2.帰還と転移(中)
「というわけで、ヴァル。まず、俺の家に行こう」
「ゆ、ユウトの家にか?」
メールへの返信を頭から振り払ったユウト。
その彼からの提案に、どんな強敵を前にしても見せたことのない狼狽を見せる。
ユウトに、特別な話をしている自覚はない。
にもかかわらず、ヴァルトルーデは難色を示した。
「魔法具が動作するのは分かったが、普通の呪文を確かめる必要は無いのか?」
「使えそうな気はするけど……」
だが、どうなるかは分からない。
実験をしたい気持ちはあるし、《星を翔る者》の仕掛けは機能するのか。確認したいことは他にもあるが、すべては落ち着いてからだ。
「そうか。実は私も、ヘレノニアとのつながりが薄くなっているように思えてな」
聖堂騎士としての力は失われてはいないはずだが、特に呪文を行使する能力は減衰しているようだった。
次元の壁を越え、まったく違う領域へ入り込んでしまったのだ。止むを得ないところだろう。
「そこもちゃんと確認しておきたいところだけど……。お金が、無いんだ」
「金貨や銀貨なら、手持ちが結構あるだろう?」
「こっちじゃ使えないんだよ」
携帯電話は案外役に立つので持ち歩いていたが、財布は執務室の机の中にほったらかしだ。だからといって、まさか呪文を使って拝借するわけにもいかない。
ただでさえも人目を惹くヴァルトルーデに、失踪届が出されているだろうユウト。現金が無くては、身を隠すことも難しい。
「分かった。覚悟を決めよう」
「覚悟って……あっ」
ヴァルトルーデにとっては、ユウトの両親へ挨拶に行く。それと同義だと、ようやく思い至った。
先ほど確認した日時によると、今日は日曜日。つまり、共働きだが、両親は家にいるはず。
そう思っての提案でもあったのだが、こっちにずっといるつもりがないという以上、ユウトにも、別の覚悟が必要だった。
「三人同時にプロポーズしたとか、どうやって話せばいいんだ……」
今更ながら、自分がどれだけ非常識だったのか自覚する。ヴァルトルーデやアルシアは、まだましだろうが、アカネからするとふざけた話だったはず。
こんな男をよく受け入れてくれたものだと、気心の知れた幼なじみが聖女のように思えた。
けれど、家に帰るという方針は変わらない。
手早く携帯電話の電源を切り、結局、ヴァルトルーデには鎧を脱いでもらうことにした。魔法具の鎧は、簡単に着脱できる機能があるので便利だ。
討魔神剣も一緒に、無限貯蔵のバッグへ仕舞い込む。
綿入りの鎧下にズボンという動きやすい格好だが、夏に着るべき服ではない。そのため、保温の外套は、そのまま装備することにした。
ユウトも大魔術師のローブを脱ぎ、裏門へ移動する。
そして、人目が無いことを確認してから、ある指輪を嵌めた。
姿隠しの指輪。所有者は透明化し、他者から見えなくなる。
昔、この状態で奇襲をかけるために用意した魔法具。それがこんなところで役に立つとは思わなかった。
とはいえ、これが光学機器にまで効果があるかは分からない。
だから、走った。
公共交通機関も使えない、自転車を拝借するわけにもいかない。呪文にも魔法具にも、今は頼れない。
そうなれば、移動手段は極めて原始的なものに限られる。
朝だが強い日差しの中、マントをかぶった美少女と、夏なのに詰め襟の制服を着た男子高校生が手をつないで駆け抜けていく。
かなり怪しい光景だが、その姿は、手をつないだ当人同士にしか見えない。
日曜日ということもあり、なんとか誰にも気づかれず――姿が見えていたとしても、怪しすぎて逆に怪しまれなかったかも知れない――自宅マンション前に到着した。
ユウトにとっては全力疾走だがヴァルトルーデにしてみると、ちょっとしたジョギング程度の運動量。これにはさすがに、理不尽さを感じたが……。
さすがに息切れした大魔術師が呼吸を整えている間、汗ひとつかいていないヴァルトルーデが地上十五階はある建物を見上げて感嘆の声を上げた。
「随分と立派な家だな。どこが一般人なのだ。家名もあるのだし、やはり貴族だったのだろう?」
ヴァルトルーデの目には、分譲マンションが貴族の邸宅に見えていた。
芸術性や優雅さには欠けるが、こんなに立派な建物は王城ぐらいしか見たことがない。似たような建物がいくつか隣接しているが、この周辺は貴族が住まう一画なのだろう。そう考えれば、あの学校も貴族の子弟が通う特別な施設だったに違いない。
一度、自分が住んでいた場所は王侯貴族ではなく民衆が代表者を選んで政治が運営されていると説明しているため、ユウトは、彼女がこんなことを考えているとは想像もしていない。
残念ながら、ヴァルトルーデはそこまで憶えてはいなかった。というよりは、その前の段階で固まってしまっていたので、認識自体していない。
「全部がうちの持ち物じゃねえよ。一室だけ。あと、朱音も同じだ」
数分で疲労から回復したユウトは要点だけ伝えると、勘違いしている婚約者の手を握った。何度か握ったことはある。緊張する要素はない。
そのはずだが、それだけで嬉しそうにしてくれる婚約者の顔を見ると、勝手に心臓が高鳴ってしまう。
「もうちょっとだから、姿隠しの指輪は外そう。ついてきてくれ」
「ああ。任せるぞ」
そのままエントランスへ進入してインターフォンで呼び出そうとしたところ――スーツ姿なのは、日曜にもかかわらず出勤するところだったのか――思いがけず父親と再会を果たした。
「父さん!」
「……っ!? 勇人! 勇人か?」
「ごめん。詳しい話は家で」
学生時代はラグビー部だったという父のがっしりとした体を押して、エレベーターホールへと移動させる。記憶にあるより、小さな肩。いや。こちらが大きくなったのだろう。
(今日は、人を押してばっかりだ)
そんな益体もないことを考えつつ一階に止まったままだったエレベーターへと乗り込んで、部屋がある七階のボタンを押した。もちろん、ヴァルトルーデも一緒に。
「無事だったのか? 今までどこにいたんだ? そっちの人は、誰なんだ?」
「ごめん、家で母さんにも一緒に全部話すから」
ユウトの父、天草頼蔵。
いかつい長方形の顔。やや白髪交じりの髪。無口で、常に不機嫌そうな顔をしている印象だったが、今はそんなイメージをかなぐり捨てるかのように、質問をいくつも投げかけている。
それに対しユウトは答えず、ヴァルトルーデの手を握ったままエレベーターに身を委ねた。
誰も彼も無言。
話したくないのではなく、話したいことがいくらでもあるが故の沈黙。
そんな状態のまま、エレベーターは目的の階に到着し、誰にも会わずにユウトの家までたどり着く。
「あら。あなた、忘れ物ですか?」
「いや、勇人が」
「……ゆうちゃんが?」
玄関に人が入った気配を憶え、洗面所で出勤の準備をしていたユウトの母が夫へ声をかける。しかし、どうにも要領を得ない。
三人も入ればいっぱいになってしまうそこで、ゆうちゃん? と、ヴァルトルーデが耳慣れぬ呼び名に反応を示すが、それよりも早く激しく反応を示すものがいた。
「キャンッ! キャンッ! キャンッ! キャウンッ!!」
ユウトの部屋の前で待機していた天草家の愛犬コロが、千切れてしまいそうな勢いで尻尾を振りながら、久々に再会する家族へと駆けだした。
頭から尻尾にかけては茶色の毛だが、腹の辺りは白い。顔も整っていて、世界で一番かわいい――と、ユウトは思っている。
手前にいた頼蔵は素通りし、一瞬でユウトの足下へ。
狭い三和土にもかかわらず、全身で喜びを表現するかのように、何周も何周もぐるぐる回る。小型犬のポメラニアンのため、間違って踏まないようヴァルトルーデは慌てて距離をとった。
「おう、コロ。元気だったか?」
ユウトは屈んで、そんな愛犬のあごを指先でかくようにさすってから、頭や耳の後ろを少し乱暴に撫でる。いきなり頭に手をやると、叩かれると誤解してしまう。
だから、まず他の所から触ってやる、いつものやり方。
「キャウキャウンッ!」
狂喜乱舞。
コロは、もう、どうしたらいいか分からないと、感極まってその場に仰向けになり、毛の白い腹を見せてしまった。
そんな愛犬の姿を見て、こみ上げるものがあったのか。
泣き笑いのような表情で、要求通り今度は腹を撫でてやる。
「……ゆうちゃん?」
そこに、異変を感じ取った母親がやってきた。
「ただいま、母さん」
「ゆうちゃん……ッッ」
目の細い、穏和な母。
父親とは違って、いつも笑顔だった母。
その彼女は、八ヶ月振りに見た息子へとふらふらとした足取りで近づき、抱きついた。ユウトの首筋が、暖かいもので濡れる。
「父さん、母さん。心配かけてごめん」
母の泣き顔など、サッカーで大怪我をしたとき以来。
今回は自分のせいではない、偶然巻き込まれただけ。だとしても、心配させたことは謝りたかった。安心させてあげたかった。
「いいのよ。元気でいてくれたら、それで……」
「ああ。無事で良かった。体は大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ。なにがあったのか、ちゃんと説明もする」
「あら嫌だ。いつまで立ち話しているのよ。早く、あがってあがってあがって。そっちの綺麗な娘もね。息子がお嫁さんを連れて帰ってくるだなんて、想像もしてなかったわ。今日はお休みしますって、会社に連絡しないと」
「そうだな。私も、そうしよう」
「いや、お嫁さんって」
一足先にリビングへと移動する両親の背中を眺めつつ、ユウトはこめかみの辺りをかいていた。
真実なだけに、否定もできない。するつもりもないし、これから紹介しなければならないのだが。
一時的に蚊帳の外――傍観者になっていたヴァルトルーデと顔を見合わせた。ブルーワーズ最強の聖堂騎士は、かつてない緊張に包まれている。
彼女が髪の乱れを気にしているところなど、初めて見た。その美貌にもかかわらず容姿に無頓着で、アカネからずるいと言われていたのに。
「ごめんな、うちの母さん天然で」
「いや、問題はない。そのはずだ、きっと」
こうして、天草勇人は両親との再会を果たした。
空気を読まないコロが膝の辺りまでジャンプして、もっと撫でて、もっと構ってと催促されながらだったが。