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朱殷の琥珀  作者: 朝日奈
2/3

第二章 正当化する逃げ方

 「はあ」

上がった真っ白な息が空に溶けていくような季節。不思議と速足になることを感じながら、ただひたすら早く会いたかった。



扉を開けるとテレビを眺めて微笑む、愛する人が静かにたたずんでいた。寒さが本格的になってきたのに木漏れ日が降り注ぐ彼女の姿は季節とは逆の春を感じさせる。神秘的に感じていた。何処までも遠くに行ってしまうのではないかと不安になるほど。

空気がこの場所だけ異なっていた。年齢に合わないどこか達観としていた笑顔に胸が締め付けられるような感覚を覚える。

不安だった。触れてはいけない気がしていた。

それでもとりとめのない日常を過ごそうと僕は必死だった。



 彼女は僕に気づいて微笑みかける。急いでテレビを消して、唯一彼女だけが呼ぶことのできる僕の名前を呼んだ。



 そのすべてを見透かしたような瞳で何を見ていたんだろう



 ・・・・・

ぼんやりとした頭で握っていた手をわずかに開く。目元には涙が渇いたような跡があった。

もう出会うことはないと思っていた。幸せと苦しみが混ざったような夢だった。忘れていく彼女があまりにも鮮明としていた。安心とわずかな綻びを知ってしまった。もうすがらないと決めたのに無意識の範囲までしみ込んでる。

 「いたっ」

 いたっ?

冷や水をかけられたみたいに意識がはっきりとしてきて、反射条件みたいに飛び起きる。

 「うわっ」

髪の長い女子高校生に見える女性と目が合う。お互いに絶叫しそうになって、自分の口元を手で覆った。

 「だっ、誰・・なんでいるの?」

 「え?」

女子高校生は目をきょとんとさせる。なんでよりによってこんなところにいるんだ?

記憶を回想させていく、断片的な女性と自分の行動が脳裏に蘇ってきた。

血の気が引いていく。女性の表情も多分最初からこわばっていた。

 僕が女性を誘拐したんだ。明確なことは覚えていない。でも直感的な感覚があった。

 「本当に申し訳ありませんでした」

僕は土下座をする。それ以外どうしようもなかった。

 「え?」

突然の行動に女性は困惑する。頭のおかしい行動ばかりになってしまうが、もうどうしたらいいのか分からなくなっている。

 「家の鍵、開いてませんでしたか?」

指でジェスチャーを送る。これ以上近づくことなんてできない。女性の家族には心配させてしまっているだろうが今から女性の対応次第で事件にならないはずだ。僕は警察に突き出されて当たり前だ。でも被害者となってしまった女性の世間からの目を考えると何もなかったことが一番彼女が安全でいられることだと思った。恐怖、もしくはトラウマを与えてしまった以上、この窓から飛び降りても構わない。

女性は何かを考えるような仕草をしてから、テレビのリモコンを取って、つけた。

まだ朝が早いためか新着のニュースばかりが並んでいる。その中に一つ気になるものがあった。それが選ばれた瞬間、女性は音量を上げた。そのニュースを見せつけるように。

 「昨日、××市。午後の十時ごろ住宅街を歩いていた女性が、何者かに誘拐されました。警察は・・・」

女性はテレビを消して、僕に近づいてきた。僕の方が後ずさりをしてしまう。

 「もうすべて手遅れなんだよ」

僕の顔を覗き込む女性の瞳には光も映さない。軽蔑でも好奇心でもない、どの感情にも言い難い表情で僕を見ていた。自分を見透かしているようで振り払いたかった。鋭い視線と足元からブラックホールみたいに落ちてしまいそうな感覚。

そこ言えぬ虚無感が沸き上がっていく。

 「分かりました。今から警察に・・」

 「ああ、行かなくていいよ」

 「えっ?」

女性はパタパタと台所に行って、口に何かを放り込んでごくごくとコップ一杯の水道水を飲み干した。

 「そうだ。私不登校になってみたかったの」

まるで何かを思いついたみたいだった。

いやいや、待てよ。それ家帰ってからでもいいだろ。

 「きちんとした正当な理由でしょ」

目の前にいるのは犯罪者だぞ

女性は引き出しを出して何かを探しているように見える。なんだよ正当な理由って。

危機感の欠如にものすごく不安になる。

 「時間は山のようにあるからね」

いたずらっぽく笑っているように見せたかったのか表情筋が固まったような笑顔はとても機械的に感じた。

本当はこの部屋からすぐにでも追い出すべきだったのかもしれない。



 「そういえば、」

 「この部屋ってゲームないの?」

数十分棚を探した後で女性は顔を上げた。

 「ないよ」

僕は答える。この家に娯楽と言うものがほとんど存在していなかった。

 「えー。休日って言ったらゲームじゃん。なんでないの?」

 「必要ないから」

僕は今ある最低限の娯楽。トランプを手渡す。

 「もしかしてミニマリスト?」

 「ミニマリスト?」

 「家に極限物を置かない人たちのことだよ。ひどい人は家に包丁もないんだって」

 「単身赴任とかでほとんど家に帰らない人のこと?」

女性は首を振ってトランプを受け取った。

 「違うよ。ちゃんと生活はしてる」

 「ご飯はどうするの?」

 「歯で食いちぎって、切り分けるんだって」

僕はドン引きする。それは顔に出ていたんだろう。

女性は優しく笑った。

 「それな。私だったら絶対いや」

 「・・・・」

女性はトランプのカードをケースから出した。親指の腹で撫でた。

 「どうしよっか」

 「・・・・ババ抜きでもする?」

 「嫌だよ。すぐ誰がもってるか分かるじゃん」

沈黙が走る。今どきの若い女性はひと時の暇つぶしにもならないらしい。

 「トランプって大人数で遊ぶゲームだもんね」

その時、自然と考えるよりも口に出ていた。

 「それじゃあ、買いに行く?」

自分でも驚くほど危険で行ってはいけないことだと分かっているのに、後悔よりも楽しみにしていることに僕は気が付いた。

危機感の欠如は僕のほうかもしれない。




 「うわあ。すごい。いいの?」

女性は子供みたいにはしゃいでいる。僕は内心ひやひやしていたけど、誰も僕らのことなんて視界にはっていないようだった。

 「どれにする。星のカーピィ?スプラトゥーン?」

テレビもほとんど見ないので聞かれていても何が何だか分からない。

 「君が買いたいものでいいよ。僕は分からないから」

 「えー。それじゃあ・・」

女性の横顔を見る。楽しそうにしている笑顔にこのままでいいのだろうかという気持ちがせりあがって来る。僕がしていることは女性の時間を奪っていることだ。

 「ねえ」

 「ん?」

女性は顔を上げる。お菓子につられてついてきた小学生みたいだった。

 「逃げたほうがいいよ」

女性の表情はひび割れていくように、どこか落胆しているようにも感じられた。まだ出会って一日も経ってない。そんな顔する必要なんて僕たちの間にあるわけないはずなのに。

僕は何か言わなければいけないと思った。でも言葉が何一つ出てこない。過ごした時間は数時間、話した時間はもっと短いのに。

女性はとぼとぼと歩いて、時間が経ってから戻ってきた。ゲームの機械と二つのカセットを買って帰路に向かった。その間、女性は元気をなくしたように何も話さない。

 逃げればいいじゃないか

心の中で何度もそう思う。ざわついた感情がもやになって胸の中に詰まっていくようだった。女性は何を考えているのか僕には理解できない。

家に着くと女性は乱暴に靴を脱ぎ散らかしてリビングに行ってしまう。靴を整えて、女性のもとへ向かった。僕が背後にいると怖いだろうと思った。いつでも視界の中で行動しようと決めていた。女性はすぐにゲームに手を付け始めた。そんなに夢中になれるのかと僕は感心した。ゲームの画面とテレビに同じ画面が映る。使い慣れた女性の手つきに凄いなと思った。テレビの画面には幼い小学生が書いた?ようなキャラクターが現れる。女性はコントローラーを取り外して

 「どうぞ」

と僕にくれた。

 「あ・・ありがとう」

と受け取ったもののどうしたらいいか分からない。それを見た女性は

 「本当に知らないんだね」

と笑った。見よう見まねで少しずつ操作を覚えていく。上手く動かすことができるようになるたびとても嬉しくなった。

ゲームの内容はお互いに協力してお題を一つずつ沿った形に切り取っていく。これは協力ゲームで子供向けなのに案外難しい。

 「そういえばさ」

女性は画面から視線を外すことなく会話を始める。

 「お名前教えてよ」

女性はチョキチョキと画面内の操作で切ることをやめない。

 「穏田 陽向です」

 「陽向さんかあ」

しばしの沈黙が流れ、僕は手元が滑って多く切りすぎてしまった。

 「あ」

ゲームのキャラクターが悲しそうな顔をしてコンテニューという画面を映し出している。

 「私は?」

女性はコントローラを置いて、僕を見ていた。

 「何がですか?」

 「名前聞かないの?」

僕はその質問に滞った。僕みたいな犯罪者が聞いていいような質問ではない。

 「個人情報なので・・・」

 「あ、そっか。気遣ってくれてるんだね」

女性は僕に視線を外してしまう。もう一度ゲームに戻ろうとしていた。

あ、ダメだって思った。

 「なんて呼んだらいい?」

女性は驚いて僕の顔を見た。

ゲームはすでに始まっていて、制限時間が設けられている。過ぎていく一秒がとても重く感じる。

 「偽名でもいいんだけど」

僕が久しぶりに人に近づいた瞬間だった。おこがましいのかもしれない。でもふと感じてしまった。僕と同じように心に潜んでいる孤独感を。

 「偽名?そうだ」

女性はいいことを思いついたように手を叩いた。初めて会った時と同じように何かを閃いたのだ。

 「陽向さんの好きな本を教えて」

 「え・・」

 「私の読んだ本でそういう登場人物がいたの。相手の好きな本の題名を名前とするんだ」

僕は考えを巡らせる。そしてきっと女性があまり望まないであろう小説の名前が思い浮かんだ。やめようかと思ったけどとても大切に思っている本だから正直に言うべきかもしれない。

 「・・・幸福の王子」

 「素敵だね。・・・・あれ?私、王子様になっちゃうの?」

 「ふはっ」

僕は笑いをこらえきれずに笑った。

 「そうだね。これからは君を王子って呼ばなきゃ」

 「思ってたのと違う」

僕は笑いがこみ上げて止まらなかった。

 「もっとロマンあふれる名前だと思ってたのに」

 「例えば?」

 「ティファニーで朝食を」

 「確かに。でもさすがに長すぎるな」

少しずつ笑いが落ち着いてきたとき女性は聞いた

 「どうして幸福の王子?」

 「・・・とても幸福そうに見えたから」

ふーんと女性は頷いて、

 「やっぱやめた」

と言い切った。

 「・・みのりだよ」

 「え?」

 「美しい祝いって書いて美祝」

彼女は笑った瞬間、僕の脳裏には愛しい人の笑顔がよみがえった。

きっと、だからだ

僕は泣きそうになってしまった。



 僕たちはあっという間に一本目のステージをクリアする。

 「人を見るなら、協力プレイだよね」

と美祝は笑っていた。僕はいつからか彼女に試されていたのかもしれない。

 「んで、ここからが本番」

美祝はにやっとした顔でもう一つのカセットを取り出した。表紙からの内容は簡単にイメージできる。

 「うわっ」

僕はコースアウトをして、亀みたいなキャラクターに引き上げられている。

 「陽向さん下手すぎ」

美祝は圧倒的な一位でゴールを決めた。

僕はコースに戻ってきて、大きなキノコに飛び乗る。

 「わっ」

簡単に弾き飛ばされて真っ暗な穴にそのまま落ちていった。

・・・・十二位。一面真っ暗な場面のまま順位が表示される。もう僕以外の選手はゴールに到着したみたいだった。

隣で美祝は爆笑。次は絶対にゴールを決めてやると僕は一度置いたコントローラーを手に取る。

 「陽向さん。下手のよこ好きかな?」

僕を煽り散らかす美祝は常にご機嫌な様子だ。

何度かゲームをしているとなんとなくコツを掴んできて、少しずつ上達が目に見えるようになってきた。美祝は初め、僕に考慮してくれていたのか、今では遠慮なく僕に亀の甲羅を投げてくる。僕のキャラクターは一回転をして、腕をじたばたさせていた。

「いひひ」と言って僕を追い越していく。なるほど。これがこのゲームの醍醐味らしい。         相手を蹴散らす。

僕の性には合わないが、・・・・ゲームなのだからしょうがないな。

僕はひたすら、?マークの箱を取っていろいろな危害を加えた。隣で小さくなった美祝のキャラクターを抜かしていく。確かにえも言えぬ爽快感があった。

 「やったな」

美祝は僕に一位になった僕に食らいついていく。まるでどんぐりの背比べかのように行ったり来たりの攻防戦を朝まで繰り返していた。



 やけにはっきりと聞こえてくるゲームの音が騒がしかった。どんなに夜遅くまで起きていても僕は必ず太陽の朝日で目を覚ましてしまう。昨日ゲームを長時間遊んでいたせいか体が少しだるい。足がむくんでいるような感じがする。二十代に入ってからがくんと年の甲?いや建物で言う経年劣化のようなものが一気に落ちてきて来た。多少無理をしてでもなんとかなってきた体調の悪化と食べたら食べただけついていく脂肪、夢にも思わなかった胃もたれを知ることになる。隣にはコントローラーが落ちていて目線で追うとその先に美祝が眠っていた。彼女は腹部を抑えて眠っていた。そこに妙な違和感があった。

僕は美祝の手をどかして、服をお腹までめくった。そこにやましい気持ちなんて何一つ感じない。美祝のお腹はとても真っ白で綺麗な肌をしていた。良かった。虐待などは受けていないようだ。服をもとに戻して、そっと頭を撫でた。触れた瞬間、気持ち悪くなった。意味も分からず。本能的に美祝を拒絶していた。僕は最低だった。ほんの少しの良心と彼女への同情に近いものが僕を動かしていく。決断は早い方がいい。僕は美祝の人生に確実に影を落とす存在になる。だから

 「さよなら・・・美祝」

僕は美祝に毛布とは言えない、古びたブランケットをかける。

 「陽向さん?」

美祝は薄目で僕を見ていた。意識が朦朧としているようにも感じられた。

 「かけてくれたんだ。ありがとう」

 「ごめん。むしろ、起こしちゃったみたい」

 「大丈夫だよ。嬉しかったもん」

美祝は柔らかく笑った。

僕はその場から立ち上がる。

 「どこへ行くの?」

 「ちょっとそこまで・・」

 「だめだよ。捕まっちゃうじゃん」

そう言った瞬間、彼女はがばっと起き上がった。僕の表情を震える目で見つめている。

僕自身を恐れているのか、僕が捕まってしまうこと自体が怖いのか、どちらかなんてわかるはずなかった。

美祝はいつまで僕といるつもりなのだろう。僕は大丈夫とは言わなかった。



 「陽向さん。どこ行くの?」

美祝は僕の袖を引っ張って子供みたいに首をかしげていた。

 「スーパー。冷蔵庫に何も入ってないからさ」

 「知ってる。人が生活しているとは思えなかったよ」

美祝はうんうんと頷いてから

 「私、パンケーキ食べたい」

と言った。

 「僕パンケーキ食べたことないよ」

 「えっ」

猫がしっぽを踏まれたような声を出す。まあ想像にしかつきないんだけど。

 「そんな人っているの」

 「いるよ。目の前に」

 「それじゃあ尚更作らなきゃ」

 「作れるの?」

 「作れるよ。私パンケーキ職人だから」

 「それは頼もしい」

美祝は聞きづらいように首元を書いたような仕草をしてから

 「予算ってある?」

と聞いた。

 「そんなことまで考えてくれるの?」

僕は驚いた。高いものを考えなしに買い物かごに詰め込んでくるイメージを勝手にしていた。

 「当然でしょ。私を何だと思ってるの」

何といえばいいか分からなかった。思っていることはあるけどどれを言っても怒られるような気がする。

 「・・・・・親戚の子供」

 「は?」

怒っている。表情を見なくても声色から伝わってくる。

 「私、今高校生ですけど」

 「成人になってないんだから、まだ子供じゃん」

 「なんかそういう意味で言ってんじゃない気がするけどなあ」

 「ははは」

笑って誤魔化す。とりあえず話題を変えよう。

 「他には?」

 「・・・お菓子パーティしたい」

 「ほら子供じゃん」

ついつっこんでしまった。

 「違う。女子会みたいなの想像したの」

 「ははっ」

今の会話の流れからよく言えたなと思った。まあ良くも悪くも素直なんだろう。歩いていくとスーパーが見えてきて、美祝は足を止めた。

 「美祝?」

 「あのさ、陽向さん。呼び方これでいいの?」

 「え?」

 「偽名使った方がいい?」

 「大丈夫だよ。人は他人のことなんて見ないから」

まだ不安そうな表情を拭いきれないまま。

 「私、陽向さんに捕まってほしくないよ」

とボソッと聞こえた。

 「ほら行こう」

聞こえないふりをしてしまった。

スーパーに着くと、美祝はとても大人しくしていた。昨日ゲームを買いに行った時とは明らかに気を使っていた。玄関から外に出ようとしたときに言われたのだ。

 「お願い。静かにするから連れて行って」

その表情は不安そうで、僕の身を案じているように感じた。美祝は朝のニュースを見ている。もしかして、もう僕の名前は加害者として取り上げているのではないかと思った。正直、いつか捕まってしまうことは確実だし、それがいかなる時でも受け入れる覚悟はある。美祝は僕から離れて、好きなものを見に行ってしまった。あまり目立つような行動はできる限り控えたい。考えすぎだろうけど食品を買い込んでいると不思議に思われてしまいそうなのでそこまで多く買わないことにした。

時間が経って、美祝はパンケーキミックスとお菓子。発育系の作るお菓子を持ってきた。何が入っているか分からないという理由で、今まで買ってもらったことがなかったそうだ。

大人になってもやりたいことをやる美祝に僕はちょっと羨ましいと思った。

 「欲しい物ないの?」

美祝は僕の名前を呼ばなかった。僕以上に彼女の方がずっと考慮した行動をしていた。

 「ないよ」

 「一つも?」

 「例えば」

 「夜ご飯をお菓子にしたいとか、アイスをひたすら食べていたい、とか」

 「思ったことないよ。でもする?」

 「私がしたいことは全部叶える。だから気にしなくていいの」

 「自由だもんね」

僕は軽く笑った。

 「あなたは?」

美祝の鋭い視線に固まってしまう。そんなこと言われるとすごく困る。考えたことなんてない。

 「今日はいっか」

そう言って美祝は歩き出す。それはいつか聞かせてねと言っているようなものだ。

安く食事を済ませたい。これ以上に考える基準が僕には存在していなかった。

お金を払って、スーパーを出る。まだ昼間だ。

美祝はエコバックに詰めた軽い方の袋を持ってくれた。

 「楽しみだな。今日はお菓子パーティにゲームもしようかな」

 ご機嫌そうな美祝の瞳にはいくつもの建物が星のように映っている。影のない瞳だった。

 「陽向さん」

 「ん?」

 「私の顔、何かついてる?」

 「うん。頭がついてる」

 「良かった。陽向さんは鼻毛がついてる」

 「嘘っ」

僕が顔を逸らした。何時からだ。もしかして朝から?

 「嘘。ついてない。」

 「からかうなよ」

 「からかうよ。辛気臭い顔を治す、おまじないみたいなもの」

美祝が言うとそれはさも正しいことのように感じてしまう。でも

 「ただからかいたいだけだろ」

 「ばれた?」

美祝はいらずらっぽい表情をして、軽く走り出した。

 「陽向さん。軽く走ろうよ」

 「なんで?」

 「陽向さんって不健康そうなんだもん。私だって心配になるよ」

美祝は足取りが軽く、僕の足は鉛のように重い。自分がこんなにも体力が落ちているなんて気づくことすらなかった。

 「競争の方がいいのかな?」

美祝は僕の顔を覗き込んだ。僕が腕を掴もうとすると簡単にするっとよけられてしまう。

美祝は走って少しだけ姿が遠くなる。

 「帰り道分かるの?」

 「分かんない」

そのまま、姿が見えなくなる方がいいと思った。その方が美祝のためになる。

 「もう遅いよ」

美祝は走って戻って来る。息を切らしている姿を僕は輝かしいと感じた。

 「話聞いてるの?」

声のトーンが一気に落ちて、

 「私の言葉届いてないの?」

悲しい顔をさせてしまった。

 「聞いてるよ」

 「ふーん」

美祝は大人しくなって、僕の裾を掴んだ。まるで置いていかれることをこわばる子供みたいで、そんな感情僕に示してほしくなかった。




 「今日の夜ご飯はパンケーキ?」

 「他の物も作れるけど美祝がそれでいいなら」

 「相変わらず、陽向さんは欲がないなあ」

美祝は優しく笑って、

 「知識がないと選択肢も自然と狭まっちゃうもんね」

とパンケーキミックスの袋をやぶいた。

初めて作るパンケーキは全土多難で、職人だと言っていた美祝は不器用なのか粉が顔につきながら一生懸命、調理をしていた。

 「陽向さん、猫背」

美祝は僕の背中をばしっと叩いた。

 「よし、ピーンと伸びた」

屈託のない笑顔で笑う美祝を僕は心からいとおしいと思う。

 あれ?

美祝の手はパンケーキミックスの粉で汚れている。ということは・・・

僕は鏡の前に立つ。後ろを向いて鏡を確認すると、黒い洋服は手の形をした粉がくっきりと残っている。ばたばたっと美祝がやってきて

 「ごめん。ひなたさ・・・」

僕の服を見るなり、顎が外れそうなほど口を開けて、顔を真っ青にさせていた。

まるで絵にかいたようなムンクの叫び。

 「あっはははは」

僕は美祝の髪をくしゃくしゃと撫でた

 「なんて顔してんだよ」

 「怒ってないの?」

 「そんなわけないだろ。ほら、パンケーキ焦げるよ」

美祝はよく見ると上半身が粉だらけでもしかしたら当の本人は気づいていないのかもしれない。美祝は弱火でじっくりと焼いたパンケーキをひっくり返す。とても綺麗な黄金色で、香ばしい香りが漂ってきた。

 「美味しそう」

嬉しそうに歓声を上げて、はしゃいでいる。僕はフライパンとひっくり返す道具で塞がっている美祝の顔を袖で拭いた。

 「汚れちゃうよ」

 「今更だよ」

美祝は少し照れくさいような表情をしていて、それが何だかおかしかった。

完成したパンケーキに切った苺を乗せる。スプレー缶に入った生クリームでデコレーションされたパンケーキはお店で出されている商品みたいだった。

 「食べる前に着替えてきなよ」

僕は美祝に大きめなTシャツを手渡した。

美祝は自分の服をまじまじと見つめて、自分がようやく粉だらけであることに気が付く。

 「そうする」

美祝は洗面台のドアを閉めて、着替えている間、僕はテレビをつけて番組をニュースに合わせた。

 「続いてのニュースは今、大学生に愛されている飲食店を調べてきました。」

若いアナウンサーが活気のある声でお店が映されたモニターに指を指す。

 そんなことが聞きたいんじゃない

僕たちが知らないだけで殺人、誘拐、強盗。あらゆる事件が言葉一つに溶けて、何の形も残さずに消えていく。事件を深く掘り下げるよりも日常生活に影響をもたらすことの方が圧倒的に視聴率だっていい。

虚しさと生きていくための気力が零れ落ちていくような気がした。

 「続いてのニュースです。」

さっきまでの特集はニュースでもなんでもないだろう

 「一昨日、××市に女子高校生、街風 美祝さんが誘拐された事件。犯人は穏田 陽向容疑者だと特定されました。容疑者と被害者は只今、行方不明であり、警察と被害者家族が懸命な捜索を行っています」

心臓がドクンとなった。

自分の起こした事件。

いつかは来る。理解していたはずなのに、

美祝の名前も晒されてしまった。

喉が渇く。僕たちはことの重要さをずっと切り離してきてしまった。その重みが全て落ちてきた瞬間に自分が壊れたくなった。

僕が美祝の人生に傷をつけたことを容認する。

酷く死にたかった。

 「陽向さん。どうしたの?」

美祝は着替え終わったんだろう。僕を呼ぶ声が不安そうに感じる。僕は急いでテレビを消した。振り向くとぶかぶかなTシャツに、着せられているようなイメージの美祝が腕をまくっていた。その姿はいつもの何倍も子供のように感じさせた。

 「食べよっか」

僕は美祝の肩を叩いた。彼女は僕の顔を見て

 「うん」

大切そうにパンケーキを受け取った。

 「いただきます」

二人で手を合わせて、パンケーキにメープルシロップを一周させる。

最後の晩餐にして、ふさわしいものだった。

僕は幸せだった。

口の中にパンケーキを入れた瞬間、顔中の筋肉が引きあがって、自然と顔がほころんでいた。幸せそうに笑う美祝とたわいのない会話。

誰かと関わる温かさがこんなにも泣きたくなるようなものだなんて知らなかった。

記憶の一つすら零れ落ちるのを惜しいと思うなんて初めてだった。

昨日と同じゲームで遊んだ後、美祝は早々に眠りに落ちてしまった。僕は彼女にブランケットをかける。もう起きることはなかった。

 「ありがとう」

視界が滲んでいくのを感じた。それでも足取りはしっかりとしていて、揺らいでしまうのではないかと心配していた決断は変わることがなかった。不思議だった。胸の中にじんわりと温かい炎のようなものがある。それが僕の体温を平熱まで温めてくれているようだった。

鍵を閉めることなく玄関の扉を閉める。

 「さようなら」

とても満たされた夜だった。



 僕はその後車に乗り、アパートから数キロ離れた公園で美祝が発見されるのを静かに待っていた。無線から聞こえるラジオでは交通道路の込み具合を放送されている。きっと行方不明の女性が発見されたとなると間違いなく速報で流れてくるだろう。僕はその時を波一つ立つことがない心で見守っていた。交通情報が流れ終わり、聞いたことのあるような音楽が流れ始める。言葉は一つ一つはっきりと聞こえているのに、遠くで会話を聞いているような気分だった。

美祝は無事に発見されること。それだけが僕の望みだった。美祝の笑顔を思いだす。

離れていても、もう会うことができなくても美祝は僕のすべてになっていた。それを感じていても怖いと思わないのは、美祝の人生を考えずに離れないという最悪な決断が頭によぎることがなかったからかもしれない。

僕は腕時計を見る。中の構造が見えるスケルトン式の時計は一刻と時間を刻んでいた。

ゆっくりと目を閉じる。

 ただ美祝のことをおもった。



 空が茜色に染まりだしても美祝は一向に発見されなかった。心の深い場所に不安が芽生え始める。

 美祝に何かトラブルがあったのだろうか?

ガスコンロなどの火はついていない。玄関の鍵も閉めなかった。何度も確認したはずだ。

・・・・・ならばなぜ、今もなお発見されていないのだろうか。火事となどのニュースは聞いていない。だから発見がおくれているだけで・・・心配することなんて・・

 「なあ・・・頼むよ」

美祝が無事であればいいんだ。ただそれだけがこんなにも難しい。

単純でかつ、最善の方法を僕は間違えた。

僕が美祝と警察に行けばよかった。

空を覆う真っ赤な夕焼けに群青色の夜が落ちてくる。発見が難しい、夜になってしまう。

 「・・・・・ニュース速報です。」

僕はがばっと顔を上げる。心臓がばくんばくんと脈をうっている。

 「三日前から行方不明とされていた。街風

美祝さんの衣類が○○市、▽▽川から発見されました。発見された衣類は誘拐当時、履いていた靴と見られていて、警察は街風さんが川で流されてしまった可能性があるとみて、捜査を進めています」

は?

なんて言った。川?何の話だ。

だってそんなところ僕たちは行ってない。

 「うっ」

喉の奥から吐き気がせりあがって来る。

僕は車から出て、人がいなそうな場所へ向かう。昨日食べたものをすべては吐いてしまった。美祝との出来事が全て走馬灯のように目の裏で通り過ぎていく。

 陽向さん

美祝の声で、僕の全てが壊れていく。

声が出せない。乱れた呼吸は肩を上下に動かして、立ち上がることすらできなくなる。指が痺れていく感覚から関節が固まっていく。

 「ああああああ」

僕が誘拐した。その結果、僕が美祝を殺した。

罪悪感と希望のように感じていた温かさが僕の首を締めあげていった。

僕の命なんてどうなってもいいから

美祝のことだけは・・どうか

目の前の景色が少しずつ暗くなっていく。

呼吸はもう活動を停止させようとして、僕は地面に崩れ落ちた。

動かなくなった指で美祝に触れた感覚を思い出す。同じところには行くことはできないだろうけど。


 「・・・・はああっ」

死ぬと思った一歩手前で僕の息は吹き返してしまう。

嫌だ、やめてくれ。頼むから。お願いだから。

必死に息を止めようとしても、体は思うように動かなかった。

僕の意思とは反対に生きようとしていた。

それが苦しくて、情けなくなった。

もう全て開放してほしい。大切な人がいなくなるたびに自分が壊れていくのを感じたくない。誰かを犠牲に生きていくなんて僕には耐えられない。

 「殺してくれ」

自殺することもできない。自分が何よりも憎かった。



 気が付けば体のだるさと、ぼーっとする頭で僕は美祝といたアパートに戻ってきていた。美祝が川に流されてしまった今、その場所はもう何もないのに。思い出にすがっていたいのか。僕はドアに手をかける。玄関は開いていた。それが一層、美祝がいなくなった現実を実感させられる。扉を引いて、部屋に入る。今日は満月で、月の光がいつもより多く地球に降り注いでいる。僕の家はカーテンがない。窓から一か所に光が集まる場所に美祝が立っていた。

まるで月の光を閉じ込めたような瞳と目が合う。美祝は僕を見て、泣きそうな笑顔で微笑んだ。

ああ、これはきっと僕の夢か、幻想なんだろう。僕は美祝を抱きしめる。

それでもよかった。

 「陽向さ・・・」

 「美祝」

僕は美祝を抱きしめたまま座り込んだ。

 「ごめん。ごめんな。こんなことになって怖い思いさせて、本当にごめん」

許されるはずもない、だからこれはきっと夢で

美祝は僕を許すような優しい目で優しく笑った。

 「陽向さん。違うよ。私はずっと陽向さんに救われてたよ」

僕はぼろぼろと涙を流してしまった。

もう二度と会えない美祝が滲んで見えなくなってしまう。そのまま消えてしまいそうで僕は袖で擦るように涙を拭う。

美祝はそんな僕の腕を掴んで

 「陽向さん。私、死んでないよ」

と言った。

 「え?」

僕は言葉を上手くかみ砕けないまま。

 「どこにいるんだ。今、助けに行くから」

美祝の手を取った。たとえ幻想でも全て夢であってもこの手を離したくはない。

もう二度とこの手を離さない。

 「違うよ。そうじゃなくて。私、川に落ちてない」

 「え?」

やっぱり意味が分からない。

美祝は生きているのか?

僕は自分の頬を殴る。

 「陽向さん」

美祝は心配そうに僕の頬に手を当ててをじっと見つめた。

 「何してるの」

分からない。

 「どうして」

生きていてくれればいいんだ。

 「陽向さ・・」

さっき以上にぼろぼろと泣く。美祝は僕を抱きしめた。

 「大丈夫だよ。私、ちゃんと生きてるからね」

抱きしめられた体温から、心臓の音から美祝が生きていることが少しづつ実感してくる。

温かい感情に苦しさが洗い流されていくようだった。

感情が落ち着いてきて、僕は美祝から身体を離した。美祝は優しく笑って、少し悲しそうな表情をした。

口を開けて何かを話そうとする。

でも美祝は何かがつっかえてしまったように言葉が出ていなかった。

僕は美祝の手を握る。ゆっくりでいい。美祝の気持ちを僕は聞きたい。ここで諦めてしまったら美祝はずっと何かを抱えてしまいそうな気がした。

美祝は僕を見て、笑った。そして、申し訳なさそうな表情をした。

 「陽向さん。あのね・・」

 「・・・・・」

 「私、陽向さんと居られて、すごく楽しかった。・・・・・本当に幸せだった」

 「・・・・・」

 「もっと一緒に居たいって思った。・・・・・でもね、違うんだよね」

美祝の頬から一筋の涙が零れる。

 「私と一緒に居たら、陽向さんの罪が少しずつ重くなっていっちゃうんでしょ」

 「・・・・・・」

僕ははっとした確かに、僕といることで美祝が世間体から悪く見られてしまう。

でもそれは僕の同じで

 「ごめんなさい。私気づいたの。私は最初の日、家に帰っていれば陽向さんが誘拐犯になることもなかった」

僕が誘拐したから、美祝はただの被害者でしかない。それなのに美祝はずっと罪悪感を感じてしまっていたのだろうか。

 「私がいることは陽向さんに迷惑かかるのに、分かってるのに私はそれでも陽向さんと居たかった。」

美祝はもう僕の目を見てくれなかった。

「・・・・・だから私、わざと川に靴を落としたの」

まるで自分の罪を懺悔するかのように、美祝は言った。

 「だから、私を川に落としたっていいよ。」

美祝と僕はようやく目がある。覚悟を決めたような鋭い瞳に目が離せなかった。

 「陽向さんが極悪人でも構わない。だから陽向さん、あなたに決めてほしい」

何を、なんて、言わなくても分かっていた。

 「私を今すぐ警察に連れていくか、それとも川に落としちゃうか、もし許されるのなら限りある時間の少しでも陽向さんと過ごしたい」

 「・・・・・・僕が美祝のお願いを無下にすることはないじゃないか」

 「・・なら、」

美祝は嬉しそうに顔を上げる。

 「でも、美祝も分かっているよね。」

ずっと一緒にはいられないこと。

 「僕と一週間、一緒に居てくれる?」

大切な美祝とあと少しでも過ごすことができたなら、僕はきっとこれからも大丈夫だと思える。

 「短いなあ。でも陽向さんらしいね」

 「・・・・・」

 「ありがとう」

僕は美祝と出会ってから、ずっと忘れられない日々を過ごしている。このままでいいのかと不安に思う。今でも離れるのがこんなに辛いのに、美祝を知ってしまったら離れられなくなってしまうのではないだろうか

 「陽向さん?」

それでもいい。心が裂けてしまっても、壊れても美祝の幸せを一番に考えていたい。

僕が誰かのことを考えるのはとても久しぶりのことだった。

 「まだ、美祝が生きてる実感がわかなくて」

 「ほっぺつねってあげようか」

 「大丈夫だよ。遠慮しておく」

美祝との他愛ない一言を僕はきっと忘れられないと思う。さようならはもう少し先で。




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