1.帰還と転移(前)
「ここは……」
目を開き、最初に感じたのはまぶしい光。
見れば、夏の終わりの太陽が容赦なく照りつけている。
騒がしい、風の音。
いや、これは騒音だ。
久しぶりに聞くその音は、不快感と同時に郷愁を天草勇人へともたらした。
「あれは、なんだ? 鉄の馬車が、もの凄い速度で走っていくぞ」
聞き慣れた声。耳朶に快い、愛する人の、愛してくれている女性の声が染み渡る。
「ああ……。お約束のリアクションをありがとう」
そんな神の恩寵を一身に受けた彼女の美貌を仰ぎ見つつ、想像通りの反応に自然な笑みを浮かべた。
そう。ヴァルトルーデの顔は視線の上にある。今になって、自分が歩道に座っていることに気づく。
夏の太陽に熱せられたアスファルトが、手のひらを焼いていた。
「帰ってきちまったか」
かつて望んだ結末。
あの場では、他に方法もなかった。
けれど、声も表情も苦い。
天草勇人は、故郷へ帰還を果たした。
ブルーワーズへ戻る保証も無いままに。
「ここが、ユウトの故郷か……」
「ああ。でも、浸ってるわけにはいかないな」
まだ、現実感が無い。いや、欠いているのは危機感だろうか? 働きの鈍い頭を押さえながら、ユウトは立ち上がった。そして、周囲を見回し、ここがどこなのか手がかりを探す。
「って、学校かよ」
幸いにして、糸口は最初からそこにあった。
振り返ると、自分が、そしてアカネが通っていた、高校の正門。
そのすぐ側に転移していたのだ。ユウトは気づかなかったが、彼の幼なじみが転移したのと同じ場所。
同じ地球でも、白亜紀や古代ローマへ漂流していた可能性もある。呪文の精度や使い手が良かったのか、それとも単純に幸運なだけか。
とにかく、ユウトは安堵の息を吐いた。
まだ時間が早いらしく、校門は閉まっていて、外の道路を走る車も多くはない。すぐに騒ぎになることはないだろうが、このまま惚けているわけにもいかなかった。
「ヴァル、とりあえずこっちへ」
「勝手に入っていいのか?」
「俺が通ってた学校だから、問題ないよ」
「学校なのか、これが?」
身長ほどもある壁に、鉄のゲート。
その先には、鉄筋コンクリート造りで四階建ての建物がいくつか並んでいる。さらに、ここからは見えないが数十人が一度に運動できる広場もあった。
「言われてみれば、砦と変わんないな……って、それどころじゃないっ」
懐かしさとは違う感慨で学校を見上げていたユウトは、我に返って聖堂騎士を門の向こうへと押し込んだ。と言っても、最後はヴァルトルーデ自ら鎧の重量など存在しないかのように、ゲートを軽やかに飛び越えたのだが。
それに続くように、ユウトも簡単に校門を越える。
元々高さはそれほどではないが、手も突かずに飛び越えられるとは思わなかった。
「俺、こんなに身軽だったっけ?」
目立たないよう壁際へヴァルトルーデの背中を押しつつ、自らの身体能力に疑問を覚えてしまう。正確には、ブルーワーズで過ごしている間にフィジカルが成長したのだ。
今なら、サッカーに復帰しても、結構いけるかも知れない。
「いや、それはどうでもいい」
「どうでも良くないぞ。私は、どこまで移動すればいいんだ」
ユウトが促すまま進み続けていたらしい。
向こう側にも壁が迫っているのに気づき、あわてて手を離した。
そこは、敷地の片隅。存在意義は分からないものの、木が植えられ池まで作られている。つまり、学校の外からも校舎からも目立ちにくい場所。
ここなら、しばらく身を隠すのにちょうど良い。
「悪い。気が動転してた」
「別に、離れろという意味ではなかったのだがな」
基本的にスキンシップが少な目の婚約者が、鎧越しであっても触れているのは嬉しかったらしい。
しかし、すぐにそんな場合ではないと、顔を引き締めた。
「ユウト、絶望の螺旋はどうなったのだ? それに、アルシアは? アカネは? みんなはどうなった?」
「落ち着け。絶望の螺旋は引っ込んだよ。俺たちが生きているのが、その証拠だ」
仮に絶望の螺旋が復活を遂げていたならば、ブルーワーズを滅ぼし、『忘却の大地』を破壊し、天上と奈落を消滅させ、その手を地球にまで伸ばしていたに違いない。
ユウトが越えられる次元の壁を、絶望の螺旋が越えられないと考えるのは、いささか楽観的すぎるだろうから。
「そうか。それもそうだな……。なら、みんなも」
「ああ。無事なはずだ」
ヴァルトルーデは端麗な相貌に安堵の表情を浮かべる。
ユウトは、その笑顔を直視できない。いや、まともに見たら舞い上がってしまう。自分の言葉で、そんな表情を浮かべさせたとなれば、なおさら。
「とりあえず、俺たちにはやるべきことがたくさんあるんだけど……」
言いにくそうに、言葉を切る。
「その前に、変な意味じゃ無いから怒らないで聞いてほしいんだが」
「なんだ?」
「その鎧、脱いでくれないか?」
衝撃的。
そう表現して良いだろう言葉に、ヴァルトルーデは大きく目を見開く。
しかし、そのショックからすぐに立ち直ると、聖堂騎士は女神のように慈愛に溢れた微笑みを浮かべ、愛する人のすべてを受け入れようと覚悟を決めた。
「うむ。いつかは、そ、そうなるものだしな? 初めてをこんな外で求められるとは思わなかったがそれに、アカネやアルシアにも悪いような気がするが、ユウトが求めるのであれば――」
明後日の方向――それは、具体的にどこなのだろうか――へ飛ぶヴァルトルーデの発言に、ユウトは頬を染め、両手をめちゃくちゃに振って打ち消そうとする。
嬉しくないと断言できないのが困ったものだが。
「変な意味じゃないって言ったよな!?」
「へ、変ではないだろう。夫婦であればな」
「あのですね、この世界ではですね、鎧はめちゃくちゃ目立つんです」
「なんだその喋り方は……。この鎧が、変なのか?」
この世界の太陽を受けて輝く魔法銀の鎧。強力な魔化がされているだけでなく精緻な装飾も施されており、美術品としても一級品。
それをヴァルトルーデが身につけているのだ。結果は言うまでもないだろう。
「こっちは、鎧を着てるやつなんていないんだよ。何百年単位でな」
「不用心な」
と愕然とした表情を見せつつも、ようやく相互理解は図れたらしい。自らの格好を眺めやり……どうしたものかと、途方に暮れる。
「鎧を脱ぐのは構わないが、その後どうすればいい?」
「無限貯蔵のバッグに入れて……」
「……なら、バッグの中からマントでも出して隠せばいいのではないか?」
「あああ、そうかっ」
学校の敷地の片隅で、悲鳴を上げる帰還者。誰が見ても、不審者だ。
「そもそも、こっちでこれ機能するのか?」
もし魔法具が正常に動作するのなら――ヴァルトルーデの言うとおり――隠す方法はいくらでもある。
逆に、機能しないのであれば、ただの服になっているはずの大魔術師のローブを着せればいい。
「脱いでもらう必要が無かった……」
「ユウトらしくないぞ」
「……すまない」
人目を意識した途端にこれだ。あっちは、ある意味で懐深かったんだなと思い知る。
「それで、どうする――」
「ちょっと待ってくれ」
同時に、乾いた音がする。
ヴァルトルーデがそれに気づいた瞬間には、対面にいるユウトの頬がはれていた。彼自身が叩いたらしいとは分かったが、とても大丈夫とは思えない。
「よっし。これで、正気に戻った」
「……こっちの心配は継続中なのだが?」
なんとなくアカネのいない寂しさを感じつつ、ユウトは答えない。
代わりに、無限貯蔵のバッグへ手を伸ばした。無造作過ぎて、また別の心配が鎌首をもたげてしまう。
「大丈夫なのか? いきなり手を食べられたりしないか?」
「うん。やっぱり、問題なさそうだな」
「やっぱり?」
しかし、ユウトには確信があったようだ。
無限貯蔵のバッグから保温の外套を取り出してヴァルトルーデの肩に掛けながら、ユウトは簡単に説明をする。
「もし、地球に魔力が無くて完全に機能しなかったら、とっくにその辺へ中身をぶちまけてるはずだからな。となると、希望が持てるか?」
「ああ、そういうことか。道理だな」
「まあ、今更すぎるけどね」
それだけ、平常心を欠いていたということなのだろう。暗色の外套をまとってもなお、気高いほど美しいヴァルトルーデに感心しつつ、ユウトは反省する。
そして、自分がしっかりしないと大変なことになるぞと、しっかり心に刻み込んだ。
「確認したいことがあるから、少し待ってくれ」
次に、無限貯蔵のバッグから取り出したのは携帯電話。ブルーワーズでは電卓に成り下がっていた文明の象徴だが、ここで電源を入れれば基地局から時刻情報を受け取り、自動的に修正してくれるはず。
電源を入れ、念のため起動直後にマナーモードへ切り替えてから、現在の日時を確認する。
「八月か……」
夏休みもほぼ終わり、宿題のラストスパートが行われる時期だ。そして、時刻は午前七時頃。学校に人気が無いのも当然。
アカネの言葉を疑っていたわけではないが、本当に、こっちとあっちでは時間の進みがずれていたようだった。
「そもそも、同じ流れが正しい状態なのか……って」
ユウトの思考を妨げるかのように、携帯電話が振動し、メールの着信を知らせる。
「壊れたのか?」
「そういうわけじゃないけど……」
生返事になってしまったのには、理由がある。
それは、あまりにも多いメールの数。かつて見たことがないほど大量のメール、しかも、件名を見るだけで、失踪した自分を心配するものだと分かる。
それが、両親やアカネ、友達たちから三桁を超える数が来ていた。
(帰ってきたんだな……)
故郷への帰還を本当の意味で実感したのは、今、この瞬間かも知れない。
すぐに返信したい衝動に駆られるが、なんとか思いとどまった。
それが正しい行為なのか、まだ分からないから。