名前を知らない二人
雨が降っていた。
街のネオンは濡れたアスファルトに滲み、まるで記憶のように曖昧に揺れていた。
少女は歩いていた。
濡れることなど気にしていない。
靴の中まで冷え切っているのに、足は止まらない。
「……見つける」
それだけが、彼女を動かしていた。
父を探すために。
名前も、顔も、知らない。
ただひとつ分かっているのは——
父は“人を殺す男”だということ。
同じ夜、別の場所。
男は血を洗っていた。
蛇口から流れる水は赤く染まり、やがて透明に戻る。
「……また違ったか」
低く、かすれた声。
彼は誰かを殺したばかりだった。
理由はひとつ。
娘を探しているから。
遠い昔、離れ離れになった。
顔も覚えていない。
ただ、小さな手の感触だけが、記憶に残っている。
「……どこにいる」
その答えを知るために、彼は何人も殺してきた。
情報を持つ者。
噂を知る者。
関係者と疑われる者。
間違いばかりだった。
それでも、やめられない。
少女は一枚の写真を握りしめていた。
ぼやけた男の後ろ姿。
誰かが偶然撮ったもの。
「この人が……」
確証はない。
でも、直感が告げている。
この男は、“父”に繋がっている。
そしてその男は——
最近、この街で起きている連続殺人事件の犯人だと噂されていた。
数日後。
廃ビルの中で、ふたりは出会う。
偶然のようで、必然だった。
「……こんなところに来るな」
男はナイフを握っていた。
だが、少女に向けてはいない。
警戒しているのは外の世界だ。
「あなたを探してた」
少女はまっすぐ言った。
男は目を細める。
「俺を?理由は」
少女は少しだけ震えながらも、言葉を続ける。
「人を探してるの。父親」
一瞬、空気が止まる。
男の指がわずかに動いた。
「……名前は」
「知らない」
「顔は」
「知らない」
男は小さく笑った。
乾いた、感情の抜けた笑い。
「ふざけてるのか」
「でも分かるの」
少女は一歩近づいた。
「その人は、人を殺してる」
沈黙。
雨音だけが響く。
男の中で、何かが軋んだ。
目の前の少女。
濡れた髪。
まっすぐな目。
——どこかで、見た気がする。
いや、違う。
そんなはずはない。
「……帰れ」
低く言う。
「関わるな」
「嫌だよ」
即答だった。
男の眉がわずかに動く。
「見つけるまで帰らない」
「死ぬぞ」
「それでもいい」
少女の声は震えていたが、言葉は折れなかった。
その夜から、奇妙な同行が始まる。
少女は男についていく。
男は追い払おうとするが、なぜか完全には拒絶しない。
「なんで殺すの?」
ある日、少女が聞いた。
「……探してるからだ」
「誰を?」
男は答えない。
少女は続ける。
「私も探してる」
男は少しだけ視線を逸らす。
「お前の探してるやつは、ろくな人間じゃない」
「それでもいい」
「殺人鬼だぞ」
「それでも、会いたい」
ある夜。
男は眠れなかった。
隣で少女が眠っている。
無防備な姿。
ふと、手を伸ばす。
首に触れれば、簡単に終わる。
——もし違っていたら?
そんな考えが一瞬よぎる。
「……馬鹿か」
自嘲する。
違うに決まっている。
そんな奇跡があるわけがない。
だが、手は止まったままだった。
数日後。
男はついに辿り着く。
古い記録。
消された戸籍。
失われた名前。
「……ここか」
その場所に、少女もいた。
「どうしてここに」
「私も辿り着いたの」
少女は笑う。
そして言った。
「ねえ」
「もしさ」
「私の探してる人が、あなたみたいな人だったらどうする?」
男は答えない。
少女は続ける。
「それでも、私は会いたいよ」
「だって——」
少しだけ間を置いて。
「お父さんだから」
その言葉で、世界が止まる。
男の中で、何かが崩れた。
遠い記憶。
小さな手。
泣き声。
「……名前は」
かすれた声で聞く。
少女は答える。
その名前は——
男が何度も、何度も、夢の中で呼んだ名前だった。




