
「も、もうこれで良いですから」
「やだ、まだあるのに」
ユウトの母――つまり、将来は義理の母になるのだが――の制止を振り切り、ヴァルトルーデがふすまを開ける。
和室から出てきたのは、美少女だった。
袖が短いライムグリーンのワンピースは麻で、見た目も涼しげ。黒のパンツを合わせているが、足の長さの関係か、かなり裾を折り曲げていた。
髪もかなり伸び、雰囲気としては日本へ留学に来た美人女子大生と言ったところだろうか。もちろん、大学のキャンパスに足を踏み入れた経験などありはしないのだけど。
「似合ってるよ、かわいい」
気づけば、そんな言葉を発していた。完全に、無意識だ。我を忘れていたから言えた台詞であり、そうでなければ恥ずかしすぎて口にできなかったはずだ。
「え? あ? そ、そうか……」
右を向き、左を見て、最後は天井に視線を移したヴァルトルーデが答える。裾に手を伸ばしては無意味に引っ張り、身をよじって、正面から見られないようにしつつ。
そんな息子たちの様子を、春子は細い目を笑みにして眺めていた。
ユウトは信じていたが、さすがにその話をすべて受け入れ、信じているとはいえない。婚約者が三人というのも、なにを言ったところで引かないだろうからなにも言わなかったが、正直なところ、どうかと思う。
けれど、ユウトが帰ってきてくれた。彼女と一緒で、嬉しそうに、楽しそうにしている。だから、これで良いのだと春子は思っていた。
今、息子は確かにここにいる。
それに勝る幸せがあるだろうか?
「ゆうちゃん、後でヴァルトルーデさんの服を買わなくちゃだめね」
それはそれとして――と、義務感を前面に押し出して母が言う。着せかえ人形にしたいだけかと思いきや……。
「まさか、下着が――」
「そういうデリケートな話は開けっぴろげにしないでくれませんかねぇ!?」
「でも、こんな美人さんお店を連れていったら、絶対に話題になっちゃうわ」
「だよなぁ……」
とりあえず落ち着くことはできたが問題は多い。
ユウトもいくつか服を新調したいところだが、彼が外出するのはヴァルトルーデよりも難しいだろう。
なにせ、二年も経っているのだ。着られなくなった服も多かった。今は、元々サイズの大きかったTシャツにデニムというラフな格好だ。
息子の成長に驚きと喜びと納得が入り交じった空気が醸し出されたが、お互いに深入りを避けた。
「ところで、ユウト。お前はなにを……」
「お世話を」
「やたらと甘すぎないか? まさか、ヨナやレンを可愛がっていたのは……」
「なぜ、そこでその二人が出てくる」
不本意だと、ユウトは言い返す。
しかし、ブラッシングの手はそのままなので、まるで説得力がない。
とりあえず母は、「ヨナ」に「レン」という新たな登場人物の名を記憶に刻んだ。
「だって、手を止めると催促されるんだもんよ」
こうなっては無駄かと、ヴァルトルーデと春子が顔を見合わせた。二人が仲良くやってくれているのは良いが、今ひとつ釈然としないユウト。
「さて、少し早いけどお昼にしましょ。悪いけど、手伝ってもらえるかしら?」
「わ、私は……」
「大丈夫よ、ちゃんと教えてあげるから」
予備のエプロンを手渡し、やる気満々の母親。
ヴァルトルーデは料理など、材料を切って茹でるか焼くかしか知らない。さすがに、そんな彼女を二十一世紀のシステムキッチンへ叩き込むのは無謀ではないかと、止めようとするが……。
「ゆうちゃんは、台所に来ちゃだめよ。あとで、ちゃんと手を洗ってね」
あっさり、いなされてしまった。
仕方がないと、もうひとつの要望を口にする。
「ところで、ゆうちゃんは……」
「なあに?」
「……なんでもないです」
良い年をした息子を「ゆうちゃん」呼ばわりはいかがなものか。それを糾弾するチャレンジは、あっさりと失敗に終わった。母は強い。
「はい、まずは手を洗ってね」
「ユウトが言っていた、うがい手洗いというものか。効果のほどはよく分からないが……」
学校を作ってからは特に、ユウトは清潔にすることを徹底させていた。ファルヴの街には豊富な水源があるのだ。使わない手はない。
半信半疑――というよりは、大魔術師に言われたからやるという状態なのだが、効果は上がるはず。
まあ、ヨーロッパでも、医者は偉いから手を洗わなくても問題ないとされていた時期があったのだ。あまり、他人のことは言えない。
「うわっ、なぜかこの管から水が出てきたぞ。魔法か?」
「そうきたか」
屋上のタンクに貯めた水を各戸に……などと説明したら、雨水を貯めているのか? などと聞かれそうだ。正直、どこからどこまで説明したらいいのか分からない。
そうユウトが迷っている間に、手洗いは終わったらしい。
「今日のお昼は、ミートソースのスパゲッティにしましょう。まずは、タマネギのみじん切りからね」
「斬ることなら、自信があります」
正確には、それ以外できないのだが、ユウトはそれすらできないのでなにも言う資格はないだろう。
春子の指導の下、へたを切って皮をむき、半分に割ってからみじん切りに挑む。
「あら、上手ね」
「問題ありません」
さすがにまな板を割断するようなこともなく、ヴァルトルーデはあっさりとみじん切りを終える。同時に、一番面倒な工程も終えたこととなる。
「次は、冷蔵庫から、挽き肉を出しましょう」
「なんだ、この箱は。なかが冷たい。これも魔法具か?」
「魔法じゃない。科学だよ」
「カガク? ああ、アカネと同じだな。ハルコ殿は、テクノマンサーだったのか」
「テクノ? 私は、音楽はやらないわねぇ」
かみ合わない会話。その原因のいくらかはユウトのでっち上げにあるのだが、誤解を解くのも困難だ。
この二人の組み合わせは失敗なんじゃないかと考えつつ、ユウトはブラッシングを終える。後かたづけをしてから洗面所へ移動し蛇口を持って帰ろうとしないだろうなとばかげた心配をしていた。
「じゃあ、フライパンで炒めていくわよ」
「炒める? しかし、かまどは……」
「かまど? ガスレンジがあるから大丈夫よ」
「うおっ、火がついたぞ。薪も無しに」
「アウトドアじゃないものねぇ」
その後、トマトや缶詰との歴史的な邂逅を果たしたところで、ヴァルトルーデはお役ごめんとなった。あとはパスタを茹でるだけなので、二人いても意味はない。
ユウトはリビングのソファに座って見るとは無しにテレビを眺めながら、足下の愛犬にちょっかいをかけている。
そんな彼の横に、エプロンを外した聖堂騎士がちょこんと座って言った。
「この世界はすごいな。庶民が当たり前のように魔法具を使って生活しているとは。どんなからくりかは分からぬが、とにかくすごい」
乏しい語彙で絶賛するヴァルトルーデ。
どうやら、使用人の一人もいないかったことで天草家=貴族説は消え去ったようだが、その代わり他の誤解が発生していた。
「魔法じゃなくて科学の産物だって、言ったろ?」
「ん? だから、魔法具だろう?」
「……まあ、それでいいわ」
ユウトは、早々に説明を諦めた。
なにしろ、このテレビに関してだって、ユウト自身原理を熟知しているわけではない。
「ところで、この魔法具はどこの光景を映しているのだ? というか、勝手に映していいものなのか?」
チャンネルは、ドキュメンタリーのまま。
外国人が、第二次世界大戦中の戦闘機に関して説明をしている。
板の中に人がいるぞ!
――という勘違いは避けられたようだが、その台詞で、テレビをミラー・オブ・ファー・フロムと誤解しているのだと気づく。
「いや、これは映像を撮影する機械――魔法具で録画したものを、電波に乗せてそれぞれの家に配信してるんだ」
単純化したうえに正確とは言い難い説明。
しかも、受け手にも問題がある。
「電波とはなんだ?」
「空気の中の見えない波?」
「なぜそれが像を結ぶのだ?」
「……なんでだろうなぁ」
なんかもう、魔法でいいやと投げやりになってしまうユウトだった。
「そろそろ茹であがるから、テーブルを片づけてちょうだい」
「はいよ」
これ幸いと、先ほど話し合いが行われたダイニングテーブルへと移動し、ウェットティッシュで丹念に拭いていく。それを見計らって、春子が三人と一匹分の皿をトレイに乗せて運んできた。
卓上へ並べられていく、赤いソースのスパゲッティ。トマトの薫りが鼻孔をくすぐり、食欲を刺激する。
「……ひとつ、麺だけの皿があるようだが?」
「これは、コロのだよ」
短く切れたパスタをつまみ、蜘蛛の糸のように垂らしてやる。
すると、コロは後ろ足だけで立ち上がって、器用に食べ始めた。パン食い競争を思わせる光景。
「相変わらず、麺好きだな」
「コロちゃんは、おそばとかも大好きよね」
家族同然。いや、それ以上の扱いに、ヴァルトルーデは素直に驚きを覚えていた。
「さ、いただきましょう」
「……ライゾウ殿は、いいのか?」
家長抜きで始まる昼食風景に思わず疑問を挟んだところ、笑いながら構わないと春子が手を振った。
「いいのよ。あの人は、作業に集中すると、邪魔されるの嫌がるから。後で、一人分、茹でれば良いだけだもの」
「ふうむ……」
やや釈然としない物を感じつつも、ユウトに倣ってフォークでパスタを巻くヴァルトルーデ。
「これは……」
一口ほおばった瞬間、細かい疑問は吹き飛んだ。いや、小さな話になってしまったというべきか。
「どうだ?」
「美味い」
端的な表現だが、実感がこもっている。
そのまま大きく二口目を口に運――ぼうとして、アカネから散々言われた、美味しいだけじゃ参考にならないという言葉を思い出す。
「酸味の中に、野菜の甘みと肉の旨みが溶け込み、麺に絡む味わいは至福だな」
「……無理しなくて、良いんだぞ?」
こうしてデザートのアイスまで平らげ、なんとなく精神的に弛緩し始めたところ、なにかたくらんでいそうな表情で――つまり、いつも通りの表情で――天草頼蔵が姿を現した。
「お父さんも食べる?」
「そうだな……」
少し考えてからうなずく。今この瞬間に、誰かを抹殺する決心をしたと言われたら、信じてしまいそうな貫禄だ。
「私が食事をしている間、勇人はこれに目を通してくれ」
「これは?」
そう聞きながら受け取ったA4サイズの紙束。印刷したばかりなのか、やや温かい。
「お隣に説明するための資料だ」
見れば、ユウトの主張と常識的な疑問・反論。それに対する、再反論などが列挙されている。別紙として、想定問答集までもあった。
しかも、文書作成ソフトで簡単に作ったものではない。プレゼンテーションソフトで、見栄え良く、分かりやすく作成されている。
「事実誤認や、訂正、提案があれば言ってくれ」
「あ、はい……。お手数をおかけしました……」
あまりにも予想外の行動に、それしか言えなかった。