6.永劫密林(前)
「では、妾の帝国が悪をなさぬため、ひとつ協力をしてもらおう。それでお互い、貸し借り無しとしようではないか」
女帝が続きを口にしようとしたその時、新たに大司教が駆け込んできた。
「ユウトくん、無事ですか?」
「そこで、先に来てるはずのヴァルの心配をされないのが、なんと言うか、なんと言えばいいのか、なんと言うべきなのか?」
「あれ? 先に来たのはヴァルだけじゃないよね? ボクの存在が省略されてない?」
負の歴史を詰め込んだような地下室へ駆け込んできたアルシアを、余裕を取り戻したユウトが傷ついたと言わんばかりの演技をして迎え入れる。
もちろん、ラーシアを抜いたのはわざとだ。
そんな会話ができるのも、ヴァルトルーデが油断なくヴェルガを警戒してくれているからだが。
そして、アルシアを皮切りに、残る仲間たちも一斉になだれ込んできた。
「そうか。ヴァルはちゃんと間に合ったか」
「良かったわ……。ほんと、勇人が無事で」
「でも、最悪の場合こっちで慰める手もあった……」
「助かったから言える冗談だよな? そうだよな?」
「……もちろん?」
「アルシアさんやヴァルがいて、ヨナちゃんがこんな風になった理由が気になるわ」
ラーシアが視線をそらす。
つまり、そういうことだった。
「やれやれ。情けなきことよの。結局、好きなようにやられただけではないかえ」
しかも、神術呪文で治療はしているのだろうが、誰一人として負傷してはいない。一方、ヴェルガ帝国の兵が姿を現す気配は感じられなかった。
「のう、婿殿。今なら、妾を討つことができるかも知れぬぞ?」
「俺は、暗殺者じゃなくて、外交特使だ。話があるというのに、そんなことはしないさ」
言ってから、何度見ても何時見ても必ずどきりとさせられるヴァルトルーデの美貌を見やる。
彼女も、それで良いとうなずいていた。
だが、その笑顔は次にヴェルガが発した言葉で固まってしまう。
「それは残念。討ち果たされ、弱った妾を性奴隷として連れ去る……という脚本もありえると思っていたのだがの」
「性奴隷って……」
「アカネ、私は悟ったぞ。この女の世迷い言を真面目に捉える必要などないとな」
「それは良いのですが、まったく諦めていませんね……」
ユウトには、世迷い言どころか、かなり本気ではないかと感じられたが、賢明にも沈黙を守った。
代わりに、説明を求める。
「場所を変える必要がないのなら、早く話を聞きたいな。俺たちに、なにをやらせるつもりなのか」
「求められるというのも、悪くはないの」
くっくと喉の奥で淫靡な微笑を浮かべ、赤い唇を開いた。
「この帝都のさらに北には、永劫密林と呼ばれる土地が広がっておる」
「永劫密林?」
即座に聞き返すのは、なにも考えていない証拠。
だが、ヴェルガ帝国の北には山地が広がっているだけだったはず。そう思ってユウトは仲間たちの表情を窺うが、誰も心当たりは無いようだった。
「そうじゃろうな。なにせこれは国家機密であるしのう」
「農作物を生産できる平野の存在を隠匿するのは、意味があるかも知れないけど……」
それは、ヴェルガ帝国の在り方からすると違和感がある。
豊かな土地に侵攻し、さらい、奪うのがヴェルガ帝国の経済活動。開墾など、できるできない以前に、やるはずがない。
「それに、隠しきれるものか?」
「その疑問はもっともであるな。だが、こう考えれば矛盾はなくなろう。永劫山脈が、つい最近になって、永劫密林に姿を変えたのだと」
「山地が吹き飛ぶような天変地異? そんなことが起こって、外に隠し通せるとも思えませんが」
アルシアの当然の指摘。
ユウトも同意見で、悠然とたたずむ女帝へ説明を求める視線を送る。
「次元竜」
それに対する応答は一言。
「次元竜?」
ヴァルトルーデとエグザイル。そして、ブルーワーズへ来て日の浅いアカネは、聞いたこともないと首を傾げる。
一方、残る四人は、伝説でのみ語られる最上位種ドラゴンの名に、言いしれぬ不安を覚えた。
「五十年ほど前だったかの、どこからともなく永劫山脈に次元竜ダァル=ルカッシュが出現しおった。なんの前触れもなく、唐突に」
「でも、それだけなら支配するなり、滅ぼすなりすれば良いだけだ」
次元竜は、上位種ドラゴンとして知られる黄金竜や赤竜よりも、希少性や特殊性から上位に位置づけられる。
短時間ながらも時を止め、遍在し、次元をも越えることができるという。
また、長く生きたドラゴンは、固有名を持つ。つまり、ダァル=ルカッシュと名乗る次元竜は強力な個体であるという証拠でもある。
だが、それは戦闘能力の高さを保証はしない。
「それが神話級のドラゴンだったとしても、ヴェルガと吸血侯爵ジーグアルト・クリューウィングや死巨人のボーンノヴォル辺りが一緒なら、対処できないとは思えないけどな」
「それは買いかぶりすぎよ。気づいておろう、妾の弱点には」
「我がイスタス伯爵領に不法侵入した時のことを言っているのか?」
ヴァルトルーデの問いに、ヴェルガは首肯する。
「いかにも。妾が妾の帝国から長く離れることはできず、他の地へ赴いても著しく制限がかかるは、我が母ベアチリーチェが天上へと昇ることを許された代償のようなものでの。まあ、だからといって、この世へ影響力を行使できぬわけではないのだが」
そもそも、この半神の女帝が自由に行動できていたなら、すでにこのブルーワーズは一色に染まっていたことだろう。
「答えになってないな。まさか、その永劫密林の支配者は次元竜になっているって言うんじゃ……」
「しかり」
悠然と、当然と、ヴェルガはあっさりと認めた。認めてしまった。
「……まだ、隠し事があるな?」
それでも、総力を挙げれば次元竜を殲滅できないとは思えない。
それに、永劫山脈と永劫密林の関連も、まだ語ろうとしない。
そのミッシングリンクを埋める要因が存在するはずだ。
「これから話すところだったのよ。夫婦の間に、隠し事などあるはずがなかろう?」
「誰と誰が夫婦だ。それよりも、先を続けてもらおうか」
不機嫌そうな。いや、実際に不機嫌なヴァルトルーデ。
そんな彼女の頭を撫でてあやしながら、ユウトはヴェルガに言った。
「手出しが難しくなるような、なにかがそこにあるんだな?」
「いかにも。これは妾たちも掴んでおらなんだのだが……。永劫山脈には――」
いたずらを仕掛ける童女のように無邪気に。
「ファルヴに存在したオベリスク――」
しかし、淫蕩な笑顔で。
「――それと同種のモノが、存在しておるのだよ」
驚愕に値する事実を告げた。
「ああ……」
ユウトの頭の中で、ピースが次々とはまっていく。完成した絵には、ヴェルガが企図した謀略の風景が描かれている。
「その魔力を食らった次元竜は、耐えきれず狂いおってな。永劫山脈一帯の次元境界を曖昧にして密林に書き換え、巨大な爬虫類が跋扈し、それは今なお拡大を続けておる。妾たちは、異境化と呼んでおる現象よ」
「次元竜を倒せば、その異境化は元に戻る?」
「否、じゃな。拡大が止まるのみと、我が父は申しておる」
「それは……」
確実すぎる情報だ。
整理のために、仲間たちが理解しやすいように、ユウトは状況を整理する。
「そのオベリスクの使用権を与える。その代わりに、次元竜ダァル=ルカッシュを滅ぼす」
「国土の侵蝕は食い止められ、代わりに密林を得るのだな?」
「そして、実のところどちらが勝ってもヴェルガ帝国に損はありませんね」
「婿殿一人を残して双方全滅……というのが、妾にとっては理想的では、あるの」
正直すぎる願望に、もはやため息も出ない。
「《引寄》」
そんなユウトたちの前に、巨大な頭部が降ってきた。
頭部と分かったのは、ヴェルガが秘跡で出現させたそれに、目と口と鼻と思しき部位があったから。
ただし、人間のそれとは全く異なる頭だ。
「なんだ、これは? ドラゴンか?」
「勇人、私の目と脳が狂ってなければ……」
「ああ。俺もたぶん、朱音と同じモノが見えてるはずだ」
ヴァルトルーデたち現地組はただのモンスターとしか思わない。
しかし、来訪者二人は、それがなにか分かってしまった。
当然、実際に見たことはない。けれど、誰でも知っている。
「恐竜……よね?」
「ティラノサウルスっぽいよな」
異常に太く長い牙。
すべてをかみ砕く顎。
周囲を威圧し、憎しみを振りまくかのような瞳。
頭部だけで、ヨナどころかユウトよりも大きい。
頭だけだ。生きているはずがない。
それは理性で分かっているが、根源的な恐怖がアカネを襲う。
「勇人……」
「ああ」
しっかりとその手を握り、震えを止める。
それを無感動に眺めるヴェルガ。
「婿殿の世界にもおったのか。もしかすると、次元の歪みでそこからやってきたのかも知れぬな」
「いや、いたというか絶滅したというか」
つまり、ティラノサウルスなど恐竜が跳梁跋扈する密林を越え、次元竜と相対しなければならないわけだ。
「どういうわけだか分からぬが、こんな生物が密林のそこかしこから湧いてでてきおってな、どうやら、次元竜を倒してもこやつらは延々と存在し続けるらしい」
「どんな魔境だ……」
「つまり、食料が永遠に供給され続けるのよ。そうなれば、ゴブリンどもを永劫密林に突っ込ませ続けるだけで問題は解決され、わざわざロートシルトの領内に手を出すこともなくなるのだがの」
「理想郷……というには、血なまぐさすぎるな」
豊かになれば、戦争は起こらない。
そのためには、次元竜を倒さねばならない。
そして、あのオベリスクがあるのだという。
オベリスクの魔力があれば、無茶な構造の理術呪文も発動できるだろう。つまり、願いが叶うのだ。
完全に絡め取られ、逃げ場はどこにもないように思えた。
「いかがいたす?」
それは女郎蜘蛛のように邪悪で淫らで逃れ得ぬ声音だった。