生と死と
前触れもなくふと、途方もない虚無感に襲われる。
命が終わってしまったような、既死感とでも言うべき感覚だ。
「なぁお前さん……」
そのことを告げると、隣に座る女が目を細めて
「子どもでも作ってみるか?」
こちらを見ることもなく、随分と軽い調子で言ってくれる。
「できるのか?」
「できた例はいくらでもある」
笑いながらそう言うと、彼女は二人の間に置かれたグラスを手に取り、口を付ける。
ほぅ、と息を吐く彼女からそのグラスを受け取り、爽やかな味のする酒を口に含む。
――きっと酒のせいだろう。余計なことを喋ってしまった。
少し後悔したものの、それよりも言葉に出した満足が勝る。
「どうせ死ぬのだ……いつ死を感じたところで自由であろう」
彼女の手によって、再び二人の間に置かれたグラスに一升瓶からトクトクと音を立てて酒が注がれていく。
「私たちが死んだのちも、愛し合った形が残る」
そう言って彼女はグラスを愛おしそうに眺める。
「愛し合った形なら――」
つぶやきかけた口に、彼女の唇が重なる。
舌先で唇をこじ開けられたかと思うと、冷たい液体が口移しに注がれる。
爽やかで、優しい酒の味。
ゴクリと鳴る喉を通って胸を熱くする雫。
満足したのか、離れようとする彼女の頭を抑え、今しばらくその味を堪能する。
もはや条件反射みたいなものだ。舌を絡ませながら思わず苦笑してしまう。
「文字通り、お前さんの全てが欲しい」
――命だけでは物足りぬ。
囁かれた耳元から、悪寒と快楽の両方が同時に流れ込んでくる。
「迷惑はかけないからさ」
しがみつくようにして抱き着き、なおも子を欲しがる彼女に思わず考えてしまう。
例えば、二人の子供を育てて、
幸せな家庭を築いて、
一緒に年老いていく。
それはきっと、想像もできないほどに幸せなことなのだろう。
望んだことすらなかった。
「いつか爺と婆になって、鴛鴦のように命を全うする」
どちらかの息が絶えた時に、後を追うようにして残された方も死んでしまうのだろう。
きっと己らは、そう生きる。
「そんな日々を、お前さんと過ごしたいと思っているよ」
なぜだろう。その言葉が酷く悲しいものに聞こえてしまう。
幾千の夜を共に過ごそうが、幸福を感じるのはいつだって一瞬だ。
それこそまるで、消えてしまう夢のよう……。
絹ごしに彼女の身体の柔らかさと、体温が伝わってくる。
夢のようなこの瞬間をこそ、生きている。
生きていることを実感する。
(あぁ、だからか……)
すとんと何かが腑に落ちる。
彼女と過ごしている以外の時間全てが、自分には最早なんの価値もなくなってしまっているのだ。
しがみつく彼女の、しっとりとした髪を撫でる。
熱を帯びた背中を撫でる。
「今この時が、永遠に続けばいいと思っているよ」
耳元で囁くと、ビクンと一瞬だけ彼女の体がこわばる。
「嘘つき」
悲しそうに笑って、彼女が己の体を押し倒す。
コトンと音を立てて、板張りの感触が背中に痛みをもたらす。
彼女の重みが、柔らかい手の感触が、ザラザラした舌の感触が、
己の心を捕らえて離そうとしない。
いいや、いいや。
離れるものか。離して、なるものか。
愛して、愛して、生きて、死んで。
辿り着く場所が何処であるのか。
今だけは……考えずとも……。
お返しとばかりに、彼女を抱き寄せ、組み伏せ、首筋に舌を這わせる。
彼女の漏らす吐息が、控えめな嬌声が、脳髄に染み込んでいく。
悲哀と愛情……様々なものが混じり合った感情が己の頭を占めていく。
もしも……己の逃げ場を殺してくれるその一言一言が、現実のものとなってくれるなら……。
お前と幸せになれるのなら……。
しがみつき、体をぴたりとくっつける。
最早それだけでは満足に至らない。
もっともっと、ずっと強く結びつきたい。
肉体も魂も、二度と離れないよう……。
生においても、死においても、
彼女以外のものに対する未練が、
すべて無くなってしまえばいいのに。
そうすればきっと、幸せになれるのに。
そうならないことが、そうできないことが、ただただ悲しくて……。
なんの覚悟も決まらぬまま、愛し合う夜は更けていく。