1.オシドリ織り
十八歳だ。
その夜、また嵐が戻ってきた。まるで俺がこの世に出てきた夜みたいに。稲妻が空を裂き、雷がムチのように叩きつける。雨がトタン屋根を叩いて、家がガタガタ揺れる。俺は縁側に座って、合格通知を手にしていた。雨でインクがにじみ──「東京大学」という二文字が、空っぽの胸に不思議な錨みたいに突き刺さっている。
父が出てきて、葉巻を持ったまま火をつけずに俺を見ている。信じがたいものを見るように。
「お前、本当に家を出るつもりか?」
俺は振り向かない。声はかすれて、長いこと喋ってない人みたいだ。
「逃げるんじゃない。呼吸する場所を探しに行くだけだ。ここじゃ、埋められた人間みたいに息してる。」
母が出てきて、目を赤くしている。肩を抱かれて、震えてる。
「子よ、呪を受けさせられてるからって憎んでるわけじゃないのよ。あの呪いは、この村のみんなを守るためなの」
俺は乾いた笑いを漏らして、赤い花びらが散る庭を見やる。
「村を救うって…俺のことは誰が救うんだ?」
父が煙を吐き、火の光が彼の目に揺れる──一生恐怖を抱えた男の目だ。ゆっくり言った。
「あの呪いは…お前だけを縛るもんじゃない。お前の中の化け物を眠らせてるんだ。外せば…」
俺は振り向き、心臓が締め付けられるようだった。
「化け物って?」
頷いた。彼の言葉は冷たい石片が胸に打ち付けられるようだった:俺が生まれた夜、空が呻き、地が震えた。祈祷師たちは俺を「門」だと言った。封じるために、鍵として、世界が喰われないようにあの呪をかけた。そこで俺はわかったんだ。病気も、失敗も、争いも、燃えた額縁も──事故じゃなくて守るためだった。俺を、開けてはいけない扉の錠に変えたんだ。
マスクを一つ外された気もして、同時に新しい手錠をはめられた気もした。
「俺らのところで俺を何だと思ってるんだ?」──拳を握りしめ、爪が皮を裂いて血が滲む。──「ただの息子か?それとも…鍵か?」
父は黙り、母は泣いた。答えはなかった。
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数年前、学校の連中は俺を“モテ男”って呼んでた。顔がよくて、成績も良くて──避けられないのが、あの目のせいだ。俺は意図してない。ただ見て、受け止め、他人が隠すものを見てしまう。彼らの心が動くと、赤い紐みたいなのが魂に巻きつくのが見える。愛じゃない、閉じ込められた何かだと分かっている。だが、人は閉じ込められているものを愛と呼ぶときがある。誰がそれを裁ける?
「ねえ、全部捨てたの。アンタだけいればいいの」──クラス委員の女が上着の端を掴んで、涙をきらきらさせる。
俺は薄い笑いを返すだけだ。
「本気でそう思ってるのか?あんたは人を、俺の影を愛してるんじゃないのか?」
彼女は理解しない。引き止めて、泣いて、雨の下で俺が下校するのを待つ。やがて彼女は狂った。そうやって待っていた女たちは、別のやり方でこの世を去った:刃を入れ、自ら壁に頭を打ち付け、運河に飛び込む。血の滲んだ手紙を残し、俺の名を呼んで、俺に忘れないでくれと頼む。俺は読むたびに胸を刃で切られるようだった。
「『責任を取れ』って」
彼女は俺の前に立ち、目は提灯のように燃えて、白い紙を抱えている。雨がトタン屋根を叩く音が頭を殴る。
「何言ってるんだ?」──平静を装おうとする。枯れ木が嵐の中に立ってるみたいに。
「妊娠してる」その一言が刃のようだった。彼女は袋を開け、検査の紙を取り出す。インクはいらないほど鮮明に「陽性」とある。
「本当に…確かか?」──声が消えかかる。
「否定するつもり?」彼女はにやりと笑う、その笑顔は優しくない。「キャンプの裏庭でのこと、覚えてるでしょ?」
「ただ署名して、結婚して、うちに戻ればいいの。さもなきゃ訴えるわよ──未成年との性交とか、放棄とか」
俺は乾いた笑いを一つ漏らした。コンクリートに散る破片みたいな笑いだ。「それで、何を得るつもりなんだ?」
彼女は足を詰めて、肩に手を置く──優しさじゃなく、記録を取る手つきで。
「あなたを所有したいの。離れないようにしたい。責任を取らせたい。どうでもしてあなたを縛る。」
「お母さんはどう思う?」──呪については言わない。皆わかってる。
「お母さん?」彼女は鼻で笑う。「お母さんはアンタを化け物って言ってるでしょ。私が人間にしてやる。私には書類がある、あんたには名前がある。私には証拠がある、あんたは裸の背中だ」
頭の中は風の音ばかり。連中は彼女を花嫁候補、俺を色男と呼ぶ。根っこを知らないやつらだ。彼女は市場で物を売るみたいに静かに言う:
「署名して。一つの印だけ。私が全部やる:家のこと、書類、新聞は友達がいるから処理する。悲劇の恋として記事になるわ。アンタが牢屋行きかどうかは弁護士次第。結婚すれば終わり。さあ選べ、ラッキーフン(仮名)」
俺はため息を吐いた。「で、もう医者も、書類も揃えてるのか?写真だけなのか?」問いには冷たく。弱点を探すためだ。無駄だと分かってるが試す。
彼女は体をすくめ、哀れっぽくも堅い顔で言う。「全部あるのよ。人は信じたいものを信じる。で、あなた──美しい目を持ってるから、人は信じる。逃がさない。」
側にいた友人が青ざめた面で言う。「ラッキーフン、体裁は保てよ。そんな小さなことで潰されるな」こいつは小さいことだと思ってる。紙も、母親が縁側で土下座する姿も見てない。
別の女が近づき、その一言が岩石みたいに重い。
「サインしないなら全部ばらす。学校にも、メディアにも。父の知り合いに弁護士がいるの、わかるでしょ」口はロープの輪、次々に締められていく。
胸の中で臼の音がする。人の声が支配する。観察者だった俺が、いま観察される側だ。伸びたゴム紐の真ん中にいる自分が見える、弾かれる寸前の。
「オレは一枚の紙のために誰かと結婚できない」俺は言う。「恐怖のために誰かと結ばれるわけにはいかない」
彼女は眉を顰める。「私を馬鹿にしてるの?」彼女は声を高める。「私を守るためなら誰でも殺す。否定しても法がある。人は見るものを信じる:見たものが真実になるんだ」
彼女たちの「証拠」は偽かもしれない、でっち上げかもしれない。でも重要じゃない。社会はイメージで人を殺す。言葉は人を崖っぷちに押しやる。
「何が欲しいんだ?」俺は単純に訊く。
「あなたを夫にしたい。そばにいてほしい。責任を負わせたい」彼女は一語ごとに蓋をするみたいに言う。「選択肢はある:書くか、追及されるか」
女の肩越しに群衆の顔を見ると、子供みたいに唇を噛む者、泣く者、喜ぶ者がいる。俺は彼らが肩に乗せた重荷を知らない。母の痩せた背中、縁側に手を組んでる姿が幽かな鐘のように響く。
彼女は一瞬黙り、目が一柔らかくなる。「検査に二本線が出たとき、こんなことするつもりはなかった。ただ誰かに信じてほしかった。孤独じゃないって思いたかった」声は紙のように薄い。でもまた笑顔に戻る、その笑顔は勝利者の冷たさ。
「でも、もし離れるつもりなら、大騒ぎする。あんた聞いてる?冗談じゃないわ」
その夜、雨は続いた。俺はじっと座って、木の椅子みたいに冷たく、選択の針が胸を刺すのを感じた。サインすれば命を売ることになる、家族だの体面だのという皮を被って。しなければ名誉を泥に塗られ、数ヶ月後には写真、訴状、悪評が広まる。信用できるものはない。彼女たちの家族が後ろに控え、金や利得を待っているのを想像した。弱点は俺の慈悲と恐れと孤独だった。
「時間がほしい」俺は言った。
彼女は首を横に振る。「時間なんて私にはない。明日あなたの家に行く。昼までに署名しなければ、学校中にばらす」彼女はペンを武器のように突き出す。
目を閉じる。内側で囁く声:もう誰かの錠にされるわけにはいかない。でも出て行けば、あの女たちが自ら命を絶った顔、血の滲んだ手紙、死者たちの名前を思い出す。俺は呪の鎖を首に巻かれた系譜だ。今や社会がもう一度その輪を引き締めようとしている。
立ち上がり、震える手で一同を見渡す。「わかった」──ゆっくり言った。「明日の朝、行く」
歓声が上がった。まるで結び目を解いたかのように。彼女は顔を覆い、泣く──だが勝者の泣き方だ。俺は背を向け、家に入る。母が俺の手を掴み、目はくぼんでいる。「よく考えなさい」
心の中で誓う:これは降伏じゃない、新しい道だ──策略で、記憶で、本当の自分を隠す道だ。誰かを守るために役を演じるなら、演じよう。だが内なる炎は消えてない;じわじわと燃えて、いつか別の形になるか、噴き上がるだろう。
俺は悪人になりたくない。誰かを操るつもりもない。ただ、弱さゆえに、夜の一度の甘さで、病院の壁に残る小さな傷跡を増やしてしまった。――「妊娠」「中絶」「責任を取らない」って紙切れが壁に刻まれるたび、糸が首に巻き付いていく。新聞は俺を切り裂き、近所は罵る。女たちが妊娠するたび、家族は怒鳴る:「責任取れ!」でも俺は震える、彼女たちの後ろにある赤い紐が見えるから。彼女たちは自分のものじゃない力に縛られている。
俺はそうやって、二つの風の間に挟まれていた:片方は他人の欲望、もう片方は自分の恐怖。嘘をついては真実を覆い、約束しては消えた。悪意からじゃない、恐れからだ。触れれば壊れるかもしれない。約束は爆弾になるかもしれない。呪いが光に曝されれば、もっと強く反応する──だから俺は避けた。
「なんで責任取らないんだ?」友達がきつく言ったことがある。
俺は見返して、雷鳴のような答えを胸に持っていた:「受け入れたら、死ぬ人が出る」だけど口から出たのは、僅かな声:
「今は違う」
心は竹のように冷えていた。俺は自分が残酷だと責めるが、他に道はなかった。
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サイゴンへ行く日、両親は縁側でひざまずき、目を赤くしている。母が俺の手を握り、言葉を詰まらせる:
「行きなさい。呪いは外さないで。苦しみを他人に回さないで」
俺は二人を抱きしめ、初めて彼らが小さく見えた。鞄を引いて外に出ると、雨は重く、赤い花びらが服に張り付いて血の染みみたいだ。サーデックを一瞥し、誰かが俺を愛しているのか?それとも運命の遊びに過ぎないのか?と自問する。
バスに乗り、大通りを抜けると空が裂けるようだ。東京のことを考える──約束、別の扉。森で小さい頃拾った「大法無双」のことも思い出す──古い魂みたいに光る紙片だ。少しでも力があれば、人を害さずに済む術を学びたいと自分に言い聞かせる。
旅はぼやけていき、目を閉じれば何かが肩から落ちる気がした。
だが運命は唐突にやってきた。トラックがレーンを外れ、金属の悲鳴、窓ガラスの飛散。シートベルトが締め付ける。真っ暗。消える前に、橋の上で俺を抱きしめる女の姿がフラッシュのように浮かぶ。髪は乱れ、彼女は繰り返す:「行かないで、お願い…」それが誘いなのか記憶なのか、わからない。
気がつくと白い明かりの中。消毒薬の匂い。誰かが囁く声。手が震えて水を握る。そしたら──病室の前にちょっとしたゲームの画面みたいなものが吊るされていて、くだらない大文字が目に飛び込んできた:
「クソ大法」──下にはリスト、行が並び、「奥義01:…」「奥義02:…」「奥義03:…」とある。読みかけにしていると文字がぴょんと動いた:システムが主体を認識:ラッキーフン(レベル ∞)。そして冷たい一文:血の呪いは解かれました。
跳び上がる。血がまだ服にしみている。驚きが波のように押し寄せる。目を閉じてみる──長年胸にのしかかっていた重さが取れたようだ。あの赤い紐が、もう他人に巻きついて見えない。病室を見回すが何も変わらない。ただ内側に空いた隙間と、冷たい反響が残る:自由──だが代償がある。
看護師が訊く。「どこか痛みますか?」俺は首を振る。口の中に金属の味がする。画面がまた点滅して:ようこそ主体。システム『クソ大法』を起動しました。奥義を確認してください。注意:呪いを解くと修行の道が開かれます――精神的・社会的影響が起こる可能性があります。
俺は乾いた笑いを出す。「クソ大法かよ」子供がふざけて付けたような名前だ。でも喉の奥で響く声がある:これが転機だ。サイデックの血の呪い、幼い頃から俺の人生を縛ってたやつが解けた。代わりにシステムが来た。修行するか、元のままでいるか──選べ、というわけだ。
あの女たちのことを思う。死んだ連中、血の手紙、両親の恐怖、そして「モテ男」と周囲が嘲る声。もし今力が手に入るなら、治すために使うか──それとも家系に俺を閉じ込めた連中に復讐するか?ちっぽけな考えが一筋光る。
奥義のボタンが点滅している。まだ内容は知らない。システムは次章で一覧を出すらしい。俺は仰向けに寝て、病室の天井を見上げる。外では雨がまだ降っている。胸の中は軽くもあり、重くもある。呪いは解けた──だがこれからの道は、もっと茨だらけかもしれない。
俺は小さく笑い、涙は出ない。頭の中で一つの問いがくるくる回る:もし力があるなら、誰を救う?かつて俺を愛して死んでいった奴らか?それとも俺を鍵にした一族に復讐するか?
窓がかすかに震え、雨は叩きつける。俺は目を閉じ、心臓の鼓動を聞く:規則正しく、まるでどこかの機械が人生を押し戻すみたいに。
ここでこの章は閉じる──病院の廊下で、奇妙な名前と未だ形にならぬ決断の間で。奥義のリストは次回に持ち越しだ。もう古い道はない。目を開ければ、世界は簡単な選択を許してくれない──それだけは分かっている。




