第4話 出会い(過去)編2
それは暗い部屋の端に蹲りぴくりとも動かない。厚手のカーテンは閉め切られ、街頭の明かりがわずかにその隙間から差し込むばかり。その場に立って暫く見つめても、存在は察せようが何であるかは分からないであろう。しかし虫の羽音のように微かに響くのをよくよく聞いてみれば、それが一応日本語の体裁をなしていると分かって、その塊が人間だと気付くに違いない。現実から逃れるように目を閉じ、体を抱きかかえながら、それでも儚い殻の中で懸命に選択に向き合っていた。
それが荒鷲燈火の向き合い方だった。
というよりも他のやり方を知らなかったに違いない。答えられない選択を迫られたとき、彼女には他者に相談するほど他人と関わろうとしなかったし、長く触れてきた本の中に逃げ込もうとしても出来ない程の生真面目だった。同様の理由で全てを運に委ねることも良しとせず、しかし時間は経てど答えは見つからなかったに違いない。
理想像を汚してまで声優をやるということに、純粋で潔癖な彼女は積極的になれない。物語と創造の世界に生きた彼女は、典型的な完璧主義な理想を薪に情熱の炎を燃やす人間であった。しかし他人との接触を恐れる一方で、それは無関心を装いながら、彼女の場合、極めて他者からの刺激にナイーヴであることの裏返しであった。ましてや、差し向けられた両親の期待を裏切り、ただ熱中を導に声優を志したのに、唯一の理解者のマネージャーの期待すらもまた裏切って、また新しくやり直すという勇気はこれっぽちも湧いてこなかった。逆に言えば、それを全て見抜いた上でマネージャーは態々意見を表明したのだと思い至っても、そこへの反感は微塵も沸かないのである。
このようなことを鬱々と自分の中で思考しているのだ。積極的理由の探索は諦めて、消極的理由の発見へと移っていくのもむべなるかな。当然そうなると、他人からのプレッシャーというどうしようもないものを孕む選択肢、つまり声優を続けるという方向へ移っていくのだが、それでも決意に至らないのは、一通りでない彼女の理想主義故であろう。
結果、認めたくない他人への恐怖心に抗えきれなかった訳だが、一方で理想主義を折ることは彼女の半生の否定であるように思いつめた。残された道はアイドル声優じみた存在への転身をもう積極的に肯定するのみなのだと、思われた。変わりたくない理由は、他者への接触、自らの公開、そして変質への恐怖なのだと断定しようとした。現実の克服と理想の到達のために、あえて変身するのだと、これは演技への情熱による弱さへの克服なのだと、俗物へと落ちるのでない、と極端に肯定した。
無論それは無理な自分の本質の捻じ曲げであって、大きな自己矛盾を孕んでいた。あと少しで折れてしまう枝のように張りつめた。盆栽では曲がった枝が直ぐになるのを許さないために、針金をかけると聞く。その針金が必要だったのだ、彼女にとってそれは仮面だった。本以外に今まで学んできたもう一つのこと、演技を彼女は生活へと昇華せざるを得なかった。
いつの日か仮面が顔に貼りついてとれなくなることを必死に望んで、最も恐れた。何者かに無遠慮に仮面を剥されることを必死に恐れて、最も切望した。矛盾はそのような感情として表出した。
日の光が僅かな隙間を引き裂いて部屋に差し込む。明かりが彼女の内部を暴露して、眩暈と痛みが彼女に夜が明けたことを教えた。
それから1時間ばかり後に、彼女は決心を伝えるために契約事務所へ向かった。何をしても声優を続ける、私にはこれしかもう残っていないと伝えるために。普段は酔わないはずなのに、夜更かしが祟ったのだろうか。電車が揺れるたびに頭の中はかき回されるように痛み、何度も何度も早朝の駅のトイレで吐いた。