2 崩壊する世界 2
・・・誰かの、歌声が聞こえる。
遠く、けれど確かに響くその声は、透き通るように美しかった。
優しい旋律が胸の奥に染み込んでいく。耳で聞いているのか、心で感じているのか、自分でもよく分からない。
どこかで、聞いたことがある気がする。
けれど思い出せない。いや、聞いたことなんてないのかもしれない。
それでも、懐かしいような、切ないような
「・・・た・・・いてっ! しっかりして、お願い!」
耳元で誰かが叫んだ。
「エイタ君!!」
意識が一気に現実へと引き戻される。
目を開けると、ほこりと土でぼやけた視界の中に、女子の顔があった。
「・・・ああ、生きて・・・たか」
息をするたびに肺が痛む。埃まみれの空気が喉を焼いた。
がれきの山の中で、エイタは重たい身体を引きずるようにして起き上がる。
「動ける? 痛いとこない?」
「たぶん、大丈夫。キミは?」
「私も平気。ほら、ちゃんと歩けるし」
女子生徒は埃まみれの制服の裾を叩きながら立ち上がる。
「俺、どのくらい気を失ってた?」
「わからない。私も、さっき目が覚めたばかりなの。」
女子生徒はうつむきながら、かすれた声で続けた。
「スマホも壊れてるし、時間は・・・でも、朝じゃないと思う。ほら、あの窓の隙間・・・」
エイタは視線を上げた。崩れかけた壁の隙間から、ほんのわずかに光が差している。
だが、それは朝の柔らかい光ではなかった。くすんだ橙、あるいは夕方のような――いや、それすら怪しい。
「夕方ぐらいか、ってことは1、2時間くらい気を失っていたのかな?」
「たぶん・・・」
エイタは頭を押さえた。ひどい頭痛。喉の渇きと、全身の重さ。
それらすべて、抑え込みなんとか立ち上がる。
「とりあえず、外に出ようか」
二人は、崩れかけた図書室から慎重に廊下へ出た。
崩壊した校舎の中は、驚くほど静まり返っていた。
遠くで金属が軋むような音が一瞬響いたが、それきり何も聞こえない。
「・・・人の声、しないな」
「うん・・・さっきは、叫び声とかあんなに聞こえてたのに」
さっきまでの喧騒が嘘のようだった。
まるで世界の音ごと、どこかへ消えてしまったみたいに静かだった。
ふと、エイタは隣を歩く女子生徒に視線を向けた。
「そういえばさ」
「ん?」
「なんで俺の名前、知ってたんだ?」
彼女が目をぱちくりとさせたあと、「あぁ」と少し照れくさそうに笑った。
「そうだよね...私のことは知らないよね。
私は桐島ミカ。二年三組。エイタ君の隣のクラスで、体育の授業は一緒だよ?」
「そうだったんだ。ってことは、前から顔は知ってたのか」
「うん。話するのは今が初めてだけどね。」
「ごめん、全然気づかなかった」
「エイタ君、体育の授業中は友達と駆け回ってて楽しそうだもんね。」
「なんか恥ずかしいなそれ」
照れ隠しで辺りを観察しなおすエイタを見て、ふふっと笑みをこぼした後ミカは言葉を続ける
「あのときは本当に嬉しかったよ。足も抜けないし、泣きそうだったし、みんな私を置いて行っちゃっうから...来てくれて本当に助かったよ」
「・・・たまたまだよ。俺も逃げそこねただけだし」
ほんのわずかな雑談だったけど、そのやりとりが、張り詰めていた空気を少しだけ和らげた。
だが、次の瞬間――
エイタの足は今までの硬い地面とは違う感触を感じた。
「・・・っ、なんだ、これ?」
下を見て、思わず息を飲んだ。
廊下の一部が、まるで染み出すように赤黒く濡れている。
よく見ると、血だった。しかも、とんでもないの量だ。
「うそ・・・これ・・・」
ミカも気づき、絶句する。まるで、潰れたトマトのように血が飛び散り広がっている。
だが、そこに死体はない。
「こんなに血があるのに、誰もいない?」
よく見ると何かが這いずったような跡も見られる。
誰かが、大量に血を流して倒れていたのは間違いない。
だが――
「ほんとに、なにがあったんだ・・・」
「まさか...誰かが、片づけた? そんな時間、あったのかな?」
ミカが不安げにエイタの袖を握る。彼女の手は少し震えていた。
「もしかしたら救出された、とか?」
「だとすればあっちに出口があるかも」
二人は慎重に廊下を進み始めた。出口を目指して、別の渡り廊下へ向かおうとしたときだった。
「待って、エイタ君。あそこ、なんか...動いた?」
ミカが自信なさげに指をさした先、崩れた天井の下。瓦礫の隙間から、何かが“ピクリ”と動いた。
「なんだろう?」
エイタが駆け寄る。そこには、倒れたロッカーや机が山のように積もり重なっていた。その下から、確かに誰かの手が伸びていた。血まみれで、皮膚が青白く変色しているが、指先はまだ微かに動いていた。
「!! 桐島さん!この人まだ生きてる!手伝って」
「う、うん!」
ロッカーやら机をどかし始め、そしてエイタが最後の瓦礫をどかすと、そこにいた“それ”は、ゆっくりと上半身を起こす。
ミカは口を押えてあとずさる。エイタは驚愕に目を見開きその場で硬直してしまった。
皮膚は灰色に乾き、部分的に裂けて骨が覗いている。目は白く濁り、焦点も合っていない。
唇の裂けた口からは、だらりと黒ずんだ舌が垂れ下がっていた。
胸には深い裂傷があり、普通なら死んでいるはずの状態――にもかかわらず、動いている。
それは、生きていなかった。
だけど、“動いていた”。
「う”ぅぁあ”あ”あ”ぁ」
「・・・っ!」
瞬間、“それ”の腕がエイタの手首を掴んだ。冷たい。だけど異様な力で締めつけてくる。
腐った皮膚がところどころ崩れ、骨が見えている。その“それ”が、濁った目でこちらを見ていた。
「なんだ、なんだよこれっ!」
エイタは全力で手を振りほどこうとするが、“それ”は腕を引き寄せるようにして口を開いた。
割れた歯の間から唾液を垂らしながら、喉の奥から低いうめき声を漏らす。
「う”ぅあ”あ”ぁっ!」
エイタはそのまま肩で思いきり体当たりをかますようにして腕を引き抜いた。
後ろへ跳ねるようにして距離を取る。
倒れていた“それ”は、ゆらり、と立ち上がろうとする。
ぎこちなく、まるで操作ミスしたロボットのような動き。それでも確かにこちらへ向かって来ていた。
その姿は――
映画やアニメで見るような。
ゾンビ映画に出てくるような、”それ”そのもの。
「・・・ゾンビ?」
エイタの喉が、かすれるようにそう呟いた。
それが現実にありえるなんて――
いや、現実になってしまっている。
「エイタくん、逃げて!!」
ミカが叫び、エイタはゾンビとの距離をとった
振り返り、ミカの手を取りは走り出す。
「逃げよう!」
二人はその場から一目散に駆け出す。
背後では、“それ”がうめき声をあげながら廊下をずるずると追いかけてきていた。
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