あゝ慕情
初投稿
青い天蓋は、未だ白い雲に覆われて、その全貌をひた隠しにしている。”君”が引っ越すという話は、そうなる半年くらい前から既に知っていたことだった。彼の名前が書かれた黒板を背に、その口は開かれるのだろう。幼い頃に耳にしていたものより低くなったが、喉元の辺りで掠れた感じは、正しく”君”のものだ、間違いようがない。”君”は私のことを視界に収めていないだろうけど、私の視界で周りに座っているワイシャツやセーラー服の白色は、教室の壁や黒板の濃緑と同化している。ここに私がいるというのに、”君”は一体どこの誰を見て、他人行儀な自己紹介をしているのだろうか。
”君”は私の今の呆けた面を見て、何を思うのだろうか。教科書を読み上げる先生たちの声は、右耳から左耳へと通り過ぎていく。通り過ぎて行った先を、”君”が座っていた場所を、行間休みの間、HRが終わった後、放課後空がその青色を失うまで、私は見つめ続けている。今日も私は、何をするでもない一日を過ごしてしまうのである。まったく、”君”というやつは、私がこんな思いをしているというのに、どうせ他の女の子と仲良くしているのだろう。幼い時分に交わした言葉など、弱気な私しか覚えていないに違いない。
この間の夏祭りだってそうだ。淡い期待を帯にしまい込んで、誘ってもいない”君”と屋台を巡ることを夢見ていた。独りで輪投げをして、独りでポイをすぐ破いて、独りで射的の弾を打ち尽くして、私の左手を握り返してくる感触は、迷子の少女の柔くて温かいもので。もっと硬くてごつごつしている方が良かった。
一緒に大人になろう、というのも、十年近く年を重ねて、物心つくようになってくると、なかなかどうして叶えることが難しいと気づいてしまう。目的の停留所を前に、バスに揺られて立ち位置を直しているのが自分だけだということに気づき、今日も私は自分のつま先へ熱視線を向ける。
足で球を転がすのが好きだったはずなのに、”君”は今ではグローブとバットにお熱と来た。私は知っているのだ、ニチアサのついで、とか言って一緒に見ていた女児向けアニメで、鼻の下から水をが伸びていたことを。今はマネージャーの後輩の娘とか、クラスの大人しいあの娘とか、おしゃれをしているそこの娘とか、鼻の下で伸びているのは水ではなくなってしまったみたいだけど。私ももう、日曜朝に早起きするのは止めにして、高校受験の勉強でも始めようか。君がどこに行きたくなっても、一緒の高校に通いたいからね。
今日の授業中、辞書に目を泳がせていたら、「偕老同穴」だってさ。同じ時間を過ごして、同じ墓に入るらしいよ。同じ年に生まれたから、年を重ねるのは同じ早さだけど、私はそんな気がしないね。薄紅の吹雪が雨に流されていったら、黄色い絨毯になっていたよ。”君”が座ってた椅子に座ってみても、ここに残った微かな温もりは、もう三つ編みのあの娘のモノなんだよね。別に学校の物だから、”君”だけを感じ取ることなんて無理なのにね。”君”さ、今は教室のどのあたりに座っているのかな。”君”がいた方向を眺めていても、三つ編みの女の子しか視線を返してくれないから、もっと”君”を感じたいんだよね。
”君”はさ、高校はどこに行くのかな。あんまり難しいところだと、”君”のことを考えられる時間が減っちゃうから、その辺り気を遣って欲しいな。男子校に行く、なんて言われたら、ちょっと嫌だな。そうじゃないんだよね。校則は厳しくないところが良いな、私の目を小さくしてしまう黒縁とお別れした姿をお披露目するのに、サプライズがそれだけじゃ拍子抜けだろうからさ。教えてもらった”君”の席からは、やはり”君”ではなく、ハスキーボイスの彼女の視線しか返ってこない。
辺り一面真っ白、早いもんだね。元気にしてた?視界に黒い縁が無くなったから、”君”のことをもっと目に焼き付けやすくなったよ。電車で来たんだよね?私と一緒だから、駅まで歩こうよ。
”君”の右側で、バスが雪路を私たちと同じ方向へ走り去っていく。いざこうして一緒にいると、照れてしまうね。言いたいことは体の中で渦巻いてるけど、言葉にして口に出すことができない。”君”も黙ってないで、何か声を聴かせてよ。俯いてばかりじゃ、”君”の顔を盗み見れないでしょ。周りを同じ受験生が歩いてるけど、なんか”君”との距離の方が遠くない?ねえ、何か言ってよ。それにしても寒いね、手袋もマフラーもしてないんじゃ、相当堪えてるんじゃないの?私も寒いんだよね、風が冷たいし、寄って良いよね?
荷物を左手に持ち替えて、宙に浮いた私の右手を、冷たく、硬く、ごつごつした感触が二度、三度。勘違いじゃなくて、やはり照れくさくて、私は空を見上げることしかできない。
一緒の高校、行けると良いね。




