1.聖女二人
新章開始です。よろしくお願いします。
二人の美女が、早朝の街――になる予定の土地――の周囲を、しずしずと歩み続けていた。
アルシアは、司祭の正装でもある祭服姿だ。
足下まである長い漆黒のローブはいつも通りだが、今日は淡黄色の法衣を纏い、首から下げている聖印は、普段身に着けている簡素な木製ではなく銀製のもの。
紅の眼帯により隠れているが、見える部分だけでも端正な容貌が見て取れる。もしかしたら、隠れているからこそ、そこに美を感じるのかも知れない。
ヴァルトルーデの変化は、より劇的だった。
今の彼女は、鎧はおろか寸鉄も帯びていない。
ヘレノニアの象徴色でもある純白のローブは、光沢のある薄絹。戦乙女のような彼女を知る者が見れば、その変わりように驚きの声を上げたに違いない。
形のいい唇は紅を差す必要も無いほど色鮮やかで、見るものの目を引く。目を伏せ、淑女のように歩みを進めるヴァルトルーデの姿は、まさに聖女そのもの。
銀の聖印が登り始めた太陽を反射し、その意匠である雷にも似た光を発する。
ヴァルトルーデとアルシアの二人は背中あわせに歩き出し、ユウトが《大地鳴動》の呪文を使用した時に準備をしておいた溝に沿って、銀の粉を少しずつまいていく。
それは神聖にして厳かな儀式そのものであった。
街作りのために雇われたドワーフたち。商機や仕事を求めてこの一ヶ月の間にファルヴへやってきた者たち。ファルヴの住人が、遠巻きに彼女たちを見守っている。
その中には、750キロもの銀の粉末を用意したレジーナ・ニエベスの姿もあった。
「なんて、荘厳な……」
彼女のつぶやきに答える者はいなかったが、それは声に出して同意をするまでもなく、皆がそう感じていたからに他ならない。
レジーナの隣でヴァルトルーデたちを見守っていたユウトにも異存はなかった。
事前に儀式が執り行われると通達は行っていたが、ファルヴにいる人間がほとんど集まるとは想像以上だ。
そうして、一時間も経っただろうか。
二人はファルヴの城塞の周囲約2キロメートルを歩ききり、今度は正面から見つめ合う。アルシアは、深紅の眼帯越しではあったが。
「魔術の女王、トラス=シンクよ。ここに供物を捧ぐ。我らが願いを聞き届け、悪との境界線を描きたまえ」
穏やかに、アルシアが祈りを神に捧げる。
「“常勝”ヘレノニアよ。この地に邪悪を退け、魔を退ける加護を与えたまえ!」
堂々と、ヴァルトルーデが願い奉る。
「《悪相排斥の防壁》」
二人の言葉が重なった。
そのハーモニーに聞き惚れていた観衆は、更に大きな驚きとどよめきを上げる。
銀の粉末で描いた線上に、暖かな光が走った。何条もの光が重なり、やがて半球状に広がってファルヴを覆った。
同時に、厳かにして妙なる音楽が、どこからともなく流れてくる。
さらに、風に乗って香しい花のような匂いも。
これは、神の起こす奇跡などではない。神の信徒が、神の力を借りて発動した。ただの、呪文だ。
しかし、奇跡としか呼びようのない光景を目の当たりにし、感覚を揺さぶられたことで我知らず涙を流す観衆たち。
「決して、邪悪なるものが侵入することはない」
両手を広げ、ヴァルトルーデが領民たちへ向けて宣言する。
「神々の加護に感謝を!」
地鳴りのような低い歓声が鳴り響いた。
「ヴァイナマリネンのじじい、もしかしてここまで分かってたんじゃないのか……?」
熱狂する人々の姿を見ながら、ユウトは戦慄と共に思いつきをつぶやいた。
ここに集まっているのは、メインツ周辺から募集したドワーフの労働者たち。それに、彼らの衣食住を賄うためハーデントゥルムからやってきた商人と従業員、近隣の村や王都セジュールから流れてきた人間が少し。
はっきり言ってしまえば、ヴァルトルーデ――新領主イスタス伯爵とは金銭的な結びつきしかない。
それが、この荘厳な儀式ひとつで一変した。
彼らの熱狂は、人づてに伝わり大きなうねりとなるだろう。それは、決してヴァルトルーデの不利益になることはないはずだ。
「余計なお節介をしやがって……」
隣で静かに涙を流しているレジーナに聞こえないよう小さな声で、ユウトはそっと感謝と呪いの言葉を吐き出した。
「お疲れさん」
祭服のまま執務室に入ってきた二人に、ユウトは銀の杯を差し出した。
もちろん、中身は水ではない。小魔法で冷やしておいた甘口のデザートワインだ。
「ありがとう」
冬の早朝とはいえ一時間以上も歩きづめで喉が渇いていたのか、立ったままのアルシアが一息にワインを飲み干した。
元々は冒険者だっただけあり、作法など気にしない飲みっぷり。
「おかわりだ!」
一方ヴァルトルーデは、礼も言わずに杯をひったくると一瞬でもう一杯と求めてくる。こちらは、作法以前の問題だ。
「はいはい」
分かっていたとばかりに、ユウトが乾いた杯へワインを注ぐ。
半分ほど満たしたところで、余程待ちかねていたのか、ヴァルトルーデが一気に杯をあおった。
こくりこくりと嚥下と共に喉が上下し、こぼれた赤い液体が口の端から頤を伝って薄絹の衣を汚しそうになる。
あまりにも、なまめかしい光景。ユウトも思わず生唾を飲み込んでしまう。
「ぐっ」
これ以上見続けるのは、良くない。誰にとって良くないのか分からないが、良くない。
そう考えたユウトがヴァルトルーデから目をそらすと、アルシアと目があった。
いや、目はあわないのだが、見透かされている気がする。
こうなったら後ろを向くしかない。
二人に背を向けたユウトは、普段ベッド代わりにしているソファへと二人を誘導した。
「そういえば、ヨナはどうしています」
「寝てます」
「まったく……。後でお説教だな」
すぐにたたき起こそうとしない時点で、ヨナに充分甘い三人だった。
「とりあえず、大成功だったよ」
「当然だ、呪文の発動が失敗する要素など無かっただろう」
「うん。そういう意味じゃないからね?」
あの領民たちの熱狂に気付かなかったとでも言うのか。だが、それはそれで、ヴァルトルーデらしいかと、ユウトは思い直す。
「ユウトくんの計算通り?」
正しくユウトの意図をくみ取ったアルシアが、少しだけ厳しい口調で問う。敬虔な神の僕である彼女からすると、政治的に利用されたのは本意ではないのだろう。
「まさか。だったら、もっと大々的に人を集めてますよ。計算してたとしたら、発案者のヴァイナマリネンのじじいじゃないかと」
「あのご老人ね……」
なんとも微妙な口調と表情で、アルシアが大賢者の顔を思い浮かべる。彼女をしても、あの傍若無人な老人は苦手なようだった。
「それよりも、ユウト……。なにやら、綺麗な女性と一緒にいたようだったが?」
「ああ、目が良いんだな」
探るようなヴァルトルーデの問いに、ユウトはなんでもないと答える。
そういうことじゃないでしょとアルシアは言いたかったが、美しさで言えばレジーナはおろかこの世界でも一番と断言できるヴァルトルーデが、まさか嫉妬しているなどユウトは思いも付かない。
「銀を頼んでたニエベス商会のレジーナさんだよ。先に挨拶をしたかったか? ファルヴに店を出すための下見をしたいって言ってたから、しばらくしたらこっちに来ると思うけどな」
「いや、そういうわけではないのだが……」
珍しく、歯切れが悪いヴァルトルーデ。
ヨナからは、ユウトと良い雰囲気だったと聞いていたのに、彼の方にはまったくそんな様子がない。どういうことなのだ? と混乱していた。
「そうか? でも、エクスデロ商会の後釜としてハーデントゥルムの評議会に参加してもらうつもりだから、面通しはしておきたいんだけどな」
「確か、ニエベス商会はかなり落ち目だったんでしょう? 任せて大丈夫なの?」
そんな事情を大まかに把握しているアルシアが、幼なじみのために話題の方向を変えた。
「余所からの妨害もなくなるし、きっかけも与えました。彼女なら、大丈夫でしょう」
「むう……」
不満げにうめきを上げたヴァルトルーデが、手酌でワインを飲み始める。
(自分の味方だと思っていた担任の先生が、他のクラスの生徒を誉めたようなもの? まあ、あんまり良い気はしないか)
そうユウトが当たりを付ける。
それはそれで誤りではないのだが、正解でもなかった。
「彼女は、利益の三割に税をかけると言った意味も、ちゃんと分かっているからね」
「それだ。ユウトの方針に不満も不審もないが、税制を変えた理由が分からない。それに、なぜドワーフたちにも報酬を多めに渡すのだ?」
「アルシア姐さん……」
「ユウトくん……」
ユウトとアルシアは、感動を共有していた。
「ヴァルがこんなに成長していただなんて」
「その反応は失礼ではないか!?」
思わずソファから立ち上がるヴァルトルーデを軽くなだめつつ、ユウトはかみ砕いた説明を始めた。
「利益に税をかけることにしたのは、儲ければ儲けるほど税金が多くなるからだ」
「当たり前だろう?」
バカにしてと腕組みしながら座り直すヴァルトルーデに、今度はアルシアが言った。
「だけど、できれば税金を払いたくなんてないわよね?」
「そう。だったら、その利益を使って新しい商売を始めたり、従業員にボーナス――特別手当でもあげたりした方が良いだろ」
「税を誤魔化しているようにも思えるが……。一理あるな」
簡単に言ってしまえば、ユウトが構築を目指したのは、金を吐き出させるシステムだ。
「ドワーフたちに多めの報酬を出したのも、同じ理由だよ。金が入ったら、使いたくなるものだ」
金なら配れるほどあるという身も蓋もない理由も存在するが、やはり、金は使ってもらわないと意味がない。
「それは無駄遣いではないか」
戦神の聖堂騎士とはいえ聖職者。らしい返答に、ユウトは微笑を浮かべる。
「ばかにされている気がするな……」
笑顔の評価は散々だったが。
「金なんて貯められても、為政者からすると困るんだよ。物価が暴騰しない程度に使ってもらわないとな」
「それではなにかあった時に……そうか、そのためのあの〝保険〟か」
「そういうこと」
ふむふむと、ヴァルトルーデが頷いた。
(そんな仕草も可愛いんだから、反則だよな)
ユウトが優しい目をして、そんな彼女を見つめる。
「しかし、面白いものだ」
ヴァルトルーデが感心するように言った。
「循環しているのだな、金というものは」
レジーナからハーデントゥルムの各商会へ、それとなくユウトの意図は伝わっている。
手始めに、このファルヴの建築に従事しているドワーフたちを対象にした様々な商売が――仮営業のようなものだが――始まっている。
建築が進むにつれ、人も集まり金も動くようになるだろう。
領内の村々も、一年間の租税免除により経済活動は活発になる。
ユウト自身も、メインツに何度か訪れ玻璃鉄の研究に協力――主に、石炭からコークスを生産する方法を伝えたり、工房に空気を清浄に保つ《大気浄化》の呪文を魔化したり――をしている。
「今はまだ走り始めたばっかりだけどな」
「でも、きっと上手くいくわ」
アルシアのお墨付きに、ユウトは嬉しそうに笑った。
「私の目に狂いはなかったな」
「ああ、その通りだな」
ヴァルトルーデの自画自賛に苦笑しつつ、しかし、事実は事実としてユウトは認める。
「まあ、その結果があの惨状だけどな」
ユウトの視線の先には、執務机を埋め尽くす書類の束――いや、山だった。余りの忙しさに、執務室に調度品を入れる余裕もなかった。
行政機関である以上、今までのように、みんなの同意を口頭で取ってパーティ財産から適当に支出というわけにはいかない。
収入、支出、雇用、土地の売買、入植、営業許可、ありとあらゆる業務は書類に残して決裁をしなければならないのだが……。
「うう。まあ、私は文字の読み書きができぬしな」
「この紅の眼帯でも、文字はさすがに」
「分かってるよ。ラーシアのヤツめ、上手いこと逃げやがってなんて思ってないし」
ユウトは天井を眺めながら、地理の授業で聞いた『アフリカ諸国が貧しい理由』を思い出していた。
「俺の世界の話なんだけどさ、植民地支配から独立した国が結構あるんだが、そろいも揃って貧乏なんだ。まあ、色々理由はあるんだけど、ひとつは元宗主国出身の優秀な官僚をクビにして、自国民をその地位に据えたってのがあってさ」
「それのどこが悪いのだ?」
ブルーワーズにおいては植民地という概念は馴染みの無いものだったが、他国の占領から独立を果たし、自分たちの統治を取り戻したのだと置き換えはできる。
その意味では、ヴァルトルーデの反応は正しい。
「だが、代わりの役人が無能だったり、縁故採用だったりしたら?」
「まあ、それはそうなるだろうな……」
「それが分かっているということは、あの書類をどうにかする目処を立てているということかしら?」
「俺たちだけで人材捜しをするのは難しいことがよく分かったんで、紹介してもらえるよう、アルサス王子にお願いしている」
そのうえでヴァルトルーデが面接でふるいをかければ、変な人材を掴まされることもないはずだ。
「そうか。ならば、安心だな。ユウトが体を壊すことになったら、ヨナが悲しむしな」
「ヴァル子は悲しんでくれないのか……」
「いや、そんな。バ、バカなことを言うな」
わたわたと否定する彼女を愛でながら、ユウトが思い出したように言った。
「っと、そうだ。ヴァル子、付き合ってほしいんだけどさ」
「なっ、唐突だな」
「ヴァル、今、貴方恥ずかしい勘違いをしたでしょう?」
「黙秘する」
それは認めているのと同じじゃないかしらと、アルシアは心の中でだけ笑った。
そんなアルシアの感想を知るはずもなく、ユウトが用件だけを口にする。
「ちょっと、地下の様子を見たいんだよ」
「地下……。あのオベリスクか」
ヴァルトルーデの声音が真剣味を帯びる。だが、すでに無害であることを思い出して、ふっと緊張を解いた。
「そして、あそこで私たちは初めて出会ったのだったな」
ヴァルトルーデが、感慨深く息を吐いた。
「ああ、そうだな」
同時に、ユウトが地球へ帰るための鍵となる場所でもある。
まだ一年近く先の話だ。
しかし、決して遠ざかることのないタイムリミットを意識してか、誰もが押し黙ってしまった。