料理長、肉を叩く
久しぶりの更新。読んでくださる皆さまに感謝です。
「前任の方は家業を継ぐために辞めたんだって聞きましたが」
「正しくは家業を継ぐために辞めたんじゃなくて辞めたから家業を継いだんだ」
聞いていた話と違う、とジョンは焦る。
「儂も辞める前の挨拶で知った。料理長も儂もそこまで深刻に思ってなかったんだ。『大奥様に報告すれば大丈夫』と伝えてたんだが、その『大奥様に報告する』事のハードルが奴には高かったんだと、辞めてから気づいた」
相手が悪くても告げ口を良しとしなかったのだろう、優しい奴だったから。と料理長が力無く言う。
「一度は大人しくなったマリーア様だが、スカーレット様が亡くなってマリーア様がアイゼン様と再婚するという噂が立つとまた態度が大きくなって色々要求するようになった」
「親方や料理長みたいに大奥様に報告する人は避けるようになったから気づくのが遅れたんだっけ?マリーア様、ちゃんと学習してるんだねえ」
「館内にもマリーア様の指示は絶対という考えを持つ者が増えていった。奴さんもマリーア様の言葉に従おうとしたが、もともと無茶な指示だ。ほとんど実行できず、マリーア様に従順じゃ無いと一部の使用人から嫌味を言われてたんだと」
「実は俺はジョンがマリーア様を『奥様』と呼ぶのはその辺の事情を知ってて持ち上げてるからだと思っていた」
客商売をしていたから世渡り上手なのかと思っていた、と料理長に言われてしまうと一ヵ月間料理の話しかしてこなかった事が悔やまれる。
「前任の方の事をもう少し聞きたいんですが。どんな指示を出されていたんですか?」
ジョンはマリーアがリンデン館の女主人だと信じていたのでこれまで可能な限り要望に応えてきた。それでも非常識なお願いはされていなかったと思うから、前任者が何の要求を苦にしていたのか分からないと告げる。
「それはジョンの前任が辞めたのと、先代様が儂を殴った原因を作った事を重く見た大奥様がお叱りになったからだ。態度を改めなければ、館の平穏を乱しているとヘルト様に知らせて処分を仰ぐと言ってな」
「猶予をあげるなんて、大奥様は優しいよね。でもヘルト様ってマリーア様のことものすごく可愛がってるんでしょ?許しちゃうんじゃない?」
「先先代様は規律を重んじる方だからな。館から追い出しはせんだろうが、反省文の提出では済まないだろう」
今は騒動がヘルトの耳に入るのをを恐れて大人しくしているのだろうと庭師は言う。早いか遅いかの違いでは?とジョンは思ったが「自分の口から自分に都合のいい言葉で伝えたいんだよ。贔屓されてる子がよく使う手段だね」なんてキッドに教えられ、そういうものかと感心する。
「奴は辞める時に『とにかく伝統を持ち出されて困った』と言っていた」
「伝統、ですか?」
「マリーア様は『昔ながらのやり方』がお好きでな。料理でも庭のことでもそれ以外でも、効率の悪い古い手順を強要したり、新しい品や方法を認めなかったりするんだ」
「俺は「出来ません」の一言で終わらせてたんだが。古い道具を持ち出してあれこれしてるのも、研究熱心なのかと思っていた」
「他だとワインの銘柄や食材の仕入れ先を変えろと強要されたと」
「あいつの権限じゃ無理なのにな。あいつに仕入れ先について聞かれた事はあったが、マリーア様の要求については言わなかった。非常識だって分かっていたからだろう。その時点で相談してもらえなかったのは、俺が信頼されてなかったせいだな」
「料理長、怒らせたらヤられそうな見た目だもんねえ。包丁持たせたら子どもが泣きだすよ」
「俺が肉を叩くところをニコニコ笑いながら見てるガキが何言ってるんだ」
「だって、分厚くて硬いお肉があっという間に薄っぺらくなるんだよ?つい見いっちゃうよ」
暗い話なのに緊張感に欠けているのは、間違いなく空気の読めないキッドのせいだろう。
「そうしているうちに、マリーア様を慕う者達が奴をさげすむ態度を取り出した。マリーア様の望む結果を出していないのは事実だったから、非難を甘んじて受けていたようだ。奴は一人で抱え込んで、心が疲れてしまった。要求をはねのける強さは無く、媚を売るには不器用すぎ、周囲を気にしない図太さも持ち合わせていなかった、それが前任が辞めた理由だ」
庭師は締めくくるようにそう言うと、ゆっくりと頷いた。次の質問を求められているのだと理解したジョンは一番気になっていたことを口にした。
「では、メイド長がマリーア様の事を堂々と『奥様』と呼んでいるは何故なんですか?」
「説明は任せた!」と言ったはずがちょくちょく口をはさんでくる料理長。
掃除婦もまだその辺で掃除してます。厨房の床がいつも以上にピカピカになるでしょう。




