第一章 日常
包丁で肉を切り裂いた。その感覚は重く、切り裂いた部分からどす黒い血が広がっていく
「・・・・・・」
耳元で何か言葉を受け取った気がしたけど、気のせいだと考えずに終わらせてしまった。
包丁が落ちると同時に弾かれるように走り出す。
何も覚えていない。大切なことは・・何も
片頭痛と低気圧は関係ないらしい。私はベットでこめかみを押さえながらスマホの記事を眺めた。冷やすことで痛みが軽減されると書いてあったので冷却シートを貼った。だけど効果は感じられなかった。おすすめのツボを押してみたけど、やっぱり変わらない。
私はため息をすることすら億劫に感じながら二階の自室から一階のリビングに降りた。
「おはよう。頭痛い?」
母の問いかけに無言で頷きながら、テレビをつけた。音量を極限下げて、いつも見ている番組に変えた。天気予報のお姉さんが日本地図に棒を指しながら説明していた。梅雨前線だとか小笠原、オホーツク。単語の意味は分かるけど、それがお互いにどう影響しているか分からない。昔授業で習ったはずなのに残っているのは、聞いたことがある。その程度だ。社会の先生は一般教養だと言っていたけど、なら何故、時間のない朝に解説しているのか?私たち学生はずっと使っていくものなのか、その時に知ればいいものなのか、取捨選択をせずただひたすらに勉強している使わないな、そう思ってもなお勉強を続けている。
天気予報はどの県も傘マークばっかりで憂鬱な気持ちになった。きっと私だけじゃないだろう。
「学校行ける?」
母の不安そうな声に出来るだけ明るく答えた。
「大丈夫だよ。辛かったらいつも通り、保健室に行くから」
自分で言ってチクリと胸が痛んだ。不安がぬぐい切れないような母の表情を見ながら、口いっぱいに白米を詰め込んだ。おかずがないからか気持ち悪くなった。
私は合羽を着てから自転車に乗る。合羽は湿気を吸ってしっとりとしていた。私の髪の毛は横に広がって強く押さえる。私は梅雨が嫌いだ。一つもいいことがない。私は強い風にフードを飛ばされて、冷たい雨粒が顔にかかりながら懸命に自転車を漕いだ。学校へ向かう駅に着いた時には、お風呂上りみたいにびっしょりと髪や制服が濡れていた。これから一日が始まると言うのにぐっしょりとした気持ち悪い感覚が残ったままだ。合羽を脱ぐと雨水がぼたぼたと落ちた。近くの道路を歩く白く長い毛を持った大型犬が体をぶるぶると震わせた。私も髪を振ってみたが一滴も落ちていかなかった。犬と視線が合う。ぱっと突発的に私は目を逸らしてしまった。まっすぐに見つめる澄んだ瞳が頭に残る。胸の奥が冷えていくような感覚がした。
私は駅の階段を上がって改札を通る。すれ違う人たちの誰とも視線が合うことがなかった。
私は駅のホームに降りて、電車を待った。
「はあ」
口から出た息が白く濁っている。雨が降っているからか気温が冬並みに低い雨に濡れた服が体温を奪っていく。コートを着ている人やマフラーを身に着けている人もいた。
服装間違えたかな。
私はポケットに入れた手を出して、息を吹きかけた。かじかんだ指先にわずかな温かさを感じた。痛みがじりじりと指先から広がっていく。視界を落とすと足元にある黄色い点字のラインが汚れて色が抜け落ちていた。足を乗せた瞬間、通った電車に髪を煽られる。
髪が顔に強く当たって張り付いた。
待っていた電車が駅について、人の熱気であふれかえった車両に私は入る。目がちかちかするような情報が多い広告に嫌気がさして、窓の外を眺めていた。いつもなら見える住宅街と田んぼが雨に滲んで上手く見えない。私はカバンからお気に入りの本を取り出す。ブックカバーに包まれたそれを私は親指の腹で撫でた。本を読んでいる時間は何一つ考えなくていい。物語の主人公と同じように見たことのない景色にワクワクしたり、現実では決して体験することができない幸せを教えてくれる。でもその時間は長くは続かない。目的の駅に着いて、私は電車を降りた。お腹がチクリと痛い。私は横腹を抑えた。痛みは一瞬ですぐに正常に戻った。けれど胸いっぱいに広がった不安はなかなか消えてくれない。私は本を親指の腹で撫でる。
大丈夫、大丈夫。
深呼吸をして無理やり考えていたことすべてを飲み込んだ。魚の骨が喉に引っかかってしまったように何かが喉の奥でつっかえた。私は家から持ってきたミルクティーを飲む。甘さが体中に染み渡たっていく。私は本をカバンにしまって、定期券を取り出した。
改札を通り、駅の出口に向かうと人が込み合っていた。ブルーシートを持った大人がどこかへ向かい。遠くからたまに聞こえる不穏な音が状況を伝えている。ふと視界の端に何かが映った。
「ゴン」
いっ・・
すれ違おうとした男性の強い肩がぶつかってバランスを崩しそうになる。後ろを振り返ると人込みの中に溶け込んで、特徴すら分からずに消えていった誰かに感情が沸き上がることなく私はぶつかった右肩を掴んだ。
雨が風の影響を受けて、横殴りになって私の制服を濡らした。持っていたハンカチももう役に立たない。駅から学校に近いコンビニが見えてくるところまで歩くと、集団になった生徒が一段と目立つように見えた。
「おはよー」
声が高めの女子は傘をバタバタと揺らし、雨粒が私の顔にかかる。私を後ろから抜かして、前にいる、一人の女子生徒に話しかけた。
「おはよう」
傘の隙間から二つ結びの女子が嬉しそうに笑いかける。私はハンカチで顔を拭こうとして、ビクッとした。
もう役に立たないんだっけ
私は袖で顔を拭いた。濡れていたからあまり関係なかった。サブバックからワイヤレスイヤホンを取り出す。雨の日には雨にちなんだ曲の方がいい。景色と心情が溶けあったようにしっとりとした音楽は、波が立つ前のような不安定な気持ちを整えてくれた。
私は水たまりを踏まないように下を向いて歩く。雨の日のコンクリートの道は蛙やダンゴムシに出会ったことがない。私は虫がほんの少しだけ好き。強くなっていく雨に消えかけた歌を歌う人の声。雨に流されていく音楽。嫌いじゃない。
「あはは」
ふと脳天を突き破ってくるような聞こえた笑い声に私は足を止めた。誰かと傘がぶつかる。ふと時が止まったような静かさが私の周りを満たした。雨の音が耳に入ったのと同時に私は歩き出す。舗装されていない道でドロドロになった土が靴にしみ込んでいった。
こんな私にだって友達がいた。私は昇降口で靴を脱いで下駄箱に靴をしまった。上履きを取ると靴の裏に画びょうが刺さっている。靴の底が厚いから貫通していない。
「えっ、画びょう?」
私の隣にいた席がちかい須原さんが靴を覗き込んだ。
「貫通してない?・・良かった。」
私の靴を裏返しにして、画びょうを取ってくれた。
「普通に落ちてるとか怖いんだけど、廊下でたむろってる男子その内、お尻に刺されるんじゃない?」
「クスッ、そうかも」
須原さんはトントンと靴に踵を入れて、
「先生に渡してくる」
と手を振って行ってしまった。流石、学年委員、他の生徒とは真面目さが一段階違う。私は上履きをみる。靴の裏に空いた三つの穴が人の顔のように見えた。
こんな私にだって友達がいた。学校内によくいる四人組。二人組にだって簡単に別れられる。ちょうどいい友達。私は三階まで登りきって息を切らしていた。木製の手すりが命綱のように感じてしまう。濡れた傘をクラスの向かい側にある傘立てにおいて私は教室のドアを開けた。賑わう人たちの流れにすり抜けるように静かに自分の席に着いた。カバンを置いて、トイレから帰ってきただろう仲の良い友達に挨拶する。
「おはよう」
視線が一気にそそられて、空気に穴が開いたような感覚を得る。
「・・・・・・おはよう」
「でさあ、さっきの話なんだけど・・。」
すれ違う間、きらりと何かが光った。私はそれを拾う。宝石とは似ても似つかないそれを私はゴミ箱に捨てた。
私は席に着いて本を開いた。途中から会話にはいってもつまらないから。もう一度説明する時間なんてもったいない。それなら好きなことをして待っていればいい。時間は有限なのだから。それからでも・・
「ねえねえ」
肩をトントンと叩かれる。
「この問題分かる?」
次の数学の宿題を指さされる。少しだけ不真面目な生徒。答えだけ教えるのは癪だな。
だからといって何も言わない訳にはいかないし、しょうがない。困っている人をほっておけないのは私の主義みたいなものだから。
「分かるよ」
「ほんと!答えは?」
「この問題はね・・」
「申し訳ないから答えだけでいいよ」
努力を一瞬でもっていかれるような感覚。
少なくとも私はそんな都合のいい人間じゃない。
「今度テストで出るって先生言ってたよ」
「まじ?」
嘘。
この問題、先生の趣味みたいなものなんだよな。そう考えたら少しだけ笑いがこみ上げてきて、私は丁寧に教えてあげた。
結局、式を書くのは間に合わなくて、答えだけプリントに書くことになった。その子のプリントは人のものを見て移しました。と言っているようなもので、また笑ってしまいそうだった。
その後の授業は何の滞りもなく進んでいった。高校生になってからは授業に挙手することもなく、ただ聞いているだけで許されることがほとんどになっていった。もちろん緊張感の抜けていった授業に寝ている人もいた。進学校と言うわけではない。こういう人がいるのは当然といえば当然だろう。この日をきっかけに不真面目な生徒は私に答えを聞くことはなくなった。私がプリントを提出しようと籠を覗くと、不真面目な生徒の綺麗で簡潔な公式と答えが見えた。心のなかでぷつんと何かが切れたような音がした。
この日も特に変わりがなく日常が進んでいく。時間は歩みを止めないし、私も止める気なんてない。力になっていくかも分からない公式が頭の中に少しづつ積みあがっている。そして出来上がるのは頑固な正義感と古くなった価値観だけだ。私は上履きを見る。そこには穴の開いた、何の害もない深く刺ささった傷が人の顔のように揺らめいていた。
私の人生の目標
歩みを止めない。他の人がなりえない唯一無二の存在になる。その高い景色から馬鹿な奴らを嘲笑ってやる。
突然、体中の力が抜かれたように私は机に突っ伏した。私は右側のお腹に手を当てる。激痛が走った。勉強どころの話ではなかった。
先生が私の異変に気付いて、大丈夫?と声をかけに来てくれる。大丈夫なんてことはない。
でもいつものことだからいちいち大げさにしないでほしい。時間が経てば治るから、授業を止めないでほしい。
「はあ」
クラスの誰かがついたため息が教室に充満していくようだった。
私は保健委員に連れられ、保健室のベットに倒れ込んだ。保健室の先生は連れてきてくれた生徒にお礼を言って、扉を閉めた。何かあったら声をかけてね。そう言われて私は首を縦に振った。
過敏性腸症候群。これが私の病気の名前だ。
一般的には、お腹が弱い人。この一言で片付いてしまう。少しの刺激やストレスでお腹が過敏に動き、すぐにお腹が痛くなってしまう。
医師からお腹の動きを止める薬を処方されていたけれど、とてもじゃないけど飲める状況じゃなかった。お腹が痛くなってからでは手遅れなのだ。
痛みで何も考えられなくなる。わずかにある余裕で大丈夫、大丈夫と自分を励まし続けた。
痛みが緩和されてきて、ようやくベットから顔を上げた。
「先生」
「街風さん?大丈夫」
「あ・・はい。体調、良くなったので」
私はベットから起き上がろうとした。
「あ、さっき、同じクラスの生徒さんたちがあなたの荷物届けに来てくれたのよ」
「へ・・・」
「良かったわね。友達優しいね」
私は先生からリュックサックを受け取った。中を見ると、教科書がぎっしりと中に詰まっていて、一部の教科書の端がぐにゃりと曲がってしまっていた。私は教科書を取り出して、中に手を入れた。探すことを諦めてリュックサックを背負いこむ。
「無理しないでね」
先生はいつも通りの言葉を言って、手を振った。お辞儀をした瞬間にそのまま体制を崩しそうになった。お母さんが作ってくれたお弁当と授業に参加できますという言葉を言い忘れて、近くのショッピングセンターに向かって歩き出した。リュックが肩に食い込んで、骨が軋む音がした。
学校がなくなったからと言ってこのまま帰るわけにはいかない。私はショッピングセンターの開いている席に座って、人の流れを眺めていた。
人がごみのようだ
有名なアニメかなんかを思い出して、私はただぼんやりと行き違う人を眺めている。
平日なのに人が多いなとつくづく実感した。こんなに人が多いのにみんな私を見ては、不思議そうに歩いていく。それはそうだろう。
平日に近くの学校の制服を着た生徒がいたら、あれ?と思うのも分からなくないなと思う。
まあ、それは本人の想像に任せることにした。
私は毎日、学校の帰りに塾に寄って勉強してから帰る。塾が開く時間までこうして時間を潰しているしかない。参考書を片手に何をしようか考えていた。勉強以外の選択肢が欲しかった。気休めのようなのもでも良い。貴婦人と呼べるだろうおばあさま方が私の方向を指さして、眉をひそめていた。
あーあ。人に指さしちゃいけないんだよ。
見た目と人格がそぐわないなんて滑稽だ。
私はイヤホンを耳に入れて音楽を流した。
塾の時間になって、私はすれ違う講師であろう先生方に会釈をした。塾には自習室があるからそこで勉強をしていることが多い。席に着いて参考書を開く。シャーペンを持って、ノートに押し付ける。勉強しなければいけないとは意識しているもののどうして集中できないんだろう。唐突に苦しくなって本の世界に逃げ込んだ。すこしの息抜きが私にとってオアシスの水みたいに感じている。水を得た魚は深い湖の中に潜っていく。私という境界線が薄れていくのが心地いい。
「ピピピ」
私は急いでスマホのタイマーを止める。忘れていたこの後、授業があるのだ。憂鬱な気分が胸の中に広がっていく。それでもお金を払っているわけだから休むわけにはいかなかった
「こんばんは」
「こんばんは」
意図した誰かに伝えるわけではない機械的な挨拶を私たちは口先で転がしている。
授業を終えるとすっかりと日が暮れてほのかな街頭だけが道しるべとなっていた。人々の営みが消えた、都会とはとても呼べない街には星がわずかに輝く。私は自然と足を止めていた。深くため息をついて空を見上げる。滲んだ視界から星が放つわずかな輝きが目の中に広がっていく。地面に張り付いたように足が動かない。
何処にも行けなかった。
まるで重力の形が変わってしまったようにいきなり後ろに倒れそうな感覚が走る。時間が止まったみたいに、体が浮いたように感じて、私は反射的に伸ばした手を電柱に掴んだ。
突然引っ張られて何が起こったのか分からない。なのに悪寒が止まらない。
長い間、後ろに引っ張られ続けて私はようやく事態を理解していく。
私は連れ去られそうになっていた。
怖い怖い怖い
パニックになっていく頭で気持ち悪いほど視界がグラグラする。右から伸びてきた手を見て気づいてしまった。
あ、殺される。
身体が後ろに引っ張られて腕がちぎれてしまいそうなほど痛い。でもこれで捕まったら殺されると本能が告げていた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
生と死が頭をかき乱して、声も出なかった。
「・・・・・・・」
目の淵の熱さと喉を焼かれるような感覚のなか私は助けを求めていた。指が一瞬離れたのと同時に押し出されるように乾いた声が真っ暗な夜の中に散った。
「だれ・・か・・」
パタン
痛みを伴うこともなくそこで意識がと切れた。
・・・・・
・・・ ・・・・・?
あ・・れ・・?
腕が少しだけど動く
「あ・・」
私はゆっくりと身体を起き上がらせた。
頭が痛い。私は死んだんじゃなかったのか?ごつごつとしたコンクリートでもなく砂が張り付くわけでもない、外じゃない部屋の中に私は居た。ぼやける視界で私は必死に誰かから逃げようとした。少しずつはっきりと焦点が定まってきて、必死に出口を探す。散らかったゴミがちくちくと足に刺さる。犯人に見つかったら本当に殺されてしまうかもしれない。殺されなくてもおぞましい想像が簡単に次から次へと流れ込んでくる。その部屋は月明かりが差し込み、倒れていた誰かを私は気づいてしまった。
首から血を流した男の姿を。